兄として……
何時でもない時間。何処でもない場所にて、一人の男が深く椅子に腰掛け、分厚い本を読んでいる。
俺は言った。
「お前は馬鹿だ」
「……うん? 誰かと思ったら白蛇か。いきなりのご挨拶だな……」
暗夜が溜め息混じりに息を吐き、分厚い本を閉じて俺に向き直る気配があった。
続けて言った。
「お前は死んだ」
「そうか。言いたい事はそれだけか?」
ここは邪悪な母が造り上げた虚数空間。『奇妙な部屋』と呼ばれている。
何時でもない時間。
それが俺と『暗夜』との会話を可能にしている。
「青狼族の女……ロビンだったか? あの女を助けたのはいい。だが、借りを返せとは一言も言ってない」
「……何の話だ?」
俺は小さく舌打ちした。
「……お前、自分が誰か分かるか?」
「これは異なことを。俺は『暗夜』だ。それより、白蛇。お前は何をしに来た。愚痴りたいだけなら帰れ。俺はもう満腹だ。暫くは何もする気がない。ここでもう少し考え事をしていたいんだよ」
何時でもない時間。
俺の目の前に居る『暗夜』は、いったい何時の『暗夜』なのか。
暗夜は他人事のように言った。
「生きようと思えば死に、死のうと思えば生くる。人間とは難儀なものだな」
「馬鹿野郎。偉そうに見下ろしてんじゃねえよ」
そこで暗夜は声を上げて笑った。
「そう尖るな、兄弟。だが、まあ……死んだか。そうか……」
「あぁ、お前はくたばったよ。満足か? 死ねば母に召し上げられ、二度と現世に帰れない」
聖エミーリア。聖エルナ。聖ギュスターブ。聖アウグスト。聖ローランド。中には歴史に名を残した者もいる。そんな過去の聖人の中に、この『暗夜』の名も含まれる事になる。
暗夜は持っていた本を虚空に投げ込み、改めて俺を見る。言った。
「二度と現世に帰れない、か。兄弟、本当にそう思うのか?」
「当たり前だ。死人が生き返って堪るか」
「……そうだな。そうだといいな……」
そこで暫くの沈黙があった。
暗夜は、今、どんな顔をしている? 盲いた俺には分からない。だが、意味深長な言葉だ。
暗夜は言った。
「なぁ、兄弟。この世界……いや、お前たちの世界は大きな問題を抱えている。分かっているか?」
「……何の事だ……?」
「分からんならいい。詮無き事だ。他にも何か言いたい事があるのかも知れんが、それはまた別の機会にしてくれ。暫く考えたい事があるんだよ」
こいつは学者肌の男だ。そして誰にも期待していない。他人との会話より、何か一つの事に没頭する事を好む悪い癖がある。
「目が見えんのは不自由だな。ここは望めば大抵の物が手に入る。兄弟、お前は酷く損してるよ」
母から、大きな『権利』を与えられている。それだけの徳を積んだという事だが……半ば以上、人間を辞めているとも思える。
俺は鼻を鳴らした。
「人には知らん方がいい事もある。知らん方がいい事が殆どだ」
「……」
そこで再び沈黙を挟み、暗夜はうんざりしたように言った。
「……そうだな。その通りだ……」
「……」
「なあ、兄弟。俺は人として死にたい。もし、死んだなら……そのまま永眠れる事を祈るよ……」
「…………」
俺は……兄として、この男を見ていたつもりだ。
暗夜は学者肌であると同時に、人道主義的な思考を好む。こいつは、何よりも『人間らしさ』を愛した。それは、あのしみったれた女との共通点でもある。
俺は……この不器用な男が決して嫌いじゃなかった。必死で強がっていたこの男が嫌いじゃなかった。
「……俺に、何か出来る事はあるか? 心残りは……ないのか……?」
暗夜は疲れたように首を振った。その表情は分からない。だが、何処かしら諦念のようなものを感じる。
「それは……あのしみったれた女に聞いてくれ……」
「……どういう意味だ……?」
「別に……ただ、俺は……そうならない事を祈るだけだ。何よりも人間で居たいから……」
「運命に殉じるか……」
ああ……
無念すら飲み込むその性分は特に不味い。あのしみったれた女が、その潔さを気に入らない訳がない。
まず五戒あり。しかし、何よりも人間であれ。常に慈悲深く情け深くあれ。それが他の一切と己とを区別する。
暗夜は母に近過ぎる。嫌なものしか感じない。
そこで、暗夜が一つ態とらしい咳払いをした。
「ところで兄弟。俺は、湿っぽいのは嫌いでな……」
「ああ、俺もだ。特に男同士のそれは気持ち悪い」
俺は盲の男だ。だが、この時は暗夜がニヤニヤと笑っている事が手に取るように伝わった。
「俺は三十二歳だ。お前は? うん? ひょっとしなくても、俺より年下じゃないのか?」
「……」
「白蛇、次に会った時は……俺のこと、お兄ちゃんって呼んでいいぞ♡」
俺は笑った。笑って言った。
「馬鹿野郎」
「ははは……」
そうして、俺たちは一頻り笑いに噎せる。男同士の馴れ合いは気色悪い。
「追い抜くのはすぐだ。お前は、もう歳を取らないからな……」
「そうだな。そうなるといい」
暗夜は……今、どんな顔をしているのだろう。
――分からない。
だが、笑って別れる。男同士の別れはそれでいい。
「じゃあな、暗夜。もう会う事もないだろう」
「ああ、さらばだ。白蛇」
そこで、俺は外套の裾を翻す。
安らかに永眠れ。
いずれ俺も逝く。
その時は……そう遠くない筈だ。
だが……暗夜。我が弟よ。お前は、いったい何を恐れている?
お前の知的欲求は、どのような可能性を示唆したんだ?
神の考える事は分からん。あのしみったれた女は、いったい何を考えているんだ?
まさか……いや……
あり得ない。
◇◇
耳元で、アキラが小さく囁いた。
「……銀の髪。瞳には聖痕がある。『焼き付け』られている……」
「……」
小さい弟の髪をかき回しながら、俺はアキラの言葉に小さく頷く。
「兄さん……会いたかった。探してたんだ……」
「……そうか」
複雑な心境だった。
邪な物は感じない。ただ、嫌な予感がするだけだ。『聖女』とは違う。人為的なものではない。しかし、精神に濃い何かを『焼き付け』られている。
奇妙な部屋に長い間留まった俺の弟は、邪悪な母に、いったい何を『焼き付け』られたのだ。
「……母さんが死んだんだ……」
「そうか……」
俺には過去の記憶が殆どない。親父の顔もそうだが、お袋の顔も思い出せない。暖かい記憶は全て蛇に食わせた。お袋が死んだと聞いても、特別な何かは感じない。ただ、そうかと思うだけだ。
「……すごい力だ。これが……」
それは暗夜が残した力だ。良くないものしか感じない。酷く気掛かりだ。だが、この思いをどう伝えていいか分からない。
「ディ……その力は、本来、お前のものじゃない。絶対に乱用するな。力に溺れるな。過信するな。その力は祝福であると同時に、災いでもある」
「うん。分かってる」
「そうか……なら、いい……」
俺は……この幼い弟に何をしてやれるのだろう。暗夜は、良くも悪くも大人の男だった。あいつに俺の説教は必要なかった。
だが……この弟は、あまりに幼い。半ば以上、この世界の理の外に居る俺が、この弟に、いったい何をしてやれるのだろう。
「ディ……抱き締めさせてくれ……」
「うん!」
あまりに頼りない身体を抱き締めながら、俺は思う。
俺はもう長くない。長い付き合いの仲間も居る。夜の傭兵団。ずっと一緒には居てやれない。俺に代わって、この幼い弟を守る者が必要だ。
青狼族の女は駄目だ。あの女は『ロビン』。『夜の愛し子』だ。暗夜に強く魅入られている。妖精族の女も同様だ。深く暗夜を愛している。そもそも強くない。ディを守れない。
今は弱くてもいい。ディと足並みを揃え、将来的に強くなる『守護者』が要る。
あぁ、畜生……眠くなって来やがった。
しみったれた女が喚んでいる……俺は……




