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親友は心情の機微を見逃さない


 午後のキャンパスはどこかだるげな空気に包まれていた。

 昼下がりの光はガラス窓から柔らかく差し込み、廊下にまだら模様を描き出している。講義を終えた学生たちは三々五々に散っていき、談笑しながらカフェテリアに向かう者、図書館へ足を運ぶ者、あるいは芝生に寝転がる者。いずれもどこか余裕を纏った表情をしていた。


 その流れの中で、湊は一人静かに歩を進めていた。

 教室を出てから真っすぐサークル棟や次の教室へ向かう気分にはどうしてもなれなかった。人の声が多い場所も、人のいる空間自体今の自分には重たすぎる。

  

 そんなときにいつも選んでいた学部棟の端にある、人の通りの少ないスペース。だが、以前に琴乃に場所がバレてしまった。

 いったいどうやって特定したのかは分からない。


 あのときの圧、逃げ場のないほどの距離、絡められた指。思い出すたびに胸の奥がざらつく。

 彼女の視線に晒されたまま身動きが取れなかったあの瞬間の感覚が、まだ身体のどこかに残っている気がした。


 それでも、何とか落ち着ける場所を探すしかなかった。


 学部棟の三階。廊下の突き当たりにひっそりと置かれたテーブルと椅子。窓際に据えられた観葉植物は、葉の色がすでに褪せかけている。水やりが滞っているのか、ところどころに茶色の縁取りが見えた。ほんの小さな空間だが、他の学生が寄り付くことは見たことがない。


 湊はそこに腰を下ろし、鞄からノートとパソコンを取り出す。いつも座ってやることといえば、結局課題のレポートに取り組むだけ。

 画面を開けば、真っ白なページが目に飛び込んできた。

 課題の締め切りは迫っている。やらなければならないことは分かっているのに、指先はキーの上で止まったまま動かない。


 ――思考が深みに沈んでいく。


 頭に浮かぶのは琴乃の言葉。

 あの強い視線、絡め取られた指先、耳に残る宣言。さらに昨日、詩織と交わした会話までが尾を引いている。彼女の無邪気さの裏に見え隠れする執着心を思い出すと、心のどこかを冷たい指先で撫でられるような感覚が蘇った。


 どうして、こうも周りの人間は自分を揺さぶってくるのか。

 ただ静かに過ごしていたいだけなのに。


 湊は大きく息を吐き、ノートパソコンに向き直った。カタカタとキーを叩く音が小さな空間に広がる。その単調な響きに身を沈めていれば、不安も雑念も少しは遠のいてくれる気がした。白紙を埋めるよりも、指先のリズムを刻む行為そのものが心を慰めてくれる。


 ――ここなら、大丈夫。

 そう自分に言い聞かせる。


 だが、ほんの数行を打ち込んだところで、その平穏は破られた。


「……おーい、湊」


 背後から、軽快でどこか図々しい声が飛んできた。肩がぴくりと跳ねる。振り返ると、天海慧斗が立っていた。


「……なんだよ、お前か」

「なんだよ、はないだろ。こんな隅っこでしけた顔して。まさか課題から逃げてる?」

「違う。ただここが静かな場所だったから選んだだけだ」

「へえ。静かすぎて墓場みたいになってんぞ。お前、もう少し陽の当たるところで生きろよ」


 湊はため息をつき、再び画面に視線を落とす。慧斗はそんな態度を気にも留めず、椅子を引いて勝手に向かいに腰を下ろした。


「……おい、別に一緒にやるつもりはないんだが」

「知ってる。俺は課題する気なんてさらさらないし」

「なら帰れ」

「ひど。友人を邪険にするなよ」


 軽口を叩きながら、慧斗はじっと湊を観察する。目の下にわずかな影が落ち、表情も覇気がない。普段なら何気ない言葉でかわしてくるはずなのに、今日はどうも違った。


「……お前、珍しく落ち込んでんじゃねえの?」

「……別に」

「別に、ねぇ。そうやって誤魔化すのも見飽きたわ。顔に書いてあるぞ、“俺は今めんどくさいこと抱えてます”って」


 湊は顔をしかめて黙り込む。その反応に慧斗は口角を上げ、机を軽く指で叩いた。


「なあ、湊。課題なんて放っとけよ。こういう時は体動かすのが一番だ。ボーリングでも行くか? それともバッティングセンター?」

「……そういう気分じゃない」

「気分じゃないから行くんだろ。俺も暇だし。どうせ断っても無理やりつれてくけどな」


 慧斗はにやりと笑い、あえて挑発するように言う。湊は肩を落とし、諦めたように視線を逸らした。


「……お前、本当にしつこいな」

「それが取り柄だからな」


 慧斗はわざとらしく胸を張る。その調子に、湊の口元がほんの少しだけ緩んだ。


「………仕方ない、分かったよ」


 結局、慧斗の勢いに押される形で湊は立ち上がった。パソコンを閉じ、鞄へ無造作に押し込む。やる気のない仕草に見えても、その奥にどこか諦め混じりの安堵があることを慧斗は見抜いていた。


「ほら、決まり。まずはバッティングセンターだな」

「なあ、なんでお前が勝手に決めるんだよ」

「リハビリだよ、リハビリ。お前の曇った顔、少しはマシになるって」

「……そんな簡単にいくかよ」

「行くんだよ。いいから黙ってついて来い」


 からかうように笑いながら、慧斗はさっさと歩き出す。湊は肩をすくめ、しぶしぶその後を追った。





 バッティングセンターの打席。

 金属バットを握る湊の手に汗が滲む。投球マシンが唸りを上げ、ボールが勢いよく飛び出してきた。

 タイミングを合わせ、湊は振り抜く――乾いた快音。白球がまっすぐ奥のネットへ飛んだ。


「お、やればできるじゃん」


 背後から慧斗の声が飛ぶ。


「……たまたまだ」

「たまたまが続けば実力ってやつだ。次はホームラン狙えよ」


 軽口に呆れながらも、湊の胸にほんのわずかな爽快感が広がる。強く振り抜くたび、頭の中にこびりついていた不安やもやもやが、少しずつ削り取られていくようだった。


 打席を交代し、今度は慧斗がバットを構える。豪快な空振りに、湊が思わず吹き出す。


「全然当たってないじゃないか」

「おいおい、笑うなよ。これは次への布石だ、布石!」

「言い訳ばっかりだな」

「俺はな、盛り上げ担当なんだよ。お前が楽しそうに笑ったからもう目的達成だ」


 その言葉に湊は言葉を失い、ふっと視線を逸らした。

 ――慧斗のことだ、深く考えずに言っているのかもしれない。だが、それでも救われた気がした。





 バッティングを終えた二人は、ゲームセンターに足を運んだ。

 格闘ゲームの対戦台に並んで座り、ボタンを叩く音と共に画面のキャラクターが派手に動く。


「うわっ、初心者に対してそんな必殺技うつなよ」

「ははっ、悪いな。手加減はしない主義なんでな!」

「………っておい、卑怯だぞ。ここぞとばかりに擦りやがって」

「習うより慣れろ、だ」

「………許さん」



 湊は声音を暗くしながら、負けじとボタンを叩く。普段なら静かに遊ぶタイプなのに、思わず熱が入っていた。

 その姿を横目で見ながら、慧斗はにやりと口角を上げる。


「……やっと人間らしい顔になったな」

「うるさい」


 口ではそう返しつつも、湊の頬にはわずかな赤みが差していた。



〇 



 夕暮れの気配が街に降りる頃。二人は駅前の通りに出ていた。人混みを抜け、キッチンカーで買ったクレープを片手に歩く。湊は先ほどよりも表情が和らぎ、慧斗の軽口に小さく相槌を返していた。


 クレープの包み紙が歩くたびにかさりと鳴る。夕風がクレープの甘い匂いをさらっていき、通りの喧騒に溶けた。

 並んで歩く二人の影が舗道に長く伸びる。


「お前、なんでよりによって“生クリーム全部盛り”なんて頼むんだよ。途中から食べ物の形してなかったぞ」

「量は正義だ。悩みは糖で殴れってばっちゃんが言ってた」

「お前のばっちゃん、だいぶファンキーだな」

「事実、ちょっとマシになったろ?」

「……まあ、否定はしない」


 湊は小さく息を吐き、指先についたチョコソースをナプキンで拭った。

 頬の強張りは昼よりも和らいでいる。それを確かめるように、慧斗が横目でちらりと覗き込んだ。


「で、だ。ここまで連れ回した俺への労いの言葉、そろそろもらっても?」

「……へいへい、ありがとう助かった」

「雑ぅ。でもまあ、合格」


 ふざけた調子で親指を立てると、すぐに声色を落とす。


「で、本題。――何があった」


 唐突さはない。波打ち際に足先を浸すみたいな、浅くて、けど逃がさない問い。

 湊はすぐには答えず、信号待ちで立ち止まる。赤い反射が瞳に滲み、視線だけが遠くへ泳ぐ。


「……別に大したことじゃない。ただ、ちょっと人間関係が面倒になってるだけだ」

「ふうん。『ちょっと』の顔じゃないけどな」

「俺の顔が元からこういう造形なんだろ」

「なら整形級に曇ってる」


 冗談めかして釘を刺すと、湊はわずかに口角を引きつらせた。

 信号が青に変わる。再び歩き出す。

 街路樹の葉が風に揺れ、葉擦れの音が、言いよどむ間を埋める。


「……誰かに好かれてる。強めに」

「へえ」

「で、俺はその“強め”に応えられる気がしない。たぶん今は」

「今は、ね」


 慧斗は繰り返し、クレープの包みを丸めながら掌で転がす。


「断ったのか?」

「……はっきり、ではない。嘘はついてないけど、ちゃんと言えてもない」

「つまり、曖昧にした」

「……そう」


 返事は短く、だが十分だった。

 沈黙。遠くでストリートミュージシャンのギターが二、三のコードを鳴らす。夕暮れの色に、店のネオンが点り始める。


「なあ湊」

「ん」

「“正しい答え”ってやつを探すの、やめろ」


 足を止めずに淡々と、だが芯だけは硬く。


「誰も傷つかない選択なんてもの、きっと存在しない。どっちがマシか、どっちが自分の顔して言えるかしかないんだよ」

「……顔して、ね」

「そう。自分のだ。相手のためとか世間体とか、優しさっぽい包装紙を全部剥がして最後に残るやつ。でなきゃ、あとで必ず自分が苦しむことになる」


 湊は横顔を上げる。夕陽が慧斗の睫毛の影を長く落としていた。

 相手の懐に踏み込みすぎない距離感で、でも逃がさない言葉。いつもの彼のスタイルだ。


「じゃあ、お前ならどうする」

「俺? “今は無理”なら“今は無理”って言う。それでも納得してくれないなら、代わりに期限を設けるとか」

「期限?」

「ああ、“この期間は相手のの気持ちと向き合いますよ”っていう線引き。曖昧は相手にも自分にも毒だ。――それに、答えが“今は”って言えるなら、いずれ自分の気持ちが変わるかもしれないじゃないか」


 湊は考える顔をした。数歩分、言葉が追いつかない。

 やがて、小さく。


「……怖いんだと思う。言うのも、決めるのも。間違うのも」

「怖くていいだろ。怖い人ほどちゃんと謝れるし、ちゃんと感謝出来て、ちゃんと考える」

「はっ………お前のそういうのなんか似合わないな」

「褒め言葉として受け取っとく」


 短い笑いが交わされる。

 駅前の雑踏へ出ると、風の温度が少し下がった。湊が肩を竦めると、慧斗が無造作に自販機を指さす。


「ほい、カフェオレ派? それともブラック?」

「……ブラック」

「はいはい、大人ぶりやがって」


 缶が手に渡る。アルミの冷たい感覚が掌に広がる。

 プルタブを引いた瞬間、湊がぽつりと零す。


「――俺、たぶん、相手の真剣さに飲まれてた」

「うん」

「その真剣さに見合う自分じゃない気がして、逃げてた」

「うん」

「……“今は無理”って言う勇気を持つ方が、受け入れるより怖い」

「うん」


 返事は相槌だけ。急かさない。評価もしない。

 その無色の受け止め方が、湊の胸の硬さを少しずつ緩めていく。


「でも言うよ。どっかでちゃんと」

「期限決めとけよ」

「期末まで」

「長ぇよ。来週の金曜」

「短いな」

「ビビるな、いける」


 押し切る口調に、湊は思わず苦笑した。

 缶の縁が唇に触れる。苦味が舌に流れ込み、肺の底まで少しだけ澄んだ気がした。


「……ありがとな」

「礼はホームランで返せ。次は打席増やすぞ」

「体力が死ぬ」

「心が死ぬよりマシ」


 言い合いながら人混みを縫う。

 その時、交差点の向こう側で誰かが手を振った。


「――あれ、蓮見くん?」


 澄んだ、よく通る声。

 振り向くと、黒髪を低い位置でまとめた女性がこちらに歩いてくる。白いブラウスに紺のカーディガン、肩に下げたトート。落ち着いた仕草の中に、親しみの笑みが浮かんでいる。


「……一華先輩?」


 湊が名を呼ぶと、彼女――バイト先の先輩、紫藤一華が目を細めた。


「やっぱり。珍しいところで会うね。えっと………隣は友達?」

「お、お疲れさまです。偶然ですね。隣は……大学の友人です」

「うん、偶然。――ちょうどよかった。これから少しだけ時間あるんだけど、もし良かったらコーヒーでもどう?勿論友達も一緒でも構わないよ」


 思いがけない誘いに、湊と慧斗は顔を見合わせる。さっきまでの重さがさらに薄くなる気配。

 夕暮れは夜の入口へ滑っていくところだった。

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