無知の行き着く先 2
流浪の民と称される夜光の人々は流石というべきか、実に軽快な歩みだった。
小高い丘から彼等の足跡が一列に刻まれていく様を見下ろした時、まるで蟻の隊列を想起させた。一定の歩調で淡々と確実に進み、僅かな休息も彼等は立ったまま過ごす。腰を下ろせば心に疲労が溜まる事を知っていた。乳酸の蓄積された脚に再び力を込めるのはどうしても気力が必要なのである。これも流浪民の知恵だった。
ゴクロウ、アサメ、巡回者達は常に周辺を警戒し、先遣部隊として遠回りしては見渡しの良い広大な地形を活かして行進可否の合図を送り合う。
先回りすると行商隊が通過したであろう轍が薄らと残っていた。
曇天郷は降水及び積雪量が年間を通して少ないが、降り出すと少量の雨や雪が半月以上、延々と降り続ける。降雪時期がすでに始まっているのか、この大移動中は視界不良と止まない雪に苦労し続けそうであった。
「これが曇天郷か」
ゴクロウは護人杖を突き、丘の上から曇天を見上げて呟いた。
「本当に広いですね」
見渡す限りの雪原。
警戒すべきは地下からの泥暮らしだけではない。凍て雲山脈の付近は年間を通してほぼ氷雪に覆われた凍土。こういった寒冷地に生息する恒温動物は体温維持の為に体格と重量が大きく、また元々大柄な種が数多く生態系に関わっている。
兎を狙うはぐれの狼、巣篭もりをしない羆。ここ凍土の丘陵ではこれらが極めて危険とされる。
ゴクロウとアサメはそれらの痕跡がないか神経を張り巡らせて探査し、何名かの巡回者達と多重確認を行なって安全を確保、夜光の民を先導した。
延々と広がる雪原を滑っては戻り、後方を警戒しては先頭へ。
特にゴクロウは何度も警戒を繰り返し、また誰よりも早く先頭に立った。距離でいえば、夜光の民の三倍近く移動していただろう。
そして何より、いつも以上に人々との交流が増えた。
声援や感謝が尽きず、疲労を心配する声にもゴクロウは笑って返す。
それだけではない。行列の左右を前へ後ろへと滑って行き来すると、不意に夜光の子供が見えざる掌を差し出す。そんな真似をしているとは露知らず、ゴクロウが真横をすれ違った瞬間、強靭な太腿をぱちりと叩くのだ。すると他の子供達も真似をしてゴクロウの御御足を叩き始める。見た目は明らかに強面の不審者だが、中身はただの子供大好きお兄さんである事は民の誰もが知っていた。悪戯を仕掛けた時の大袈裟に驚く反応が面白可笑しいのだろう。
歩くだけの子供は退屈な雪景色の真っ只中に居ても、空白に彩りを飾る想像力がある。警戒と緊張の狭間で過ごす感情豊かな触れ合いは、ゴクロウにとって適度な弛緩となって精神的余裕を与えた。
アサメも例外ではない。一瞥すれば、時折上がる声援の方へ不器用に手を振って応じる。白銀に戻った髪色や鋼の瞳がかえって目を引くのだろう。黒髪を惜しむ声も聞こえた。無愛想だが、彼女なりに応えようとしている不器用な姿勢が多くの者の心を捉えていた。そんな交流の折にふと目が合うと、決まっていつもの仏頂面に戻るのである。
初日の行程は上々。
分厚い雲の向こうで沈む太陽。
懸念の通り、細雪がすでに降り始めていた。
濃紺の暗がりと共に朧げな青白い光の行列が雪明かりの丘陵に並ぶ。
知っていても息を呑む絶景に、だがゴクロウ達は一層気を引き締める。
天幕を幾つも張って野営をする頃にはすっかり夜だ。夜光の民あるところに真の闇夜は訪れず、朝を迎えるまで薄青く照らし続ける。
どこまでも見渡しが良いこの丘陵ではそれが一番、恐ろしい。
「俺がもし野盗に落ちぶれていたらさ、この明かりに誘われて食い物を漁っただろうな」
ハルシは香茶を啜りながらも、それはないと笑った。
「この辺りは確かに襲撃しやすいだろうけど、そんな頭の良い不届き者はもっと実入りの良い、人が栄える街へ流れていくだろうな」
「なるほど、泥暮らしは頭の悪い不届き者ってわけか」
その為のゴクロウ達だ。
「だね。雷拝祭が無ければ、今頃はまだ日陰の園の茅葺小屋でのんびりさ。傭兵達を雇って、来るまで乳酒でも飲みながら何日も待って」
「雷拝祭ね」
ゴクロウは彼等の口振りでのみ伝わっている祭事に想いを馳せた。
三年に一度の大祭は夜光の人々のみならず、曇天郷の各地からも見学に訪れる。
娯楽などでは決してなく、この地に住まう人々を恵む為の儀式。
「何が襲って来ようが、無理を通そうが、この行事だけは何としても成し遂げないとならないんだ。ゴクロウとアサメには激務を課してしまうけど、きっと雷拝祭は今までの何よりも心に残るよ」
「それよりもお前は早く婚約者に会いたいんだろ」
「そりゃあ、ねえ」
談笑を交えながら、夜が更けていく。
ゴクロウとアサメは巡回者達と交代で仮眠を取り、干し果実やパンを齧りながら哨戒任務に当たる。起きている間に腰を落ち着かせる瞬間は、一度も無い。
密かと降る雪であっても、積もり積もれば氷冷の塊と化す。とにかく身体を動かして血を巡らせながら日を跨いだ頃には人々は起き出し、天幕をてきぱきと片付ける。夜明けを待つことなく、再び列を組んで大移動の準備を整えた。
先頭が一歩を踏み出し、青い光の行列がぞろりと進む。風もなく淡々と降り続ける灰雪の中、夜光の人々が朧げになると、ゴクロウとアサメは遅い朝の訪れを実感していた。
出発、休憩、また出発。その繰り返し。
幾度も丘を越え、凍える大河を歩いて、或いは滑って渡る。ふと視線を上げれば丘からこちらを見つめる白狐の番い。回帰してきた鱒でも獲りに来たのだろうか。それとも狼から逃げてきたか。
凍える大自然が魅せる美しさはほんの一瞬だ。寒さとは厳粛で冷徹なもの。
雪が深まり、脚を取られると次の一歩が重い。足元の僅かな隙間から容赦無く侵入する細かな雪はあっという間に体温で溶け、熱を確実に奪っていく。指先は凍えて感覚が鈍り、震える身を守ろうとして身体を丸め、少しでも雪に当たるまいと意味も無く俯く。暗い雪のせいで視程は悪く、どれだけ丘を越えても進んだ気持ちになど到底なれない。然もありなん。事実、行程は遅れていた。
ゴクロウとアサメはそれでも、夜光の人々が持つ芯の強さを垣間見た。
歩みが遅れようとも、寒さが身に染みようとも、背後の者が雪を払ってはその背を押し、腕を引く。笑いながら声を掛けるのだ。さあ行こうと。
二日目が過ぎ、三日目には慌ただしい生活にも慣れて、四日目から疲労の色が現れる。
遅延の影響で五日目には森林に到達できず、六日目にして二度目の大河を渡り切る。
もうまもなく着く筈だ。地平線の果てをじっと眺める。誰かが遠くを指差した。
雪化粧をした黒い森林が、ヨラン氏族を出迎えた。




