悪役令嬢20 檻の外
ヒロインがいた場所が爆撃されてから、そろそろ二十四時間が経過しようとしていた。
あの爆撃の後、騎士たちはあれを『魔法ではない何か』──魔法具で物理的に攻撃しているのだと看破し、速やかに魔術師たちに応援を要請した。
魔術師たちは後方からの魔法攻撃を中止し、一先ずはミサイルを防ぐことに尽力した。その結果、最前線以外はミサイル攻撃を防ぐことが出来ていた。魔術師たちも防ぎきれない最前線は、人力をもってして対抗している。それでなんとか、今のところは拮抗状態を保てていた。
とても攻撃に転じることなど出来ないぐらいギリギリの状態が、ずっと続いていた。
行方知れずのヒロインも、どこにいるのかわからないままだ。
暗鬱とした空気が漂い始めている王城の一部屋で、
「ニシーケ、そろそろ見物行かないかい?」
「えー。私、昨日のでもう飽きちゃったんだけど。夜に出たくないし、今日はそのままお家でボードゲームでもしてようよー」
「だから僕は、この戦争を見届けるのが仕事なんだって。行こうよー」
「やーだー。私はお仕事じゃなくてプライベートだもん」
「僕は仕事だもん。いーこーうーよー!」
「知らないし。やーだー」
今日も今日とて、北二人組は子供のようなやり取りをしていた。
昨日は二人して最前線に行っていたらしいが、汚れ一つないまま帰ってきて、ホロメス殿下を交えて仲良く食事していた。初日のあの激戦にもまれても無事だなんて、本当にニケ嬢はすごいと思うし、そんなに余裕なら助けて欲しいとも思う。
「ねえホーロマ、聞いた? ニシーケ、僕の仕事邪魔するんだよ!」
「私は仕事じゃないし、ロイキーの仕事がどうなってもどうでもいいし。ねえホーロマ、私なんか間違ったこと言ってる?」
そして二人してホロメス殿下に絡みに行って、背中からのしかかり、
「っ五月蠅い! 暇なお前たちと違って私は忙しいんだ邪魔するな!」
殺気立っているホロメス殿下に振り払われる。
二人とも「きゃー」とか「ホーロマが怒ったー」とか楽しそうに逃げて、またすぐ「だから僕は仕事するためにさー」「だからいい子で二人で遊んどこうって言ってるのにロイキーがー」と引っ付いて、怒鳴られて逃げている。あそこだけは何故か幼稚園の一角みたいね……。
「だから! 五月蠅いって言ってるだろう! 黙れ!」
「いや、ホーロマが一番五月蠅いよ」
「イライラしてても仕方ないって。ほら、ホーロマも僕らとお菓子食べようよ」
「はあ!?」
「じゃあ私、肩揉むよー。これでも侍女のマッサージさせられてるから上手いよー?」
「ねえ、僕本気で君と侍女の関係がわからないんだけど。じゃあ僕、温かいおしぼり持ってきて毛布かけて頭撫でるー」
「ホーロマ、いい子いい子」
「お疲れ様、ちょっと休もうホーロマ」
ホロメス殿下はかっかとしていたけど、ニケ嬢に肩を揉まれて、ヘルヘイムの王子におしぼりと毛布かけられて頭を撫でられ、眠ってしまった。
ニケ嬢とヘルヘイムの王子は眠ったホロメス殿下からそろそろと離れて、音を立てないように二人でハイタッチをした。
「よし、これで監視がいなくなったな」
「遊び放題だね。私、ホーロマのお部屋探索したい」
「僕は今のうちに脱走した風に見せかけて近くでニヤニヤ見てたいな」
「じゃあやろっか」
「やろっか」
「おい待てお前ら」
きゃー、と駆けだしそうだった二人を起き上がったホロメス殿下が止め、大人しくしてろ、とお説教を始める。
これが王太子、敵国の王族、重要拠点の血族なんて、いろいろ心配になるわね……。真面目に見れば三つ巴なのに、どうして『ひまわり組の仲良しのお友達たち』になるのかしら。百歩譲っても、悪童たちよね。
ぼーっと眺めて現実逃避していたら、オルペウス様が来た。
オルペウス様は顔色が悪く、アポロン様が心配して話しかけても、あいまいな返事を返すばかりだ。
どうしたんだろうかと思っていたら、周りがざわざわと五月蠅くなり始めた。
そして。
「っ……!」
オルペウス様がびくりと肩を揺らした。
私たちの前に駆け込んできたのは、一人の美しい女性だった。
地味だが質のいい服に身を纏い、思わず見とれそうになる、輝くような強い瞳を携えた女性。
アポロン様もあっけにとられている。
先ほどまでじゃれていたホロメス殿下も彼女を見て、
「──ああ」
と、静かに言った。
なんだ、お前か、と言うような声だ。
そっけないような、冷たいようなその対応に、しかし女性は笑みで返した。
自分こそが世界の中心で正義であると言うような、自信にあふれた笑みだった。
「──やあ、従兄弟殿」
とても、格好いい姿だった。
アポロン様たちははっとしていたが、私もそれで気付いた。
ホロメス殿下を『従兄弟殿』と呼んだ彼女は、アポロン様たちの従姉妹の第一王女だ。
現在の国王陛下には兄君がいて、本当なら兄君が王となるはずだった。でも兄君は王位を継ぐ前に、王太子の身分のまま病死したため、王になることはなかった。
彼女はその兄君が、侍女に産ませた子供だ。
世が世であればホロメス殿下やアポロン様ではなく、彼女のほうが継承権上位にいたはずだった。女で侍女の子だから王位を継ぐ可能性はほとんどなかっただろうが。
彼女はホロメス殿下より約半年ほど先に生まれ、ホロメス殿下よりずっと魔力があり、魔法にも適性があった。幼い頃はその特殊な生まれにありながら、明るく真っすぐな子供だったそうだ。
だが、とある事故から魔法を封じられ、継承権も完全に奪われたと聞いている。
名前は、アテナ。アテナ殿下だ。
「久方ぶりだというのに突然で悪いが、頼みがある」
アテナ殿下はホロメス殿下の視線をものともせず言った。
「聞く気はない」
「人を紹介して欲しいだけだ。すぐ済む」
「今は忙しい。後にしろ」
「今でなければいけないんだ」
冷淡な対応をするホロメス殿下に、アテナ殿下は笑みを崩さず、余裕のにじむ態度で言う。
「今、ある貴族のご令嬢が囮に行き、浚われてしまっているんだろう?」
「それがどうした」
半ば幽閉され、長らく世間から隔絶されていたアテナ殿下が現状を知っていることにも驚いたが、それを、『それがどうした』なんて言葉で、本当にどうでも良さそうに受け流すホロメス殿下にも驚いた。
知らされてないが、知ってるぞと笑うアテナ殿下。
その程度のことがどうかしたのか、と表情を変えないホロメス殿下。
……これが、王族なのか。
そっと、隣のアポロン様を見た。
アポロン様は動じず、ただじっと二人を見守っていた。何かを見届けるように、見て覚えようとしているように。
……私は、この人の隣に立てる人になれるのかしら。
いいえ、ならなくちゃ。
「私は魔法は封じられたが、魔力は失っていない」
「いくら魔力があっても、魔法が使えなければ意味がないだろう」
「いいや、私は魔力を持ちながら魔法を封じられたため、人の魔力と魔法を感じ取ることが出来るようになった。端的に言えば、浚われたご令嬢の位置がわかる」
アテナ殿下の言葉に驚いた。
ホロメス殿下も、さすがに驚いたようだ。
現在のヒロインの居場所が分かるということは、敵の拠点の一つも分かるということだ。勿論彼女を助けに行くことも出来る。それは大きい。
「そこで従兄弟殿、頼みがある」
アテナ殿下は堂々と言う。
「人を紹介して欲しい。場所はわかるが、正確に知るためにはやはり近い方が良い。少人数で行くために、囮となった令嬢を救出と護衛を同時に行え、敵の拠点からも無事に帰ることの出来る人を」
「……従姉妹殿、自分の立場をわかっているのか? 王族を捨て駒には出来ない。拠点は知りたいが、大体の位置で構わない。危険を犯す気はない」
「危険を犯さなくても、出来る人間を、紹介して欲しい」
何を言っているのか、と顔をしかめるホロメス殿下に、相変わらずの余裕でアテナ殿下が言う。
「従兄弟殿は、親交があるのだろう? 北の砦、クローデンス屈指の防御魔法の使い手、クローデンス辺境伯の長女殿と」
はっとして、思わずニケ嬢を見てしまった。
確かに、ニケ嬢はそのぐらい余裕で出来そうではある。いや、間違いなく出来るだろう。
でも、彼女は協力する気がない。だから、ヒロインも一人で囮となることになったはずで……。
いえ、そもそも、どうしてアテナ殿下はホロメス殿下とニケ嬢が親しいことを知っているのだろう。私たちもそれを知ったのはつい一昨日だったのに……。
ニケ嬢は無表情でホロメス殿下の一歩後ろに立っている。その彼女の隣に立っているヘルヘイムの王子はニケ嬢のほうを探るように見ている。
「従姉妹殿」
ホロメス殿下が息を吐いた。
「確かに私は個人的に知り合いで、彼女はそう思っていないそうだが、私は彼女のことを友人だと思っている。故に従姉妹殿の申し出は断る」
「友人だからか?」
「それもある。友を好んで死地に送るつもりはない。たとえどれほど友が強かったとしても、友が望まぬことを強制させはしない」
きっぱり言い切るホロメス殿下。ニケ嬢はそれに無表情を崩さず、ヘルヘイムの王子は少しニケ嬢を突いていた。こんなときだけれど、本当にこの三人は仲が良いわね。
アテナ殿下は笑みを深めた。
「そうか、従兄弟殿に良き友があるようで喜ばしいばかりだ。それで、まさかそれだけではないな? 私たちは、王族であるぞ?」
「当たり前だろう。国のためならば、友だろうが情だろうが使う覚悟は常にある」
ホロメス殿下は当たり前のように言って、「だが」と続けた。
「私たちはクローデンスを従わせることは出来ない。それは歴史からも明らかだろう。それから、……クローデンスに王族が頼んだとしても、ただクローデンスの機嫌を損ねることにしかならない」
「私は王族の血こそ流れているが、継承権も剥奪され、国政にも影響力を持たない存在だ。従兄弟殿よりは、交渉の余地がある」
「私には従姉妹殿が上手くやれるとは思えない。この戦時下で無暗にクローデンスの怒りを買う真似をするな。現状が、わかっていないわけではないのだろう」
「かの者たちは専守防衛だと聞く。私には彼らと攻撃する意思も敵対する意思もない。何、もしものときは私を切り捨ててもらえば良い。無関係を突き通せば、私一人で許してもらえるだろう」
「ならば私に紹介を乞うな。自分で見つけ出して交渉しろ。私を巻き込むな」
「つれないことを言うな、従兄弟殿。私は一切の権限を失っているのだ。かの令嬢を探すことを命じる兵も従者もいない。令嬢の顔も知らない。従兄弟殿しか頼る相手がおらんのだ」
「ハッ、では静かになるな。──後で陛下に話を通しておいてやる。後方から拠点捜索に協力しろ。それだけでも十分に助けになるだろう」
「頼む、従兄弟殿。その後、異国に嫁にやるなり下賜するなり好きにしてくれていい。どうか、頼む」
アテナ殿下は頭を下げる。王族が頭を下げるなんて、よほどだ。
ホロメス殿下は顔をしかめる。
「どうしてそこまで、あの令嬢を救いたがる。お前とあの令嬢は何の関係もないだろう」
「……一つは、脅されたからだ」
「……脅された?」
ホロメス殿下が片眉を上げる。
それはそうだ。いくら権限を失ってるからと言っても、王族を脅すなんて、そんなこと一体誰が……。
そんな豪胆なことをする人なんて……。
ふと、アテナ殿下が顔を上げて、私を見て、微笑んだ。
「ああ。ある男前な友人がな、自分のお嬢さんのためだと、大恩ある領主の娘を助けろと、脅してきた」
「……あの事故の騎士か」
ホロメス殿下も何故か痛ましいようにアテナ殿下と、私を見た。
なんなのかしら。
お嬢さん、という言い方や、ヒロインの領にいたっていう経歴、それに豪胆で男前って情報から、脅したのがハデスのようだけど、……どうしてハデスがアテナ殿下と、事実上幽閉されてる王族と親交があるのかしら。
今はお父様のほうについてもらってるけど、帰ってきたら問い詰めましょ。従者なのに秘密が多いのよね、ハデスは。
「それからもう一つ」
どう問い詰めるか考えいたら、アテナ殿下が今度は、私から視線をすいっと滑らせた。
「かつてのように、目に映る全てを助けたいと言うほど子供ではなくなったが、手が届く範囲で助けられるものがあるのならば助けたい。今ぐらい……」
見る目の先にいるのは、オルペウス様。
「──好きな男の前でぐらい、格好をつけさせろ」
え。
えっ。
えーーー!?
思わずアポロン様とオルペウス様とアテナ殿下をぐるぐると見てしまう。
アポロン様は友人の春ににやにやしているし、アテナ殿下は格好いいし、オルペウス様はぽかん、としている。
爆弾発言に驚く私たちを置いて、アテナ殿下は「というわけだ。頼む」とホロメス殿下に視線を戻してる。
ホロメス殿下は頭を押さえて、はあー、とため息を吐いた。
「……従姉妹殿、彼女は手ごわいぞ」
「承知の上だ」
「……この貸しは大きいからな」
「ははは、私にもまだ貸してくれる良き友人、良き家族がいて幸せなことだ」
「…………はあああー……」
ホロメス殿下はまた大きく息を吐いて、面白がっているヘルヘイムの王子と無表情のニケ嬢のほうに視線を向けた。
「ニシーケ、ついでにロイキー、紹介させてくれ。私の従姉妹で現陛下の兄君の忘れ形見、アテナだ」
「いつも従兄弟殿が世話になっているな」
「従姉妹殿、こっちはヘルヘイム第二王子兼侵略指揮官のロキ・ヘルヘイム。こっちの無表情のほうが、従姉妹殿のお目当てのニケ・クローデンス辺境伯令嬢だ」
「どもー。ホーロマとは仲良くさせてもらってますー」
「お初お目にかかります、殿下」
ホロメス殿下の紹介に、アテナ殿下は笑みを、ヘルヘイムの王子はからかうような笑いを、ニケ嬢は無表情を返した。
「王族ではあるが、一切の権限を失っている。かしこまらなくていい」
「そんなこと言ったら、捕虜の僕は自分の生殺与奪権すらないけどね」
「左様ですか。ではご無礼をいたします」
アテナ殿下は態度を変えない二人に何も言わず、「時間が惜しいので不躾に失礼するが」と前置いて、
「力を貸して欲しい」
「この捕虜は私の所有物ですが、そのような交渉の一切に応じることは出来ません」
頼み、断れた。
ニケ嬢のこの断り方……わざと、よね? ヘルヘイムの王子が苦笑いしてるもの。
「私はあなたに……」
「継承権はなくなれどその身に流れる血は王族のもの、でしたか。クローデンスに属する私も、爪の先までもクローデンスでありますね」
アテナ殿下が訂正しようとした言葉を遮って、ニケ嬢が言った。
その声は感情を感じさせないもので、何を考えているのかはわからなかったが、ニケ嬢が牽制していることはわかった。
言うな、と言っているのだ。
ニケ嬢らしくない遠まわしな牽制に、ヘルヘイムの王子がホロメス殿下に目を向け、アテナ殿下とニケ嬢の間に入った。
「お嬢さん、取引なら僕としよう。僕も東のやつらのことは気になるし、僕が動けば監視役のニシーケも付いてくる。ニシーケと直接交渉するより勝率は高いと思うよ」
人懐っこい笑顔でヘルヘイムの王子はアテナ殿下に言う。
ニケ嬢は、動いていない。
「……そうか。ならばお願いしよう。私の望みは囮となった令嬢の救出の手伝いと護衛だ。対価には何を差し出せばいい?」
アテナ殿下は賢明にも、空気を読んだ。よくわからないけど、ニケ嬢を怒らせるのは怖いから、良かったわ。
ヘルヘイムの王子も同じ気持ちのようで、「何でもいいなら後で決めるよ」と対価の話を掘り下げず、「ただ、邪魔しないでくれ」と遠ざけた。ヘルヘイムの王子はニケ嬢の間合いをわかってるみたいだから、任せておけば大丈夫でしょう。ホロメス殿下も黙って見ている。手を出さないのが吉ね。
「ニシーケ、これから出かけようと思うから、一緒に来てくれないかい」
ヘルヘイムの王子は軽い言葉で交渉を始めた。
ニケ嬢とホロメス殿下の交渉は見たけれど、この二人の交渉は見たことはない。じゃれ合いではなく本当の交渉なら、一体どうなるのかしら。
「もう飽きたから、このままのんびりしたいって言ったじゃん」
ニケ嬢はにべもなく断る。けど声に含みはないし、じゃれ合いの時と何も変わらない。
「僕のおやつあげるから。お願い」
「やだよ。退屈すぎて暇になるのに」
「本でも持っていけば暇潰しになるんじゃないかな。あっちでピクニックとか、楽しそうじゃないかい?」
「本読むなら室内で読むよ。暗くなるのに」
「僕は外に出たいんだよ。明かりを持っていけばいいだろ?」
「そんなことしてまで外で読書しないよ。偵察なら昨日したじゃん。昨日ロイキーの遊びに付き合ったんだから、今日は私に付き合って部屋でボードゲームね」
「もう昼間遊んだじゃないか。これからは外遊びしようよ」
「私は今日、外遊びしたい気分じゃないんだよー」
ぶーぶー不満を言っているけど、絶対に嫌、というほどではない。少なくとも、アテナ殿下に対していた時よりは交渉の余地がありそうだ。会話して、交渉出来ているんだから。
「僕はこれが仕事なんだって。このために来てるんだから、お願い。聞いてくれないなら、あとで侍女に言いつけるよ?」
「うーん、テミスに叱られるのはやだなあ」
『侍女に言いつける』で考えるような気配になったニケ嬢。そういえばいつものニケ嬢の侍女が今はいないわね。きっとニケ嬢を押さえ込むために家から来ている優秀な侍女なんでしょう。
「じゃあ仕方ないから、付き合うよ。でも、後でもらうものはもらうからね」
「わかってるって。ありがとうニシーケ」
ニケ嬢は仕方なさそうに了承した。ヘルヘイムの王子、というより、ニケ嬢の侍女はよほどすごいみたい。
ヘルヘイムの王子は、話がまとまってからアテナ殿下とホロメス殿下のほうを向いた。
「ニシーケが守ってくれるのは僕だけだから、お嬢さんは僕が守るよ。護衛は専門外だから、ニシーケほどの完璧な守りは期待しないでくれよ。ホーロマ、黙って、見送って」
「ああ、ありがとう」
「……」
アテナ殿下は笑顔で礼を言い、ホロメス殿下は無言で頷いた。
でも、緊張感は失われない。
どこかぴりぴりした、動くことを許さない雰囲気が漂っている。
「クローデンス辺境伯令嬢にも、ご迷惑を──……」
その中で、動いたのはアテナ殿下だった。
地雷が見えていて、避けられないものだからあえて踏みに行ったのだろう。
そのアテナ殿下の言葉が終わらないうちに、ホロメス殿下が「従姉妹殿!」とアテナ殿下の腕を引いて下がらせ、ヘルヘイムの王子が素早くニケ嬢の前に立ち彼女の腕を掴んだ。
「今は、僕と話してたから。君には関係ない」
飄々として軽いヘルヘイムの王子が、真剣な、必死にも聞こえる声でニケ嬢に言う。
ホロメス殿下もアテナ殿下の腕をきつく掴みながら自分の後ろに下がらせている。
ニケ嬢は、無表情だ。
「気にしてくれてるのはわかるけど、私そこまで頭でっかちじゃないよー?」
無表情で、のほほん、と形容するのがふさわしいような、ネズミの取り方も忘れた飼い猫のような声で言った。
ホロメス殿下の顔が盛大に歪められ、ヘルヘイムの王子の顔が引きつった。
「……さっきまで、あのお嬢さんに、話すな、言うなら斬るって牽制してたの、誰だい?」
「私だけど」
「なのに今話しかけられて、何もするつもりじゃなかったの?」
「逆に何が出来ると思ったの?」
ニケ嬢の声は生暖かさと呆れが含まれていた。無表情ながら眼差しも生暖かい。
「そりゃ幽閉されてたお姫様にどうこうされないぐらいには鍛えてるけど、専門は防御だよ? 護衛の兵士もいるのに、その人たち倒してどうこう出来るほどの力はないよ。防衛特化型を舐めてもらっちゃ困るね」
「自慢でもないこと自慢げに言わないくれるかな。……でも君お得意の啖呵でも切られたら、僕としては都合がいいけど、クローデンスとの関係が複雑になってたんじゃないかい?」
「んー? それこそわかんないんだけど……」
ニケ嬢は不思議そうに、ヘルヘイムの王子の後ろのホロメス殿下と、その後ろのアテナ殿下を見る。
「うちとの関係って言っても、そっちがどんな対応しても、こっちは徹底防御だけだよね? 攻め込みでもしない限りどんな扱いされても対応同じなんだから、ここで多少私と仲が悪くなっても影響ないでしょ」
そ、そう取ることも出来る、の?
あんまりなことをしたら文句を言うけど、普通にしてたら不干渉だから機嫌を取る必要もないって……理にはかなってるかもしれないけど……。
「それに今の私の立場って、単なる『一族の娘』じゃん。当主の言葉でもないんだから、そこまで重んじる必要はないよ。子供がぴーぴー泣いてお菓子買ってって騒いでるようなもんだし」
ニケ嬢は辺境伯でもないし、家を継ぐ予定もないだろう。私が実家の権力を振りかざしてるような状況なのかしら。
それならあまり大きなことは出来ない。脅すぐらいならともかく、実行はお父様に止められるでしょう。ニケ嬢もそれと同じなのかしら?
「……じゃあ、僕たちが止めなかったらどうするつもりだったんだい?」
ヘルヘイムの王子は胡散臭そうな目をニケ嬢に向けた。
ニケ嬢は、
「北に招待しただけだけど」
何でもないように、『宣戦布告する予定だった』と言った。
クローデンスの戦場は北であるため、『北へ来い』と言うのは戦いに来いという意味があるらしい。勿論普通の、『遊びにおいで』という意味でも使うらしいが、この場の雰囲気では宣戦布告だろう。
このインフェルノ相手に忙しい時に、何をしようとしてくれてるの!?
ヘルヘイムの王子も「やっぱり怒ってるじゃないか!」とツッコんでくれたけど、ニケ嬢は「そんなことないよー」と、ほけほけとしている。
「脅す前に私を利用しようとしないでって注意したし、北においでーって言ってもこっちから攻撃する気なんてなかったから。これで弟なら話持ちかけられた時点で激怒して剣抜いてたと思うから、口頭注意で済ませるだけなんて全然怒ってないよ。実際、怒ってないし」
「君は怒ってないかもしれないけど、君の行動が怒ってるように勘違いさせるってこと、いい加減自覚してくれないかい? 君じゃなくて、君の周りの人が困るんだよ」
「怒ったときは怒ったって言うよ。言わないから、怒ってないんだよ」
「言わないだろ。ホーロマに怒った時も言わなかったし」
「え? ホーロマに怒ったっけ?」
ニケ嬢はうーん、と考えるような仕草をした後、「あ、もしかして嘘吐いちゃいけませんって叱ったこと?」と言って、「あれは楽しんでただけだろ」と否定されていた。
ヘルヘイムの王子は呆れつつ、「そうじゃなくって、囮のために君に協力しろって言ったりしたときだよ」と言って、「あー、あれね」とニケ嬢も頷いた。なんだか力が抜ける会話だわ……。
「あれ、別に怒ってないじゃん。ていうか、怒りたくないから困ってたでしょ?」
「困ってたけど、怒ってただろ」
「怒ってないよ。だって迂闊なこと言ってたら困るのはホーロマだよ? 私とか、あとうちの優秀な侍女はいいけど、あんなこと父上にでも言ったらどうなってたかわかんないよ。弟なら絶対ホーロマ斬り捨ててたね。情に厚くってまだまだ周りが見えてないから」
のんびり、けらけらと王太子を斬り捨てると言うニケ嬢。
ホロメス殿下の顔もヘルヘイムの王子の顔も引きつる。
「……確かに君の弟さんは後先考えずそういうことをしそうだし、護衛がいてもそう出来る能力があると思うけど、……同じ国内でそこまでやるのかい?」
「多分やると思うよ。うちの領民に、うちの領民として同じこと言えば、きっと処刑されることになっても同じことするよ。もしかしたら、うちの侍女でも怒っちゃうかも。言われたのが私なら黙っててくれるだろうけど、侍女自身に言ったら、怒っちゃうだろうねえ」
「あの侍女怒らせたくないんだけど……。本当に、なんで僕たちが許せてホーロマたちが許せないの?」
「ロイキーたちは良くも悪くもお隣さんで交流があるからねえ」
ニケ嬢はのんびり言い、「脅さなくていいなら脅さないよー。一緒にクローデンスの悪口大会開くー?」とホロメス殿下に手を振った。待って。ちょっと待って。
「……つまり君があれだけ脅してたのは、他のクローデンス領の人間の不興を買わないためで、君自身は怒ったりはしなかったってことかい?」
あ、ヘルヘイムの王子がまとめてくれた。
「うん。因縁って言っても昔の話だし、けなされて馬鹿にされても問題ないし、怒るようなものでもないでしょー。兵の士気に関わるところはきちっとするけど、それ以外であんなかたっ苦しいこと言いたくないしー。平和が一番だよ」
それにニケ嬢が呑気に答えた。
脱力するというか……そうよね。
ニケ嬢も元は日本人で、戦地に生まれてもそういう性格になっちゃうわよね。
ニケ嬢は「うちの侍女は私がそう思ってること知ってると思うよ?」と呑気に言っている。今までは、味方の侍女が上手く誤魔化してくれてたのかしら。いえ、あれだけ脅せるなら怒ってないとは思われないわね。
「脅さなくっていいなら、ホーロマたちのお願い聞くのも吝かじゃないよー。人命救助、大事だもんねえ」
さらにここまで言って来た。
「は? ……いいのか? あれだけ、拒んでいただろう」
「クローデンス的にはよろしくないけど、多分大丈夫。はぐれ者だし、私が個人的になんかする分には何も言われないよ。あ、侍女には怒られるかな。あと父上に厳重注意受けるかも。でもそのぐらい? 未熟な若輩者の身分振りかざせば、元から諦められてるから気にされないよ」
かるーく笑うような雰囲気と声で言うニケ嬢。問いかけたホロメス殿下も顔をしかめているほど、軽い。
「だが、……立場があるだろう」
「領内での私の立場って、変わり者のうつけ者だからねえ。兵からの信用はあるけど、子供が私しかいないわけでもないし、いなくなっても困らないぐらいだよ。だからロイキーと遊んでもホーロマのお世話しても、あの昼行燈だから仕方ない、で終わると思うよー」
「え? ニシーケって本当に領内で昼行燈扱いされてるの? 君のいつもの冗談じゃなくて? 君を昼行燈扱いするような領なの? 侍女に随分舐められてると思ってたけど、もしかしてあの扱いが普通なの? 嘘でしょ? さすがにそれはないよね?」
ヘルヘイムの王子が驚いてニケ嬢に詰め寄ったが、ニケ嬢はへらへらとした雰囲気だ。
「昼行燈もいいところだよ。嫌われ者じゃないだけマシなぐらいだし、私がヘタレだからって私の指揮下に入るのを嫌がる人もいるぐらいだよ」
「ヘタレ? 君が? 嘘だろ? 確かに始終ふざけてるしジョークのセンスは皆無だし馬鹿みたいなことしか考えてないけど、君がヘタレ? 君がヘタレなら、クローデンスは鬼神の巣窟か?」
「否定は出来ないね。うちの領民は強いから。私なんかごく潰し、血筋がいいだけの木偶の坊だよ」
「……君の自己評価が低いだけであることを願うよ。もし本当にそうなら、クローデンスが恐ろしすぎる」
げんなりとヘルヘイムの王子が離れる。
……クローデンスには近づくたくないわね。平和主義な日本人が嫌われるようだし。
「だからホーロマ、救出について行くのはいいよ。アテナ殿下はロイキーが守るから、私にはロイキーとアフロディーテ男爵令嬢を守って欲しいんだっけ?」
「……従姉妹殿、アテナは守らないのか」
軽いニケ嬢に、ホロメス殿下は重く言った。
ニケ嬢の表情は崩れないし、声の軽さも変わらない。
「ロイキーは強いから大丈夫だよ」
「……私の護衛を依頼しても、断られそうだな」
「なんで? ホーロマが守ってって言うなら、私が出来る範囲で守るよ? ロイキーもだろうけど、ホーロマのことは弟みたいに思ってるんだから。守ってってお願いしてくるなら、守るよ」
「じゃあ従姉妹殿は何故だ」
ホロメス殿下が、ニケ嬢たちをじっと見守っているアテナ殿下を見る。
ニケ嬢もアテナ殿下を無表情で見る。
「ホーロマとアテナ殿下は違うでしょ。ロイキーとも、同じ学校のクラスメイトで、皆のために押し付けられた囮を引き受けたアフロディーテ男爵令嬢とも違う。勿論、目の前で殺されそうになったりしてたら助けたいとは思うし、出来る範囲で守りはするよ。でもどうしても守らなきゃいけないとは思わないかな。私が護衛のお仕事引き受けたわけじゃないし」
「ていうか誤解されてそうなんだけど」と困ったような雰囲気に変わる。
「ヘルヘイムに対してと違って、タルタロス本国に敵意はないよ? やっぱり平和が一番でしょ? 殺して土地奪おうとしてるヘルヘイムに対してだって、こっちから攻め込んで潰そうなんて思いはないよ? するのはあくまで防衛。ずっと土地や命や財産狙われてたってヘルヘイムを攻める意思はないんだから、タルタロス本国にそこまでの敵意があるわけないよ」
「さんざん脅しておいてよく言うものだな」
「ヘルヘイム相手なら威嚇攻撃なしで殺してるよ。脅すのは踏み込むなって警告してるだけだし、不干渉を守ってくれてる限りはそれなりの扱いするでしょ? 踏み込んで来たら、二度と踏み込んだりしないように、警告として斬り捨てたりするだけで」
「……王太子を斬り捨てても『警告』か」
苦々しそうなホロメス殿下と対照的に、ニケ嬢は朗らかだ。
「警告だよ。例えば力を貸せって言われた時に、普通にそれを断ったら面子がなんとか言い出して、無理やり従えようとして、北まで来てもらうことになるでしょ? そうしたら一人どころじゃなく死ぬよ。だったら最初から脅した方が被害が少ないよねえ。こっちも、怒ってるの我慢するより怒ったまま斬り捨てちゃったほうがストレスたまんないし。適度に脅して馬鹿なこと言わなくなるなら、そのほうが平和でしょ?」
……核保有は抑止力で、核保有のため均衡が生まれて平和になってる、って前世の話を思い出したわ。これ、そういう極端な話よね。
ヘルヘイムに友好的なのは、威嚇なしで戦争してるから、脅す必要がないからなのかしら。私たちはクローデンスの恐ろしさを忘れがちだから、わざわざ脅しているのかしら。
どうであれ、やっぱりクローデンスには行きたくないわ。
「しかし迂闊にお前に頼めば、北に呼ばれるんじゃないのか?」
ホロメス殿下が脅しがなくなったことについて言及する。
「警告しなければ、要求は調子に乗るだろう。後々争いにならないように警告するのなら、今はどうだ? 警告を止めたのは、北に呼ぶからか?」
「ってわけでもないんだよねえ」
ニケ嬢は困ったような雰囲気で、苦笑しているような声をしている。
「私が脅すのは、私に対するように他の領民にしてたら大変だからってことで、正直私にするだけなら別にいいんだよねえ。何言われても断るだけだし、面倒になったら北に来いって脅しても、脅し文句ってだけで実行する気はこっちにもさらさらないし。ロイキーとの軽口ぐらいただの冗談で、ただクローデンスが軽んじられないように、軽んじて斬り捨てられないように言ってるだけなんだよ。あと真面目に断るのが面倒だから脅してるところはあるかな」
うんうん、とニケ嬢は頷く。
「だから私がどう言われて、その結果クローデンスが軽んじられても、軽んじた人が困らないなら別にいいんだよ。私はそのぐらいで怒らないし、言いつけたりする気もないし、私の侍女ならそういうの聞いても私に期待するのは諦めてるから目を瞑ってくれるだろうし。でも他の人が聞いたり、うっかり軽んじて戦い吹っ掛けたら死ぬから注意してるだけなんだよ」
「……それは本当か?」
「うん。領主ともなれば違うけど、ただの娘だからねえ。個人的にどう行動しても、個人の範囲を越えないなら問題ないよ。敵のロイキーの怪我治したって、個人的にやってることなら問題ないし、父上がヘルヘイムの元大将と仲良く文通してたって個人的なことだから何も問題ない。タルタロス王家に関しては、警告しなきゃいけないし、ヘルヘイムみたいな敵じゃなくて、一応味方だからこそいろいろ恨みは溜まってるし、それが発散できなくて鬱憤が溜まって対応が厳しくなってるところはあるけど、ただ配慮してるだけだからねえ。個人的に敵と仲良く遊べるんだから、警告しなくていいよって言うんなら、親切しちゃいけない理由はないよ」
まああくまで私には、だけどね。
ニケ嬢は何でもないようにつけたして言った。
……それなら。
私は一歩前に出る。
「ではクローデンス辺境伯令嬢、アフロディーテ男爵令嬢を助けていただけますか? お礼は、用意しますわ」
アポロン様がぎょっとしたけど、止めないで、と視線で制した。
ヒロインが囮になって、捕まったのは私の責任だ。
もし救出してくれるなら、ミーア公爵家の一人娘かつ王族の婚約者という立場で動けない私に代わって助けてくれるのなら、お願いしたい。
「お断りいたします」
が、一言で断られた。
……顔が歪まないように、一度息を吸う。
「……理由を、聞かせていただけません?」
「はい。私がアフロディーテ男爵令嬢の場所を知らないからです」
そういえば行方不明だった。
でもそれはアテナ殿下のおかげでわかるから……。
「では、場所がわかれば、受けていただけますか?」
「いいえ、無理です。私は攻撃が出来ませんし、この争いにおいて、私は部外者です。勝手な行動で作戦の邪魔をするわけにはいきません」
ん?と思ったら、ヘルヘイムの王子が呆れたような顔をした。
「別にいいじゃないか、僕らの戦争じゃないんだし。依頼されたのはご令嬢の奪還で、タルタロスの援軍じゃない。それにご令嬢を連れ帰れば拠点が一つ使用不可能になるし、ご令嬢が生きていればそこから多少の情報は聞き出せる。作戦はすでに大半が失敗してるんだから、気にすることもないさ」
この作戦は敵の拠点を暴き、それを叩くためのものだった。
ここでヒロインを救出したら、拠点を把握したことがバレて、敵はその拠点を放棄して新しい拠点に移るだろう。そうしたら振り出しに、いや拠点を探っていることがバレて状況が悪化する。
奪還と同時に拠点を叩き情報を持ち帰るなら意味はあるが、ニケ嬢は攻撃が出来ない、と言った。専守防衛のクローデンス領として個人的な行動でも攻撃は出来ない、ということだろう。
敵国の王子もあてに出来ないし、アテナ殿下は魔法を封じられている。ヒロインが無事ならヒロインに攻撃してもらえばいいけど、……そもそも魔法チートのはずのヒロインが浚われてしまっているんだから期待は出来ない。
「作戦が失敗したかどうかを決めるのは私じゃないからねえ。ターンライト伯爵とは知らない仲じゃないし、横入りして壊しちゃうのは悪いよ」
「一日経っても音沙汰ないんだから、失敗だよ。だから救出しようとしてるんだろう?」
呑気なニケ嬢に、ヘルヘイムの王子が返答する。
そう、たとえ作戦が完全に失敗するとしても、ヒロインには救出するだけの価値がある。魔法が通じないから救出できない、というわけじゃないのなら、敵の戦力を知ることにもなるし、ぜひ救出して欲しい。
でも、遂行中の作戦の邪魔は出来ない、という大義名分は強い。
「ロイキーも指揮官ならわかるでしょ。作戦中一番やって欲しくないのは、勝手な独断行動。救出したいならきちんと指揮官に報告して、草案を提出して、許可を得てから動かないと」
「でも君はそのレベルの軍事行動には干渉しないし協力もしないんだろ?」
「個人レベル超えてるからね。『作戦』に干渉はしないよ。それは『個人』が首突っ込んでいいラインを越えてる」
のほほん、と穏やかにニケ嬢が私を見る。
「だから、ミーア様の申し出はお断りします。ご納得いただけましたか?」
「……ええ」
ここまではっきり線引きされたなら、意地とか確執とかじゃなくて『個人では手を出せないものだから』と言われたら、それ以上食い下がれない。
正論なのよね。
作戦なんだから、指揮官に指示を仰ぐべきって。その結果、アテナ殿下は参加できなくて作戦が破棄されるから言えないけど、本当なら報告すべき事柄。ホロメス殿下もアテナ殿下の行動は咎めていた。
間違ってない。出来る出来ないとか、したいしたくないじゃなくて、手続きをしないとそもそも交渉の土俵に上げないっていうだけなんだもの。横紙破りをしようとしてるのはこっちだ。
ニケ嬢はその穏やかな雰囲気のまま、アテナ殿下を見る。
「捕虜が取引したそうですので、殿下と捕虜がどこに行こうとも、私の関するところではありません。その先で行方不明のご令嬢を見つけたのならば、問題がない限り、人として保護するでしょう。しかし私はあなた方の軍事行動は知りませんし、干渉する気もありません」
「それは、情報収集など無駄なことをするな、ということか?」
「いいえ」
ニケ嬢は、無表情で、ヘルヘイムの王子を見た。
「現状での最優先事項は捕虜の管理であり、我々の任務は『北の守護』です。現在はこちらで頼れる知人がいるため身を寄せていますが、ここは我々の拠点ではありません。北の守護の役に立つと判断すれば、こちらに戻らず現地で行動することもありえます。仮に行方不明者を保護したとて、こちらまで送り届ける義務はありません。状況が悪化すれば、北から指示が届けば、私は領民としてクローデンスのものとして、ふさわしい振る舞いをします」
「……それは私やご令嬢を捕獲する用意があると?」
「いいえ、捕虜の取引は殿下の安全を保障するものではない、ということです」
アテナ殿下はニケ嬢から目を離さず、じっと見つめている。
「私やご令嬢を害する意思はないが、状況によっては護衛を放棄する、ということだろうか」
「人命救助はあくまで個人的なものですから、命令が下ればそちらを優先します。私の捕虜が何やら取引したようですが、捕虜は私の所有物であり、命令権は私が有しています。例えば至急北に行かねばならなくなった時、どのような状況であったとしても、私は当然北に向かいますし、その時捕虜も連れて行きます」
「つまり危険だから止めた方が良い、と教えてくれているのか? あなたは私を見捨てるかもしれない、と」
アテナ殿下は挑発するように微笑んだが、ニケ嬢は無表情を崩さない。
「そもそも守る義務がありません。私の捕虜が何やら取引したようですが、それは私の行動を制限するものではありません。現状、私は捕虜の行動を制限できる立場ではないため、捕虜の取引を禁じることも捕虜の視察活動を禁じることもできませんが、必要と判断した場合はその限りではありません。そしてその時にあなた方がどうなろうとも、我々は一切責任を負いません」
つまり、ヘルヘイムの王子はニケ嬢の捕虜で所有物だけど、その所有物が約束を反故にしてもニケ嬢に責任を求めるなって言ってるのね。
ニケ嬢は『ヘルヘイムの王子の取引はアテナ殿下たちの安全を保障していない』と言っている。
どころか、『命令があれば見捨てる』と明言している。
それでアテナ殿下に何があっても、ニケ嬢を咎めるのは難しいでしょうね。ホロメス殿下も止めていて、ニケ嬢もきちんと危険性を説いている。
さらに、ニケ嬢は『相手のために脅しているだけで、自分に怒りや敵意は一切ない』と、『なんなら個人的に目の前の人を守っても良い』とまで言った。『北を守る』以外何もしないはずのクローデンスが。露骨なほど徹底的に戦争に参加しないと表明していたニケ嬢が、だ。
王太子のホロメス殿下とも友好的で、騎士団長にも作戦の邪魔にならないよう配慮し、『そもそも敵じゃないのに敵意があるわけない』と正論も示した。
ニケ嬢は徹底して防御している。これで何かあっても、ニケ嬢を責めることは出来ないだろう。
たとえ、ニケ嬢がアテナ殿下に何かしたとしても、証拠がない限り責められない。
……ニケ嬢の動きが上手すぎる。やっぱり、何か考えてるのかもしれない。一体何を……。
「あなたは捕虜に対して命令出来ないのか?」
考え込んでいたら、アテナ殿下が話を続けていた。
「捕虜の行動を制限できないと言っていたが、先ほど、彼はあなたに行動の許可を得ていなかったか?」
「私は捕虜の行動を監視し、捕虜を保護するとともに身柄を確保しておくよう命じられています。必要であれば捕虜に命令することも罰を与えることも認められていますが、捕虜の行動を制限する権限は与えられていません」
「……詭弁だな。あなたは捕虜に命令出来る。捕虜の行動に責任を持たなければならないほどの権限があるだろう?」
「それは私の任務ではありません。私が命じられた任務は捕虜の監視と確保です。捕虜の行動を監督するようには命じられていません」
「しかし捕虜はあなたの所有物扱いなのだろう? あなたの所有物が行ったことならば、あなたにも責任があるのではないか?」
「捕虜は私の所有物だと宣言しています。どうして所有者に伺いも立てず、勝手に他人の所有物を使用した者に対して、責任を負わなければならないのでしょうか。最初にそのような交渉には応じられないと断ったことで、説明責任は果たしていると思いますが」
……なんだか、複雑な内情がある、のかしら? ニケ嬢にしては珍しく、穴がある理論だけれど。
アテナ殿下も笑みを深めている。
「ではあなたには、自分のものが勝手に使われていると知っているのなら、それを止める義務があるのではないか? 知らなかったわけではないのだろう? 自分の物がどこでどうしているのか、監視することが仕事なのだから」
「はい、私の仕事は監視です。教育ではありません。牙を抜かれて首輪をつけられた負け犬が、わんわん吠えて芸をしておひねりをもらっていようとも、私が制限すべきことではありません。あなた方に噛みつこうとしたのならば罰しますし、殴られそうになっていたのならば守りますが、それだけです。私は調教師ではありません。リードは任されましたが、躾けは管轄外です」
ニケ嬢は無表情で、言い切った。
さすがにヘルヘイムの王子が「ちょ、ちょっとちょっと」とニケ嬢の肩を掴んだ。
「ニシーケ、さすがにそれはないんじゃない? 犬扱いはさあ……」
「命令をきかないのはロイキーでしょ? 言葉が通じないなら、人間扱いできないよねえ。──それとも、言葉が通じてるのに、命令に逆らったの?」
でも、ひゅう、と北風が吹きつけてそうな、のんびりとした口調ながら冷たいニケ嬢の声に、顔をひきつらせた。
「命令することは出来るし、場合によっては罰を与えることも認められてるけど、ロイキーを従えることは求められてないんだよねえ。ロイキーが、私に従うことを、求められてるんだよー? 私に従うことが、ロイキーの義務だよねえ」
ニケ嬢が、うっすら、薄く冷たく、微笑む。
「義務を、条件を放棄するなら、ロイキーは私の所有物じゃないし、クローデンスが身柄を保証する捕虜でもなくなるよねえ。単なる、約束を破った、敵国の兵だよねえ。北の地を守護することに関係はないから、私はロイキーをどうする気はないし、個人的にロイキーは知らないでもないから目の前にいれば人として守るけど、守る義務はないし、邪魔になれば、違うよ? うちは専守防衛だけど、先に約束破ったのは、そっちだから。約束破った悪い子には、罰を与えないと、ねえ」
「に、ニシーケ、落ち着いて、落ち着こう」
「落ち着いてるよー? 私は、必要があれば罰を与えることを認められてるだけで、罰を与えなければいけないってわけじゃないし、争いとか痛いのとか、嫌いだからねえ。躾ける必要もないしねえ。悪いことしてきゃんきゃん吠えて、そんなことしてたら殺処分しかないけど、親身になって直してあげる気なんてないからねえ。私たちは、戦争してるんだからさ。威嚇射撃なんてしてる暇があったら、頭を撃ちにいくよ」
ヘルヘイムの王子がじりじりとニケ嬢から離れるけど、ニケ嬢は薄っすら微笑んだまま、一歩でその距離を失くす。
「私に指示を仰ぐように命令してなかったのに、私の意向に従おうとしたのは、怖かったからだよね? 条件では、ロイキーが行く場所に私がついて行くって感じで、主導はロイキーにあるのに、私の顔色を窺うのは、怖いからだよねえ。私は必要と認めれば、警告なしでロイキーに攻撃出来るからねえ。ねえ、ロイキー」
ニケ嬢が、ぽん、とヘルヘイムの王子の肩に手を置く。
表情は抜け落ち、無表情だ。
「私、『いい子にしててね』って、命令したよね?」
守ってる?
ニケ嬢が囁く。
ヘルヘイムの王子は固まり、引きつった笑いを作る。
「な、なに言ってるんだい、ニシーケ。当たり前だろ?」
「……」
ニケ嬢は無表情のままヘルヘイムの王子から離れ、真正面から彼を見て、
「だよねえ」
のほほん、と言った。
ふわふわした、砂糖菓子で出来てるんじゃないかってぐらい地に足のついてない、呑気な声で、綿菓子が宙に浮かんでるような柔らかな雰囲気だった。
その柔らかな、甘い雰囲気のまま、彼女はほわほわと言った。
「まあ問題起こしたら問答無用で殺すだけだから、どうでもいいんだけど」
ニケ嬢は捕虜の行動に責任を取らない。
責任を取らせる側なのだ。




