#75 カルディア生誕祭 2.5日目 ~深夜の茶会~
いつの間にか、女性が腰を落ち着けているテーブルには、もうひとつのカップが置かれている。
「……え?」
思わず変な声が出てしまった。
いったいいつ置いた? いや、初めから置いてあったのか? そんなまさか。
周りには他に誰もいない。
となると、予め誰かのために用意していたという事ではなさそうだ。
「どうしたのですか? 少し、お話しましょう?」
「…………」
変な汗が流れてきた。
この女性の真っ赤な瞳に見つめられると、心臓の鼓動が早くなり、息が上がる。
別に敵意を向けられている訳でもないし、魔法を使われているような雰囲気でもないのに、心の奥底から、恐怖心が沸き上がってくる。
――今すぐ帰りたい。
そんなことさえ思ってしまう程だ。
…………。
いや、落ち着け。大丈夫だ。
この人は悪い人じゃない。"初"級冒険者だ。
前に出会った時だって、ミレリナさんに的確な助言をしてくれた。
その時の礼を言いたいと思っていたんだ。
心の中で、そう自分に言い聞かせながら深呼吸する。
何回かそれを繰り返すことでようやく……少しだけ落ち着いた。
「……?」
そんな俺の様子に、目の前の女性は微笑みながら小首を傾げている。
「そ、それじゃ……少しだけ」
取り繕うようにそう言いながら、俺は彼女の前に腰を下ろす。
改めて、目の前に座る女性を観察してみた。
ウェーブのかかった白い長髪に、キメ細かそうな白い肌が月明かりに照らされている。
その月明かり以上に強く輝いているのは、真っ赤な瞳だ。
俺のことなんて気にしていない様子で、今もカップを口に運んでいる。
次に、視線を目の前の机に落とす。
いったいいつの間に置いたのか分からないカップの中は、赤褐色の半透明の飲み物で満たされている。
「どうぞ。遠慮なさらないで」
「じゃ、じゃぁ遠慮なく」
少し口に含み、流し込んでみた。
柔らかな風味に、ほんの少しの心地よい渋み。スッキリとした後味だ。
俺がよく飲んでいる"珈琲"とは違った美味しさのこの飲み物は確か、"紅茶"だ。
「お、美味しい」
どっちかと言うと俺は"珈琲"の方が好みで、"紅茶"はあまり飲まなかったのだが、今回に限っては……思わずそんな声が漏れてしまう程の美味しさだった。
"紅茶"……良いかも。
「ふふ、良かったです。気に入ってもらえたようですね」
赤い目を細めながら微笑む女性に、こんな美しい人間がこの世に存在するのかと思った。
さっきまであれだけビビっていたと言うのに、紅茶を飲んで更に落ち着いたのか、少し心に余裕が出来たようだ。
「やっぱり、貴方とはどこかでお会いした気がします。それに……貴方の匂い。私の大切な友人と似た匂いがします」
「え……匂い? ですか?」
そう言えばさっきもそんなこと言ってたな。匂いがどうのこうのと。
試しに、自分の肩や腕の匂いを嗅いでみたが……うん。特に異常は無いように思う。のだが、こういうのは自分では分からないと聞く。もしかして俺って体臭がキツいのか?
「ふふ、安心して下さい。別に不快な匂いでは無いです」
なんて自分の体の匂いを確かめる俺を見て、女性は徐に立ち上がった。
そして――カツ、カツ、と足音を響かせながら、俺の傍まで歩み寄る。
優雅な彼女のその様子に見惚れていた俺に、顔を近付けてから――スンスン、と鼻を鳴らしたかと思うと、再び口を開いた。
「それに……貴方からは私の匂いも混じっているように思います。ほんの少しだけ……私の"血"の匂いが」
「は? え、血?」
言っている意味が全然理解できなかった。
何かの冗談か? と思ったがそんな雰囲気でもない。と言っても、大真面目という表情でもない。
血の匂いってなんだよ……。
と、呆然としている俺に――
「あら、これは失礼。今のは忘れて下さい。『あまり個人的な話はするな』と、友人にキツく言われているのです」
そう言ってから、再び椅子に腰を下ろした。
少し変わった女性だな。
「とにかく、少し貴方に興味がある。ということです」
「え? "匂い"で、ですか?」
「うふふ」
どっちだその反応は。
と言うか、その――俺と匂いが似ているという友人とは、どんな人なのだろうか。
それについて、少し訊ねようと思ったのだが――
「さてと、それでは私はそろそろ失礼させてもらいます」
「え? もう?」
そう言って立ち上がった。
どうやら帰るらしい。本当にちょっとしか話してないんだが……。
しかし見てみると、たしかに彼女の飲んでいたカップの中身は空になっている。
「少しでしたが、お話できて楽しかったです。またの機会があれば、是非お願いします」
優雅に一礼して立ち去ろうとする彼女に、俺は咄嗟に――
「あ、あの!」
「……なにか?」
呼び止めていた。
不思議だ。
見つめられれば、今でも押し寄せてくるこの感覚は多分……恐怖心だと思うが、最初程でもない。
寧ろ、『また会えれば良いな』なんて思っている始末だ。
怖いもの見たさ。なのかも知れない。
「名前! あなたの名前は?」
「あぁ、名前……ですか」
ちょこんと顎に指を添えて、彼女は自分の名前を教えてくれた。
「私、エシルと言います。"初"級冒険者のエシルです。エシルと呼んでもらって構いませんよ」
「……エシル」
「はい」
「この間は、俺の友達に助言をしてくれて本当にありがとう」
そう言って俺は立ち上がり、頭を下げた。
おそらく、エシルは北西の湖で俺達と会っていることを覚えてはいないだろう。
だが、それでもあの時の礼はちゃんと言っておきたかった。
ミレリナさんが詠唱魔法を完全に扱えるようになったのは、やはりどう考えても……このエシルの助言があったからだ。
すると――
「えぇ。私の言葉が、お役に立てたのでしたら……良かったです」
未だ頭を下げたままの俺に聞こえてきたのは、そんな声だ。
もしかして、覚えてた?
そう思って俺は慌てて頭を上げた。
のだが……。
「……いない」
既に、そこにエシルの姿はない。
マジで何者だよ。
深夜の大広場の一角で独り佇む俺は、そんなことを思いながら視線をすぐ傍の机に移す。
ソコには、さっきまで俺が飲んでいたカップひとつだけが、今も置かれていた。
~
翌日。
カルディア生誕祭3日目の朝だ。
昨日は何故かぐっすり眠れた。
そして俺――いや、俺達はいつもの教室で、それぞれ自分の席に腰を下ろしている。
教室にいるのは俺とルエル、そしてミレリナさんだ。
特にこれと言った会話は無く、ただ待っている。
もうすぐ約束の時間だ。となると――
やはり、今日もユエル教官は時間丁度に教室にやって来た。
スタスタと進んで、俺達の目の前に立ち、軽く見回してから口を開いた。
「おはよう。貴方達が模擬戦の参加を決めてくれたこと、本当に感謝しているわ。"教官"としては勿論だけど、それ以上に私個人としてね」
そう言ってニコリと微笑んだ。
「……それじゃ、行きましょうか」
教官の言葉に合わせて、俺達は立ち上がった。
カルディア生誕祭3日目。
今日、これから始まる模擬戦に参加するために、俺達は大広場へと向かうのだ。
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