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無知の行き着く先 5

 ヨラン氏族の夜光族とゴクロウ、アサメは一日掛けてじっくりと休養した。

 早朝は晴れやかな気分で出発する。

 黒い森林を一日掛けて抜け、登山口で夜営。天幕(テント)は張らず、仮眠を取る形で日を跨ぐとすぐに列を作り、山道へと踏み出した。

 暗くとも峻険(しゅんけん)と連なる山々が眼前一杯に雄々しく(そび)える。

 深山幽谷にちらつく灰雪はより脅威を齎し、標高が上がった影響で否応無く風が荒む。夜光族一六六名とゴクロウ、アサメの前で雪の幕が激しく揺れ、覆い尽くした。風速が増すだけ体感温度は急激に低下する。全身を刺す冷気に耐えながらの行進。幸いなことに行商隊の大馬橇(うまぞり)が通れる広い登山道が通っている。行程が更にずれ込む心配はなかった。

 これが雪山だ。雪深く険しい地に踏み入れた以上、進むも引くも艱難辛苦(かんなんしんく)の道。相応の覚悟なくしてこの苦行は遂げられない。


「遭難したあの夜を思い出すな」

「もう、何で言うんですか。思い出さないようにしていたのに」


 アサメは腹立たしげにゴクロウを下から睨みつけた。頭巾(フード)を目深に被っているが、口許(くちもと)がにやりと吊り上がった。


「つら。くれ」

「バカッ」


 雪を蹴って仕返す。ゴクロウは謝る気もなく豪快に笑って応じた。

 以前のような怪異の類と出会す事は無かった。

 だがこの山には時折、霊妙(れいみょう)な気配に包まれる感覚があった。誰かに、虚空(こくう)からじっと見据えられている。敵意も悪意も殺意もなくただただ見詰められている。ふと振り向くが何もない。それは一度や二度ではなく、ゴクロウが仮眠から不意に目覚めると決まって無からの視線を覚えた。


「アサメ」

「何ですか。もう寝るんですけど」


 不機嫌だが構わない。


「最近、誰もいないのに視線を感じないか」

「五回目は本当に許さないって言いましたよね」


 怒りを振り切った無表情は静かに激怒した。とはいえ三度目で怒り散らかす仏よりも心が広いのは間違いない。


「いや違うんだ本当だってば」

「喋るなゴリラ」

「う、ほい」


 狼少年もといゴリラ青年とはこの事であった。

 青白い光の列が登っては下り、馬橇(うまぞり)を人力で滑らしてはまた繋ぎ直す。厚手の夜光衣に(こも)る熱。暑いと感じるのは最初だけだ。発散した汗は次第に冷たくなって皮膚に張りつき、作業する指先はいつでも冷え切っていた。たまに馬に触れては温もりを分けてもらう。彼等にも長く心労を掛けてきた。最後まで旅の道連れになってもらうしかない。

 点火しにくくなって(くすぶ)る薪を、それでも組んで篝火を灯す。それを幾つもの焚き、闇を払う。狭いコブで身を寄せ合うと震える夜を明かし、明日の行程を確認する。

 いつであろうと空に舞う雪は止む気配を微塵にも思わせない。ゴクロウは少しでも楽に進めるようにと雪を掻くが、掻いたそばから雪が積もって無駄な徒労と思い知らされた。

 まるで安まらない心に強かと鞭を打ち、青白い一列は今日も雪道を踏み締めて力強く登る。安全を考慮した行程の為、一日の予定移動距離は極端に短くなった。雪中登山の過酷さを思わせる。

 だが確実に近づいているという実感と人々の励まし合いが次の一歩を白雪の山道に刻んだ。身体は(しば)れているが、内側からは熱く(たぎ)る思いが湧く。皆に支えられて良かったという思いを誰もが口に出す。アサメは応じはしないものの、密かに胸にしまい込んでいるのだろう。任された仕事をゴクロウと競い合うように黙々とこなしていた。

 一時、山の気紛れのように風が止んでも現れるのは黒い針葉の樹々と雪の山林。

 白と黒以外の色はほぼ無いに等しく、まるで幽玄(ゆうげん)なる水墨画の世界に封じ込められたかのような錯覚。時折擦り抜ける寒風が枝葉に積もった細雪を吹き飛ばすと一六八名の行列に降り注ぎ、熱と気力を掠め取っていく。

 それでもじっと耐えて前に進むと、山谷(さんこく)の雄大な雪景色が眼下に広がった。

 ゴクロウとアサメは少しの間だけ立ち止まり、胸一杯に冷たく澄んだ空気を取り込む。

 連なる山々の起伏、根を張るような尾根(おね)と、奥に(そび)える偉大な霊峰(れいほう)

 凍てつく瀑布(ばくふ)の絶望的な落差。

 荒々しく支える大氷柱(つらら)峻烈(しゅんれつ)山水(さんすい)の美。

 頭の奥が冴え、狭窄(きょうさく)していた精神的視野が広がっていく。

 己は厳と美の世界の只中に居るのだ。

 雪山に踏み込み、脚を止めて眺められた。

 冷厳(れいげん)たる風光明媚(ふうこうめいび)との出会いにゴクロウは心から感謝していた。


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