隣国の兵 準備
「へえ、東と貿易でもしてるの?」
少佐が連れて来た女性は、北東の地を見るなりそう言った。
東で待機していた私は彼女が誰かわからなかったが、少佐に妙になれなれしいので、高位の人物なのかもしれない。少佐の部下たちも、彼女に一目置いているように見えた。
「子供が迷い込んだって言っただろ? この国から旅に出るなら、ここからしか出られないんだよ。地元の人間は知ってるはずだから、ここをヘルヘイムへの突破口だと思ったのかもしれないね」
「ここなら、かろうじて冬も使えなくはないもんね。海は完全に使えなくなるから」
「だから南を目指して侵攻してるんだよ。冬に頼めば物資を融通してくれるから、切羽詰まってるってほどじゃなくて、なおさら士気が上がらないんだけどね」
「それが目的じゃん?」
馬に乗っているので表情はよく見えないが、少佐とはかなり親しいようだった。国内事情に詳しくないこともあり、ますます高位の人物のように思われた。
「少佐、お待ちしておりました!」
「ああ、ご苦労」
挨拶をすると少佐は馬を降り、部下の方や女性も馬から降りさせた。
「あらかじめ紹介しておく。この女性は今回のことでお越しいただいた魔術師だ。戦力の分析などをしていただくが、決して無礼を働くな。南の生まれだから戦争には慣れておられるが、……引きこもりの変人でな。腕は確かだから、丁重に扱え。機嫌を損ねたら陛下からお叱りを受けるぞ」
「陛下から……!?」
どれほどの方なのかとぎょっとすると、少佐がこそりと、「今回の状況を打破できるかもしれない唯一の人物なんだ。僕との友情でなんとか来てもらったが、民間人を最前線に派遣させているんだ。最大限便宜を図ることを許可されている」と教えてくださった。
軍お抱えの魔術師ではなく、民間の魔術師で、少佐が『腕は確か』と太鼓判を押すほどの実力を持っているのか……。確かに変人だろう。それほどの腕があるなら軍に志願しているのが普通だ。
だがそんな変人でも、少佐のご友人だ。つまり王族のご友人だ。丁重に扱わねば首が飛んでしまうかもしれない。
と思っていたら、彼女の方が一歩進みでて来た。
銀色の髪と灰色の目をした彼女は、今にも雪に紛れて消えてしまいそうだと思った。色も白く、来ている服も白い。結構美人なのに無表情なのも、その印象を加速させる。
「初めまして、ヘルとお呼びください。結界魔法と回復魔法を得意としています。自分の身は自分で守れますので、いないものとして扱ってください」
言われた言葉で、変人と言われている意味と、自分の第一印象が間違いでないことがわかった。
南の生まれのせいか、言葉に若干タルタロス訛りが混ざっているが、綺麗な公用語だ。強いヘルヘイム訛りも、逆にタルタロス訛りもない。その何の感情も読み取れない表情のように、特徴が掴みづらく、すぐ人となりを忘れてしまいそうだ。
そう、彼女は、誰かが見ていないとひっそりと雪に埋もれてしまいそうで、それを良しとする思考回路を持っているようだった。
誰かが傍にいなければ、あっさり世界から消えてしまいそうだと思った。
「僕が彼女の監督はするが、行き届かない部分は頼まれて欲しい。同性でなければ分からない部分もあるだろうから」
「はっ、拝命しました!」
少佐に返事をして、彼女、ヘルさんに改めて向きなおる。
「自分はヨルズ中尉であります。魔術師殿、よろしくお申し付けください」
「はい、よろしくお願いします」
ヘルさんはあくまで無表情で、そう言った。
「んっとねー、すごく率直に感想言わせてもらうとねー、てめえらやる気あるのかってことなんだけどさー」
のんびり、まったり、という修辞がぴったりの、怒りや争いなど無縁のような口調で、ヘルさんが言った。
この口調で、この内容で、顔は無表情である。
前にいる兵たちも、どう反応して良いのか考えあぐねているようだった。
まずは、偵察に行くとは言っても拠点はここだから、と少佐が私たちの拠点を案内した。
その時から、少佐もヘルさんも、もの言いたげな雰囲気ではあった。少佐の部下たちは、はばかることなく顔をしかめていた。
拠点の案内の後は、前線付近の様子見を行いたいということだったので、案内した。ここで、少佐とヘルさんがひそひそと話したり、少佐の部下たちが少佐やヘルさんに訴えるような目を向けていた。
最後に拠点に帰って、備蓄や見張りの順番などを確認していただいたところ、少佐とヘルさんが頷き合った。少佐の部下たちは『やっちまえ』という、諦めと期待のこもった目を向けていた。
少佐は私に命じられ、見張りなどを除く兵たち全員を集めさせた。
なんだなんだ、という雰囲気の中、少佐とヘルさんが前に立ち、
『こちらの方は、この度の防衛戦のために一時的にお越しいただいた、民間の魔術師だ。少々変わり者だが腕は確かで、南の生まれだから戦争にも慣れている。私は陛下より、この方の滞在中に限定して、この防衛戦の全権を委託されている。私はその権限より、この滞在中に限り、この方に私に次ぐ権限を与える。異論は認めない』
と、少佐が、
『ただいま紹介に預かりました、魔術師のヘルと申します。滞在中のみですが、ロキ少佐の副官として任命されております。民間の魔術師の身でありながら、皆様の上官として接することになります。ご容赦ください』
とヘルさんが言って、
『さて、今、私たちはこの拠点と、前線を見せてもらったわけだが、それについて意見があるので、心して聞いてもらいたい。……ヘルルン、よろしく』
『死にたくないからねー、遠慮なく行くよー』
少佐が一歩下がり、ヘルさんが一歩前に出て、あの言葉になる。
本当に、反応に困る。
「拠点はさあ、やる気ないよね? ただマニュアル通りにしてるだけだよね? うっかりしたら、フリドスキャルヴ山脈の上から攻撃されるかもしれないんだよ? 上からの攻撃に対する警戒がまるでないし、まさに『教科書通りやりました』って感じ。何がどういう意味を持ってるのか、わかってないでしょ。わからないまま、教本通りにしてるだけでしょ。緊張感を持ってるはずの前線も、備蓄に関しても同じ。意味わかってないでしょ。ねえ、その頭は何のためについてるの? 敵兵にぶち抜かれるためじゃないなら、使いなよ。──やる気ないなら帰れ。お前らのせいで私たちまで死ぬのはごめんだ」
最後だけ、ヘルさんの声にやや険がこめられていた。
少佐はにこにこと笑っている。
「北と西は海に、東はフリドスキャルヴ山脈に囲まれて、唯一交戦がある南も、あの『クローデンス領』で、防衛線の経験に乏しいことはわかっている。だが僕は、クローデンス領との交戦で名誉の戦死を遂げた部下に、非常に申し訳なく思ってるよ。──こんな平和にのうのうとしてる兵と同じ階級で、戦地で文字通り死力を尽くしてくれたんだからね。僕の部下でさえなければ、こうやって、お気楽でいられたんだろうと思うと、ねえ?」
少佐の部下たちは、「ロキ少佐、そんなこと言わないでくださいや」「そうそう、俺らはあんたに従って、死にに行ってんですから」「今の状態を作ってくれたのは、ロキ少佐ですよ」と口々に少佐を擁護し、私たちを睨む。
そして、ヘルさんに視線を向けた。
まるで何かを期待するように、信頼する相手にするように。
「本当は、こんなことするつもりじゃなかったんだけど、あまりにもお粗末だからねー」
ヘルさんは、やっぱりぴくりとも動かない無表情で、
「ちょっと、表出てくれる?」
どこまでも冷ややかに言った。
その後、ロキ少佐とヘル殿が去った後に来たのは、引退したはずであり、クローデンス領侵略の前任者であるトール大将で、私たちは南がどれほど激戦区で、北がどれほど平和ボケしていたかを身をもって思い知らされることになった。




