従者 嵐の予兆
「ご心配なさらずに、私はただの侍女ですわ」
急に背後を取られ、反射的に振り返る前に言われた。
その声に敵意を感じなかったのでゆっくりと振り返ると、以前会ったこともある、ニケ・クローデンス辺境伯令嬢の侍女がいた。
侍女はまるで主人のように無表情で、仕事のためだということを隠さない。
どうかしたのか、と問いかける前に、侍女は「あの方のことですが」と話し始めた。
あの方。
ああ、彼女だろう。
彼女がどうかしたのか。
「どうにも、主人に対して勘違いなさっているようなので、ご忠告をと。そちらから言っておいてくださいませんか。我が主人に、害意はないと」
にこりと微笑まれるが、あからさまに作り物で信用できない。
そもそも「自分の主人に害意はない」と言われても、何の証拠もないのに、信じられるわけがない。
そう言おうとすると、やはり口に出す前に「信用できないのも無理はありません」と遮られた。
「こちらも、探られて困るものはありませんので、信用できないのならお好きに調べてくださって結構ですが、……主人は少々、お頭が足りませんで」
主人をけなす言葉に一瞬疑問で頭が止まり、そこで侍女が笑った。
鮮やかに、綺麗に。
「うっかり『敵対行為』ととらえてしまうと、『クローデンス』であり短絡的な我が主人がどう対応するのか、私にも予想がつきませんので」
脅した。
探ってクローデンスの敵だと認定されれば、どうなるかわからないぞ、と。
しかしそれは彼女の実家を、権力をわかってのことかと反発する、前に、侍女に「誤解なさらないでくださいね」と言葉を封じられた。
……この先回りは、なんだろう、自分の考えでも読んでいるのか?
心でも、読めるのだろうか。
「脅すつもりはありませんの。これも主人の命ではなく、私の独断行動ですから。お頭の足りない主人は、自分の言動が周囲に誤解を与えることに気付いてないのですわ。無自覚って、困ったものですわよねえ。本当に、困りますわ」
あの方も、周りの好意に無自覚ですもの、と侍女は言った。
彼女が周りの好意に気付いていないように、侍女の主人も意味深で黒幕のようであることに気付いていない、と言いたいのか。
確かに彼女の鈍感さを出されると納得するしかないが、しかしそれでも、そもそも侍女の言葉が信用ならないことに変わりはない。
そう思ったところで、侍女が「ええ、実際に目の当たりにしないと、あの無自覚さは信じがたいですものね」と頷いた。自分はそれほどわかりやすく表情に出していただろうか。それとも、やはりこの侍女が特殊なのだろうか。
「ですから、別に構いませんわ。信じていただかなくても結構です。ただ、主人はあなた方に害意はありませんので。主人を警戒して無駄な時間を使う前に忠告をと、それだけですわ。私も、虫のようにうろちょろと周りを飛び回られても目障りですし、主人がそれを『敵』と認識してしまった場合、どれほどのことをやらかすか、その後始末や渦中の雑務がどれほど面倒か、それしか考えていませんの」
彼女を虫と愚弄するのか、と言う前に侍女はため息をついた。
「そちらのあの方も優れた素晴らしい方なのでしょう。それは私も主人も認めるところですし、誰に聞いても肯定が返ってくるでしょう。ええ、我が主人とは比べ物にならないぐらい、賢く優秀で善良な方だと思いますわ」
──しかし我らはクローデンスなのです、と侍女の目が煌く。
「淑女の方とは、住む世界がそもそも違いますから。紅茶の香りと微笑みで戦う場所と、血の匂いと狂気で戦う場所は、まるきり違うでしょう? どちらが良いか、どちらが強いかと比べるものでもありませんわ。ただ、住み分けるためにも、我らは王から許しをいただいておりますので」
紅茶を片手に策略をめぐらす淑女を血で彩り。
大義を掲げ歩む紳士に狂気の笑みを貼り付けることが、出来てしまうのですわ。
侍女はにこにこと微笑んでいる。侍女の主人ではありえないほどの、穏やかで温かな笑みだ。
「私も、紅茶もお菓子も好きですから。それをうちの主人が壊してしまわぬように、こうして独断で忠告してるのですわ。昔から、言われているでしょう? ──北に、クローデンスに干渉するな、と」
干渉しなければ平和ですわ、我らは『北を守る』こと以外、しませんもの。
という侍女の言葉に眉をひそめた。
こんなたおやかな侍女一人とっても、クローデンス領の人間は『クローデンス』なのか。
そこまでして、どうして北を守るのか。
クローデンス領の最大の謎であり、最も理解しがたい点は、そこだ。
どうしてそこまでして北を守るのか。
北には軍事国家のヘルヘイムがいる。気温も低く、大地も実りが少ない。東と北を山脈に囲まれ、西に港こそあるが、あまり使われている様子もない。
ゲヘナが在った頃は、北にヘルヘイム、南西にゲヘナ、東に東の諸国がある、他国に挟まれた領でもあった。
どうして王に頼らず北を守り続けるのか。何故ヘルヘイムを攻め返さないのか。どうして功績を拒否するのか。何故北から出ないのか。
建国当初はばたばたしていて、落ち着いたころにはクローデンスなくしてヘルヘイムに対抗できない状況になってしまっていたため意図的に無視されていたが、その謎は未だに解けていない。
守る代わりに何か要求することもしない。領民がこうなるまでの激戦地でありながら頑なに支援を拒否する。
わからない領だ。
だから、異端視されて誰も干渉しない。
実績以外信用も出来ず、疑われ続けることになる。
「我が主人ではありませんが、成果が全てですわ。我らに干渉しなければ我らは何もない、それは今までが証明しています。実績ほど、信用できるものがありますか?」
侍女の身もふたもない言葉に、言葉を失う。
確かにそうだ。だから今までクローデンスは放置されてきた。
それでも、と沸き上がった言葉が声になる前に、侍女が笑った。
「我らが常に敗者にならないことも、実績で示しているでしょう?」
『敵』と思われ『攻撃した』と思われれば、彼らは防衛する。
その結果、負けることがないのだから、今のヘルヘイムのように延々と続く泥沼試合か、昔の愚かな王のように敗北を味わうか、そのどちらかしかない。
彼らは北の要。
落ちてならぬ砦、クローデンスなのだ。
侍女の笑みに目を奪われている間に、侍女は去ってしまった。
俺は今の、一言も話すことが出来なかった『忠告』を彼女に──我が主人のお嬢さん、アルテミス・ミーア嬢に言うかどうか、しばらく頭を悩ませることになった。




