裏2.覚醒
※R-16G注意
彼女の血は、とてもとても甘いのです。
「おしおき」
目の前で茫然としていたクローディアは、予想通り彼を責めませんでした。
本当はここで、誰かに盗られる前に"盗ってしまおうか"とも思ったのですが、
『お慕いする人がいるから』
ちらりと、彼を見て。
微笑んでくれたから―――彼の悪霊のようなそれは、災いを降らせる前に去ったのです。……多少の爪痕を残して。
「お人形ごっこ、しよう」
クローディアを連れ去り、頬の処置が終わるのを待っていた夕凪は、「お人形ごっこ…」と渋り顔の彼女に触れます。
柔らかな頬の輪郭を伝い、細い首まで指を這わせて。擽ったそうに震えるクローディアに、夕凪は「お人形は動かないよ」と指摘します。
執拗に首元で遊ぶ度に、「くすぐったいってば」と笑う彼女の無邪気さに、思わずこの指を、ぐっと。
(―――駄目だ。これは、信用の現れなんだから)
……けれど、もしも、彼女が彼の信頼を踏みつけたら。
その時は。"本当の"お人形ごっこをしなければ、なりませんよね……?
*
彼女は、何やら寒気がすると言って、早々に寝込んでしまいました。
(きっと、あの魚男が迷惑かけるからだ)
クローディアがお断りの手紙を何度も何度も、頭を悩まして書いていることを、彼は"当然ながら"知っています。
仕事だけでも忙しそうなのに、途切れない男たちからの手紙のせいで。……そう思うと、とても簡単で面倒な想いが首をもたげてきます。
「―――お嬢様、起きていらっしゃいますか?」
「!」
侍女の声です。
夕凪はクローディアの面倒を見る身ですから、彼女を起こさずに扉を開けました。
「あ、夕凪様……」
「どうかした?」
「えっと、お嬢様宛てにお花が……飾らせて頂けますか?」
侍女が花瓶ごと持ってきた花―――とても綺麗な花です。
侍女はそっと隠しましたが、目の良い彼には見えてしまいました。……一輪の花に紛れ込ませるような、鱗。
(あの男だ)
けれど夕凪はそれを顔に出さず、「ディアは今寝てるから、俺がやる」と花瓶を無理矢理受け取ります。
侍女は困惑していましたが―――彼が勇者であることを知っていたので、黙って部屋を去って行きました。
扉が閉まると、彼は丁度良い場所を探って、
がしゃぁぁんっ
「夕凪!?」
寝惚けた彼女の頭が覚醒する前に、彼は破片を拾ってたくさん血を流しました。
「ごめんなさい、虫を払い落そうとしたら―――」
「いいのよ。…それより他に傷は?」
「大丈夫」
優しい優しい彼女。
初めて認めてくれて、ちゃんと許してくれて。そして導いてくれる。
そんな彼女に花を送っていいのは自分だけ。こんな小汚い花は贈られてはならない。
薄汚い鱗ごと花を踏みつぶすと、少しだけ気が晴れました。
そして――温まるようにと紅茶を淹れようと支度している彼女に気付かれないように、花を暖炉に捨てて。灰に変わるのをわくわくと待ちながら。
「何が飲みたい?」
「ルイボスティーかな」
―――全部、燃え尽きてしまえ。
*
―――それは、彼があまりのしつこさに、いい加減終止符を打とうした夜です。
眠りから覚めた当初の目的は喉が渇いただけなのですが、窓の端が仄かに明るくて、気になって覗いてみれば人魚の紋章入りの馬車がやって来るではありませんか。
しかし出てきたのはあの男ではありません。従者らしき男が、小箱を持って執事長に渡しています―――忌まわしい、贈り物を。
(そうだ、"忌まわしい"贈り物にしてしまえ)
彼は素足のまま、そっと眠る彼女を起こさないように出て行きました。
「隠密」の加護を使い、向かう先は保管室―――ですが、執事長が階段を上がって来るのに気付いてすぐに隠れます。
「どういたします?」
「お嬢様は夜食を嫌いますからなあ…」
痛まないように、料理長に預かっててもらいましょう。……そう聞こえて、夕凪は静かに窓から飛び降りました。
走って走って―――柵すら超えて。彼は休憩中の白い鳥を見つけて、高く飛び上がりました。
「くぇっ」
首を掴んで、鳥が余計に暴れる前に、板チョコを割るように鳥の首を折りました。
そして今度は館に引き返して、静かになった厨房に忍び込みます。
ここに来て最初の頃、気の良い青年が「つまみ食いする時はこっち、あっちのは駄目」と教えてくれた扉を開きました。
四方が氷の壁で食材を安置している―――その奥に、お目当ての箱はありました。
「早くしないと」
呟いて、夕凪は鳥の目玉に指を突っ込みます。
八つもある目玉を抜き取るのには苦労しましたが、全部抜き取ると黒眼を揃えて串に通しました。
「もっと酷くしないと」
包丁も使わずに腹を掻き出して、内臓を潰して。ソースのようになった鳥の脳味噌はお腹に。
ハンバーグを捏ねるような音しかしない部屋で、彼は一生懸命工作をしました。
綺麗に元と変わらないラッピングをした時は、一安心したものです。
「帰ろ」
贈り物を元の場所に戻して、彼は本来箱の中に在るべき食べ物を掴むと、とてとてと厨房を後にしました。
クローディアに「危ないから言っては駄目よ」ときつく言われた沼まで、また柵を越えて行くと、ぽいっと捨てて。
引き返し、やっと部屋に戻る頃には彼女はやっぱりぐっすり眠っていて、彼はのんびりお風呂に入りました。
そして赤くなったシャツを火を付けた暖炉の中に入れて、じっと温まり。
夜が明けるまで、彼女の寝顔を見つめていました。
「きゃああああああああああああああ!!!」
甲高い悲鳴。……目覚めると、尻餅を着いて小動物のように震えるクローディア――ああ、アレを見たのか、と夕凪は事態を把握しました。
「ディア、大丈夫?」
何と白々しい言葉でしょう。
夕凪はそっと彼女の肩を抱きしめると、涙目の彼女が夕凪を見て、更に涙が溢れそうになって、必死に堪えていて―――不覚にも、舌舐めずりしてしまいました。
「ゆ、なぎ―――駄目よ、見たらいけないわ」
自分がいっぱいいっぱいでも、それでも彼を気遣う彼女が、愛しくてたまりません。
いっそ、このまま彼女の耳元で、
『俺がやったんだよ』
―――そう、言ったら。彼女はどんな顔をするのでしょうか。一生懸命叱ってくれるのでしょうか。それとも……?
「……うん。……ディアも。身体に悪いよ」
そう。きっと、このままだと。……もっと、心臓に悪いことになる。
―――今まで我慢を強いられてきた夕凪ですが、こんな所で全てを滅茶苦茶にするほど愚かではありません。
彼は大事に大事に、彼女を抱き上げました。
*
―――そして、現在に戻ります。
あんなに泣いていたクローディアは、目を擦りながら夕凪に告げるのです。
「私、会いに行くわ」
「!」
「手紙のままじゃ、泣いて終わりじゃ舐められたままだもの。ちゃんと、この口で真意を問うわ」
「ま、待って…」
「私が帰って来るまで、夕凪は此処に居て。いい?絶対外に出ては駄目よ、危ないから」
大変マズイことになりました。
だって、このままでは事の真相がバレてしまいます。彼の拙い計画では、愛しの彼女は泣いて怒って怯えて、「もうあの人なんか知らない!」と関係を切って二度と会わない――と、なっていたのですから。
誰かを陥れるどころか他人の感情など気にせずに生きてきたせいで、全然駄目駄目の計画になってしまった……――しかも彼は口下手ですから、上手に騙しつつ行かないように誘導する、なんてことも出来ません。
どうしよう、どうしよう――――ああ、そうだ。
「……ディアが言うなら……」
「良い子ね。…大丈夫よ、すぐに帰って来るから。まず明日会う約束を取り付けないとね」
虚勢を張って微笑む彼女は、すぐに手紙を書きました。
書いて、何度か読み直して。執事長に手紙を渡し―――不意に、影が差したのに気付きます。
「夕凪?」
どうしたの、と振り向いたら、無表情の夕凪にお腹を殴られました。
けほ、と咽て、ずるずると扉に持たれるように倒れて。
「ディアのためなんだ」
ぷつりと真っ暗になった世界で、泣きそうな震えた声だけが、聞こえてきました。
*




