第10話(3)ミッドウェー作戦発動
葦原時間6月5日0130時、現地時間6月4日0430時。
日の出を前に徐々に白みはじめた空は、拍子抜けするほど穏やかだった。
雲は出ているが、雨を降らす乱層雲の類は見当たらない。予報によれば、天候はこれからさらに晴天へ向かうとのことだった。
洋平は実際にこの海にやって来るまで、ミッドウェー海戦が始まる前の空といえば不吉な鉛色をした、文字通り暗雲立ち込める空を勝手に思い描いていた。恐らくは、元の世界で見てきたフィクションの影響だろう。
考えれば晴れて当然なのだ。延期すべき幾多の負の要素を無視し敢えて今の時期に作戦が決行される理由の一つが、この気象条件なのだから。
絶好の空戦日和。だがそれは、この先に待ち受ける敵にとっても同じはずだった。
ミッドウェー諸島北北西約150浬、第一航空艦隊旗艦・赤城。
「雲外蒼天だ」
丸めたハンモックが蓑虫のように外側を覆う防空指揮所で、草鹿峰は暁の水平線に目を細め、満足げにそう呟いた。
洋平はよくわからないが「良い朝だ」くらいの意味だろうと適当に解釈する。
「アリューシャンに向かった友軍は、今頃敵のダッチハーバー基地を完膚なきまでに粉砕し、順調に攻略を進めていることだろう。ボク達も負けてはいられないね、汐里さん」
「うぅ……不安だよぅ峰ちゃん」
「ははっ何も心配要らないさ、今回も鎧袖一触だ。第一次攻撃隊、準備でき次第発艦せよ!」
一航艦2トップの緩過ぎる平常運転トークを聞きながら、洋平は人知れず重い溜め息をつく。
今から僅か数時間のうちに起こる一連の出来事が、この戦争の趨勢を、彼女達の未来を劇的に左右することになる。同時に源葉洋平のこれまでの右往左往と決意と頑張りの全てに審判が下される。
動悸を堪えつつ洋平は最後まで最善を尽くそうと、草鹿達に数日前からしてきた忠告を繰り返した。
「……草鹿参謀長。攻撃隊の発艦は、近くに敵の機動部隊がいないか確認してからでも遅くありません。索敵が終わるまで待って貰うわけにはいきませんか」
盛り上がっていたところを水を差された草鹿は、むっとした表情で洋平を振り返る。
「飛行場爆撃の成否は、奇襲ができるかどうかにかかっている。先行した索敵機が発見されてみたまえ。敵の航空隊には逃げられ、こちらはせっかく運んだ爆弾をもぬけの殻の飛行場に落とすことになるんだぞ。故に索敵同時爆撃。こればかりは素人のキミにとやかく言われたくない」
返り討ちに合うという発想が出てこないのが草鹿らしいが、もしかすると彼女なりにセイロン沖で奇襲に失敗したことを反省しているのかもしれない。しかし残念ながら、今ここでどんなに隠密行動をとろうとミッドウェーの敵基地が既に迎撃態勢に入っているのを洋平は知っている。
「この作戦の主目的はミッドウェー基地を叩くことではなく、敵機動部隊の撃滅なんですよ。爆撃は、基地にSOSを出させて敵機動部隊をおびき出すための手段でしかありません」
だから索敵機が見つかっても構わない、飛行場爆撃の成功にこだわるあまり敵機動部隊の探索を後回しにするのは本末転倒だ。そう続けようとした洋平を、草鹿は途中で遮った。
「ボク達が軍令部から受けた大海令にあるのは、ミッドウェー島の攻略だけだよ」
「いや、待って下さい。それについては前にも話した通り……」
「だから、島を攻略してたら敵空母が出てきて、結果的にそれを撃滅するのは構わないって言ってるだろう。でも最初からそれありきで島の攻略をいい加減にやったら、大海令に背くことになる。海軍刑法第56条の党与抗命罪は知ってるかい? いくら山本長官の意向でも、無理なものは無理だ。ボクには一航艦の参謀長として、汐里さんを守る責任がある」
艦隊を守る責任じゃないのかよ。連合艦隊司令部にだって、作戦指導の裁量権というものがある。黒島亀子の書いた作戦要領がそれだが、本人に指導をする気が無いので全く伝わっていなかった。
だから洋平はこの航海の間、草鹿達にミッドウェー作戦の真の目的についてことあるごとに言い聞かせてきたつもりだが、結局、最後まで作戦目的を共有することができないまま時間切れとなった。
『ほうれんそう』が大事、なんて亀子には言ったけど、やはり馬の耳ならぬ草鹿の耳に念仏だったのか……。
「可哀想。だから労力と時間の無駄と言った。馬の耳に念仏、草鹿少将の耳に作戦目的」
「言っちゃったよ! 思ってても口にしなかったことを……って亀子さんいつからそこに?」
こんな早朝にいるはずがないという先入観が邪魔して、今の今まで隅っこの寝癖頭に気付かなかった。理由はすぐ気付く。今は葦原時間だとまだ夜中だ。単に時差ボケが直ってないだけだった。
そして亀子は草鹿ではなく、その隣でびくびくしているショートボブの少女に直接声をかける。
「南雲長官。……図上演習の後、私が指示したことは?」
「ひゃっ、え、えっと、はい! 言われた通りにしてますぅ! ね、峰ちゃん?」
怯えきった上官からすがる目を向けられた草鹿は、苦い顔で亀子に答えた。
「……ああ。本来なら持てる艦載機総てを発艦させ敵を一刀両断したいところだが、GF司令部の意向に配慮するよ。攻撃隊は二分し半数は敵艦隊の出現に備え艦内で待機。赤城と加賀の艦攻は全機魚雷を装備し、即時発進可能な状態にしておく。それで良いんだったね、黒島大佐?」
亀子は無言で頷くと、洋平に意味ありげな視線を投げかけてから指揮所を去った。なるほど、あの図上演習の話を持ち出されると南雲と草鹿の立場は弱くなる。後、「将を射んと欲すれば先ず馬を」という諺があるが、この2人の場合は将を直接狙った方が効果的だということか。だったら……。
「あのー、南雲長官、僕からもお願いがあるんですけど……」
「ひいっ! ごめんなさい無理ですぅ魚雷発射管はどこですかぁ!」
「おい占い師君、汐里さんを怖がらせるなと何度言えばわかるんだ! 直接話しかけるんじゃない、用があるならこのボクを通したまえ!」
「……まあ、そうなりますよね……」
「とにかく! 現れるどうかもわからない、いや、恐らくは現れない敵空母のためにこれ以上の配慮はできない。予定だって押してるんだ、始めさせてもらうよ」
草鹿の言う通り、一航艦のミッドウェー到着は諸々の事情が積み重なって予定より1日遅れていた。
それでもミッドウェー攻略完了のNデーは6月7日のまま。後続の攻略部隊は予定通りこちらへ向かってきており、明日には島への上陸作戦が始まる。ミッドウェー攻略を至上目的とするなら、一航艦はそれまでに敵の飛行場を無力化しておかなければならないことになる。非常に窮屈なスケジュールだ。
この状況で、「攻撃はただ一太刀」が信条の草鹿に攻撃隊を二分することを受け入れさせただけでも上出来と考えるべきか。いや、それだと恐らく史実と何も変わらない。
「では、せめて索敵線を島の北北東に集中させて下さい。僕の占いではそこに敵空母が……」
「くどい! 山勘で集中索敵なんて邪道だ、全方位索敵でいく!」
草鹿は洋平との話はこれまでと打ち切って、部下の参謀達を集めると具体的な指示を出し始めてしまう。防空指揮所の端に追いやられた洋平は、後方の海に祈るように視線を凝らした。
大和からの電報は、まだ来ないのか。
ミッドウェー北北東で敵空母の信号を傍受したという第六艦隊からの緊急電は、とっくに大和に届いているはずだ。
だが、昨日までに赤城で受信できたのはあろうことか、敵空母が遠い南太平洋に現れたという軍令部発の電報だけだった。明らかにデマだ。今この瞬間、南太平洋で活動中の敵空母などいない。考えられるとすれば珊瑚海海戦の一日目に起きたのと同じ、給油艦などを見間違えた報告だろう。
しかし性質の悪いことに、あの軍令部の電報が届いてからというもの、それまで多少は緊張感のあった赤城艦橋に一気に弛緩した空気が漂い始めた。草鹿の慢心は普段から人間国宝レベルだが、こればかりは草鹿を責められない。敵空母の待ち伏せを知っているのは洋平だけで、それを信じさせる手段が今の洋平には無いのだ。
五十子に頼んでいた、大和からの電報が頼みの綱だったのだが。
「金剛、水偵射出準備良し」「利根と筑摩はどうなってる?」「利根はカタパルトの不調で30分遅れると。筑摩も遅れてますが、こちらは間もなく射出できるとのことで」「大変です、淵田中佐が急病で飛べないそうです。代わりの空襲隊総指揮は誰にお願いすれば」「飛龍の友永大尉で良いんじゃないかな。あ、一応多恵丸にお伺い立てて貰える?」「わかりました、至急飛龍に信号送ります」
艦橋の喧騒が大きくなる中、洋平はふと飛行甲板に視線を落とした。
エレベーターで上がってきた艦載機が後部待機位置まで運ばれ、整備員達が最終点検を行っているところだった。
並べられたのは第一次攻撃隊に参加する零戦9機と九九式艦爆18機、それに索敵用の九七式艦攻1機。艦爆は全て陸用爆弾を懸吊している。艦の装甲板を貫通できる程の強度は無い代わりに、炸薬量が多く地上施設に対して有効な爆弾だ。
「第一次攻撃隊の搭乗員は、飛行甲板に整列!」
飛行服姿の少女達が、左舷のラッタルを駆け上がってきた。左目の下にホクロのある、あの少女もいた。1人1人に主計兵が航空糧食を手渡していく。飛行隊長が黒板にミッドウェー諸島と味方艦隊の位置を板書し、最後の作戦説明を始める。
遮風柵が立てられていても、飛行甲板を吹き抜ける風は異様な強さだ。赤城は艦載機の発艦に必要な合成風力を得るため風上に艦首を向け、25ノットまで加速している。艦の速度が合わさった風速は、秒速18メートル超。
それでも整列して隊長の話に耳を傾ける搭乗員達は、微動だにしない。皆、洋平と同じ10代の少女達だ。
洋平は、弱気になっていた自分が急に恥ずかしくなった。
そして、ほんの数日前にこの場に立ち彼女達に訓示をした、五十子のことを思い出す。これから死ぬかもしれない部下達の顔を、食い入るように1人1人見詰めながら、五十子はどんな思いであの訓示をしたのか。
「かかれっ!」という飛行隊長の号令で、洋平の意識は今この時に戻される。
搭乗員達が一斉にそれぞれの愛機に乗り込んでいく。機付整備員の敬礼に応え、計器類を点検し、エンジンを始動させる。
プロペラが唸り、共鳴する爆音が大気を震わせると、穏やかな空は俄かに物々しい色へと塗り替えられる。
艦首甲板から噴き出す蒸気の流れに風向指標が重なり、風が正面から吹いているかの確認が完了。全ての発艦準備が整った。甲板員が、発艦合図の旗を下ろす。
「帽振れーっ!」
先頭の零戦が中央白線の上をじりじりと動き出し、やがて一気にスピードを上げた。飛行甲板を離れると機体が重力に沈んで視界から消え、一瞬後に再びその姿を現す。飛翔。甲板上で見守っていた整備員達から歓声が湧く。
その後も1機ずつ発艦。やがて他空母を飛び立った艦載機も合流し、赤城上空で空中集合を始める。
零戦36機、九九式艦爆36機、九七式艦攻36機。合計108機の大編隊が、黎明の空を圧した。現地時間0442時。
「うう、頭の上に飛行機がいっぱい……峰ちゃん怖いよぅ」
「怖くないよ、みんな味方さ。ほら、汐里さんも帽子を振ってあげて」
集合を終えた第一次攻撃隊は一路、敵ミッドウェー基地へ向かう。
同時に赤城と加賀から索敵のため九七式艦攻各1機が発艦、随伴艦からも水上偵察機を射出したとの報告が入る。ミッドウェー作戦発動。矢は弦より放たれた。
「……今、十字輪形陣の空母間距離は何キロですか?」
続けて直掩隊の発艦準備を指示していた草鹿達に、洋平は訊ねる。草鹿達は顔を見合わせ、答えてくれたのは赤城艦長の青木大佐だった。
「今、赤城と中継の金剛とで15キロです。単純に倍とすれば30キロといったところでしょうか」
「では、各艦に指示して空母間距離を45キロ以上まで散開させて下さい」
「45キロだって?」
草鹿が驚き半分嫌そう半分といった顔をする。
「離し過ぎじゃないか。理論上は発光信号が見える距離でも、遠くなれば見落とす危険だって……」
「必要なことだから頼んでるんです。まもなく日の出です。既にこの艦隊は敵基地の圏内に入っています。空母がいるいないは抜きにしても、第一次攻撃隊が敵基地を完全に無力化できなかったら、当然敵基地からの反撃がありますよね? この十字輪形陣の長所を最大限活かしましょう」
「うーん……」
「日の出とともに敵の哨戒機が飛んできます。時間がありません、急いで下さい!」
洋平に強くせっつかれ、草鹿は渋々散開を命じた。
艦隊は十字に散開し、赤城はミッドウェーに向かって突出する形になる。
前衛には軽巡長良、左右には駆逐艦嵐と舞風。そして後方を振り返った洋平は、微かに見える金剛から上がる黒い煙に気付いた。……あれは、煙幕だ。
「後方の金剛より発光信号、『敵機見ユ』!」「前方の長良からも発光信号です!」
攻撃隊の発艦という一大イベントを終え緩み切っていた防空指揮所の空気も、俄然緊張を帯びる。具体的には南雲が泣き出し、それを庇いながら草鹿が総員対空戦闘用意を指示した。見張員がかじり付いた備え付け12センチ高角双眼望遠鏡と、測距塔の4・5メートル高角測距儀がそれぞれ旋回して南東を指向する。
程無くして洋平の持つ小型の双眼鏡でも、ミッドウェーの方角から現れたゴマ粒のような黒点が見えるようになった。
東の空には既に朝日が昇りつつあり、黄金色が眩しくて左目を開けているのが辛い。
ゴマ粒は次第に大きくなってきて、やがてペリカンのくちばしのような胴体をした双発飛行艇の姿が像を結ぶ。
「……PBYカタリナ飛行艇ですね。ミッドウェーに哨戒機として30機近く配備されている」
冷静にコメントする洋平に、草鹿がお化けでも見るような失礼な目を向けてくる。
「キミさっき、日の出とともに敵の哨戒機が来るって……いやでも、そんなまさか」
「いいから、直掩隊を早く!」
1個小隊3機の零戦が漸く発艦し終わった頃には、敵飛行艇は遠くの雲に隠れて見えなくなってしまった後だった。
直掩隊の発艦が済んでいれば、鈍足の飛行艇など簡単に墜とせたはずなのだが。
「運の良い奴め」
腹立たしげに上空を睨め上げる草鹿に、さらなる報告が寄せられる。
「先程の敵飛行艇からミッドウェー基地に宛てた無線を傍受しました! 『敵艦隊発見。アカギ型正規空母1ヲ中心トシテ、コンゴウ型戦艦1、巡洋艦1、駆逐艦2ノ輪形陣。方位320、距離150、針路135、速度25』……以上、暗号ではなく鰤語の平文でした!」
平文にしたのは、一秒でも早く情報を伝えることを優先したからだろう。敵ながら賢い判断だ。
「触接されてしまったか……しかし、こういうことも覚悟の上だ。各員、対空警戒を一層厳に!」
隠密行動にこだわっていた草鹿は、強気に振る舞いつつも落胆を隠せない様子だった。
これで敵に、こちらの位置を知られたのだ。
だが、洋平に落胆は無い。最善の策は既に潰えてしまったが、次善の策はまだ生きている。今はただ、祈るだけだ。洋平の仕掛けた罠に、敵がかかってくれることを。
長い一日は、こうして幕を開けた。




