ゴクロウとアサメ 16
眠そうなアサメと朝の挨拶。
これが一度目の休憩になる。ゴクロウはほとりで膝をつき、波打ち際に手をつき、そのまま顔、頭を丸ごと池に突っ込んでごくごくと水を飲み込んでいく。血管がきりきりと締め上げられるような恐ろしく冷たい水だ。苦しくなったら勢い良く上げて息継ぎし、また突っ込む。何度か繰り返し、頭から水を溢して身体の汗を流していく。
「ああ、冷てえ。気持ち良い、たまらん」
「熊でももう少し行儀良く身体を洗いますよ」
昨日はたしか、砂漠で死にかけたゴリラの物真似をするゴリラと罵っていた。
「今日は大人しめグマだな。ちゃんと釣れるのかグマ」
「うるさいです」
ゴクロウはにやにやと煽り返しながらアサメの様子を見守った。
釣り具はない。それでも不凍の池の魚影を狙う。
アサメはふよふよと漂う光珠虫を掌へと誘導する。虫ではなく、虫に棲みつく精素に働きかけるのが重要だとヒクラスキは語っていた。教えの通り、白く仄かな光がアサメの掌に乗る。ここまではかなり手慣れてきた。
「いけ」
寄せた虫を水面の方へ差し向ける。
ふっと光が離れると、ふらふらとやや不自然に飛んでいった。この辺りからかなりコツがいる。餌を宙で泳がせ、池の際まで誘き寄せる。水上に飛び出す力は強いので、岸の上に向かうように餌を食いつかせれば成功である。
曇天岩魚は光珠虫を餌とし、驚くべき事にこの餌を誘き寄せる術を有している。自らの意志に精素を反応させ、自在に操る。所謂、感応術の使い手である。
彼等は極寒の環境を好む。この共通の意志に感応した精素が池を凍てつかせず、また餌の光珠が飛び交う猟場を生み出すのである。
これはただの釣りではない。アサメにとっては術の鍛錬、そして曇天岩魚にとっては生存するか焼魚になるかの死闘である。
「む、む」
修行を始めてはや五日目。アサメは四戦四敗であった。
次の逗留先へ向かうまで白星を上げられるか。
(挑戦はあと五、六回ってところか。お前ならやれるよ)
表情を改めたゴクロウは一言も発せず、ただただ立会人として徹する。発火寸前の身体が冷え込んできたら終了だ。
この後は茅葺小屋に戻って朝食、朝支度を終えたら今日は馬の世話、伝書の鳩小屋掃除、畑管理、保存食作り、次に来る夜光の氏族への引き継ぎ、棒術指導。昼食を巡回者達と取って園外の巡回、次の逗留先への導線確保、周辺調査。合間合間に雑務も挟んである。
楽しい一日を乗り切るには機嫌の上がる朝食がなによりも大事だ。豪華な一品を朝から頬張って栄養を物にしたい。
水面が跳ねる。
「あ」
パクリと食われた。波紋が虚しく波打つだけ。
なかなかの大物であった曇天岩魚は小腹を満たして住処へ潜っていった。
アサメは悔しそうな顔で次の光珠虫を手元に寄せ、また池へ放つ。
ふらふらと不自然に漂う光珠虫は岩魚にとって実に不審極まりないだろう。だが簡単に捕まえて腹を満たせるので面白いように飛び出しては食い、飛び出しては食い。
挑戦すること十二回。
池の周辺がうす暗くなっていた。光源が減ったのだから当然である。
「うぬう、美味いワナ、アサメちゃん今日も餌やり嬉しいワナ。ありがとイワナぁ」
曇天岩魚の物真似をするゴリラはお返しとばかりに煽った。
肩を震わせ、苛立ちで顔を真っ赤にする飼育係アサメちゃんは何も言い返せない。もし中身も子供だったなら、怒り泣きするところである。
「ああ、そんな殺気を放ったら魚まで逃げちゃウホ、落ち着くウホ」
煽り芸を続けるゴクロウリラは、池の向こうを漂う光珠虫へ人差し指を突き付ける。ぴたりと動きを止めた橙色の光は滑らかに池を突っ切り、アサメの鼻先で静止した。
アサメは歯軋りしながらゴクロウを睨む。
「光珠虫は干渉しやすいんだから、もう少し動かして遊んでみ」
気付けば、三匹の光珠虫がゴクロウの周りを衛星よろしくとばかりに旋回して遊んでいた。指先を照準に見立てる必要はない。アサメのやり方はあくまで初歩的な手順である。
「普段からやってます」
鼻先の仄かな光源を小さな手で払う。
まこと悔しい。一歩どころか二歩も三歩も先を進む感応術を披露して余裕綽々なところがまた憎らしい。言い返せない理由がこれである。
「よし、じゃあ最後の一投、いってみよう」
歯を食い縛ったまま、アサメは池の底を睨んだ。
感応術と感情は密接に繋がっている。心の昂りを感じつつ、且つ為すべき事を遂行しようという気持ちが大事だ。己の感情と向き合う事が得意なゴクロウと、仏頂面な割には感情的なアサメとでは能力差に開きが出て当然である。
「あッ」
これで五戦五敗。釣果無し。
踵を返しどかどかと雪を踏み鳴らして道を引き返す小さな背を、ゴクロウは微笑ましく見つめるのであった。




