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制圧型幼馴染は侵食する

 学部棟の一角。廊下の突き当たりにひっそりと置かれた、小さなテーブルと二脚の椅子。

 普段ここを利用する学生はほとんどいない。窓際には古びた観葉植物がひとつ置かれているが、水やりも疎かにされているのか葉は少しくすんで見えた。


 湊はその席に腰を下ろし、ノートパソコンを開く。画面に映る真っ白なページと向き合いながら、ゆっくりと深呼吸をした。

 キーを叩く指先の音だけが空間に響き、外のざわめきは遠くに押しやられている。


 ――ここなら大丈夫だ。


 自分にそう言い聞かせる。

 いつものラウンジは授業の合間を過ごす学生で賑わっている。そこに行けば、きっと琴乃と顔を合わせることになるだろう。

 だから、あえて人の気配の薄いこの隅の席を湊は選んだ。


 心臓の奥に残るざわめきがまだ完全には消えていない。琴乃のあの言葉が、指と指が絡むあの感覚が、何度も頭をよぎる。それに昨日の詩織との会話。湊の心を見透かされたようなあの感覚。


 こんな気の持ちようじゃ、今は琴乃と向き合う事が出来ない。そんな言い訳じみたもやもやを正当化しながら、実際はただ琴乃を避けていただけだった。


 ページに視線を落とし、無理にでも課題へ集中しようとする。カタカタとキーを叩く音が、自分の心の不安を覆い隠すようで心地よかった。

 この静けさに身を沈めていれば、少なくとも今日は平穏に過ごせるはず――そう思った矢先だった。


「……こんなところにいた」


 その声は、迷いなく彼の名を呼び当てるように響いた。


 湊の指先が止まる。息が詰まり、硬直したままゆっくり顔を上げる。


 そこに立っていたのは息を整えながらも鋭い視線を向けてくる琴乃だった。

 窓から差し込む淡い光が彼女の黒髪を縁取っている。整った輪郭と、真っすぐな瞳。その存在感は狭い空間の空気を一変させる。


 彼女の姿を見た瞬間、湊の胸の奥に冷たいものと熱いものが同時に走った。

 見つからないはずの場所で、結局見つけられてしまった。


 逃げ場を失ったことを悟ると同時に、琴乃と対面した時の場合を想定していなかったからこそ、言葉が喉に詰まって出てこなかった。


 琴乃は歩み寄ると、湊の正面の椅子をためらいなく引いた。

 脚が床を擦る音がやけに響き、湊の胸をざわつかせる。彼女は腰を下ろすなり真っすぐ湊の瞳を射抜いた。


「避けてたでしょ」


 短い一言。だが、その鋭さに胸の奥が強く抉られる。

 湊は視線をパソコンに落とし、曖昧な返事でやり過ごそうとした。


「……別に、そんなつもりじゃ―――」


「嘘」


 琴乃は即座に切り捨てる。その声音は感情的というより確信に満ちていた。

 まるで淡々と事実を突きつけるかのように。

 

 机の上に両肘をつき、身体を僅かに前へ寄せる。その仕草に追い詰められるような圧迫感が湊を覆う。


「この前の事、ずっと考えてるんでしょ。……私の言葉、あの時の事」


 湊の耳の奥に彼女の言葉が再び刺さる。

 絡められた指の感覚までまた思い出してしまい、思わず手を開いた。


「……違うって」


 吐き出した言葉は弱々しい。

 だが琴乃は微かに目を細め、見逃さなかった。


「じゃあ、なんでラウンジにいなかったの? いつもなら絶対そっちにいるくせに。いきなり課題こんなとこでやるなんて確信犯じゃない?」


 視線を逸らそうとしても逃げ場はない。琴乃の瞳が真っ直ぐに迫り、心の奥すらも覗き込もうとしていた。


「………違うから」


 湊の「違う」という否定は、あまりにも弱かった。

 その声の震えを琴乃が見逃すはずもない。


「やっぱり図星じゃない」


 短く切り捨てるような言葉。彼女の声音は感情的に荒ぶっているわけではなかった。むしろ淡々としていて、だからこそ重くのしかかってくる。

 正面から射抜く瞳に逃げ場はなく、湊はただ圧倒される。


「避けてたのは事実でしょ。いきなりこんな隅っこの席で課題? ラウンジに行けば絶対に顔を合わせるって分かってるのに。……だから逃げたんでしょ、私から」


 机の上に置かれた湊の手がかすかに震える。琴乃はその様子を確認するかのように、身を少し乗り出した。

 机の脚が僅かに軋む音がやけに耳に刺さる。


「ねえ、湊。この前の言葉……忘れてないよね」


 低く抑えられた声。

 湊の心臓が跳ね、指先から力が抜けそうになる。絡められた指の感覚、あのときの体温が再び蘇った。

 視線を逸らしたくても、湊は逃げられなかった。


「狙ってるって言ったんだよ、私。冗談でそんなこと言うと思ってる?」


 問い詰める声音には一切の曖昧さがなかった。

 彼女の黒髪が肩口で揺れ、差し込む光を受けて艶やかにきらめく。その姿さえ、湊の目には逃げ場を塞ぐ壁のように映る。


「私は本気。……この前言ったのは勢いなんかじゃない。全部、私の意思」


 机に更に乗り出し、顔を近づける。その眼差しはわずかに細められ、真っ直ぐ湊を貫いた。

 強い視線に心を読まれる気がして、湊は呼吸を浅くする。


「私はもう幼馴染なんかじゃ満足できない。それ以上の関係を目指す」


 その言葉は静かに落ちたのに、湊の耳の奥で鋭く反響する。琴乃の瞳には迷いがなかった。

 照れもためらいもなく、ただ湊を捕らえて離さない意思だけが宿っている。


「避けても無駄。こうして見つけ出すし、逃がさない。……湊が私から離れようとすればするほど、もっと追いかける」


 その宣言に湊の背中を冷たいものが走る。

 小悪魔のような揶揄いではない。自信に満ちた圧力。彼女の強烈な意志が、言葉一つ一つに重さを与えていた。


「決めたんだから。湊は私のものにする」


 囁くように落とされた声は、逆に耳元で叫ばれるよりも鮮烈に響いた。

 湊の胸が強く脈打ち、喉が渇いて声が出ない。


 琴乃は背を伸ばし、わずかに余裕を見せるように椅子へ深く腰を下ろす。だがその視線は外されない。

 挑むような笑みさえ浮かべながら、なおも言葉を畳みかけた。


「ねえ、あんたはどう思ったわけ?私からの告白を受けて」


 鋭い光を宿した黒い瞳が湊を射抜く。

 その視線から逃れられないまま、湊は蛇に睨まれたかのように硬直していた。


「俺は……………悪いが、お前の告白を受ける気は、現状……ない」 


 喉を擦るように絞り出された言葉。

 空気に落ちた瞬間、湊の胸にずしりと重く沈んだ。


「ふーん」


 短く吐き出された声は意外なほどあっさりしていた。

 琴乃は目を細め、唇の端をわずかに上げている。拒絶されたはずなのに、彼女の瞳には失望の色など一片も浮かんでいなかった。


「まあ、分かってたわよ。直ぐに首を縦に振るわけはないってことくらい」


 淡々とした口調。その余裕がかえって圧を強める。

 まるで想定通りだと言わんばかりに、琴乃は椅子の背を軽く鳴らしながら前へ滑らせ、距離を詰めてきた。


「でもさ、湊。それはあくまで“現状”でしょ?」


 低い囁き。湊の胸に冷たい震えが走る。

 彼女は机に片肘をつき、湊の真横から迫った。


「これから私がどう動くかで、答えなんて簡単に変わる。……あんたがいくら否定したって、私は止まらない」


 言葉と同時に琴乃の手が伸びる。

 机に置かれていた湊の手を迷いなく掴み取り、指と指を絡めて握り込んだ。

 脳裏にこびりついていたこの前の感覚と同じ。熱を帯びた手のひらがじわりと伝わり、湊の肩が強張る。


「……っ」


 反射的に解こうとしたが、それを許す隙はない。

 琴乃の指がしっかりと絡み、恋人繋ぎの形で逃げ道を塞いでいた。


「現状は受ける気がなくてもいいわよ」


 至近距離で囁く声は甘やかで、だが芯には鋼のような硬さがあった。


「でもね、これから私はあんたに触れて、見せて、隣にいる時間をもっと増やす。……そうしたら、その曖昧な現状なんて簡単に崩れる」


 言葉を重ねるたび、琴乃は湊の手を強く握りしめ、絡めた指先に力を込める。

 湊の表情が少し歪むのを確認すると、わずかに琴乃は挑発的な笑みを浮かべた。


「分かる? こうやってもう一度手を繋いだだけで、あんたは動揺してる。…………どう?気持ちなんて簡単に揺れ動きそうじゃない?」


 彼女の黒髪が揺れ、差し込む光を反射して艶めく。その眼差しは揺るぎなく湊を見据える力だけを増していく。


「何とか言いなさいよ。それとも、もう言葉なんて出ないかしら」


 言葉の最後を切り落とすと同時に、琴乃はさらに椅子を寄せ、肩が触れ合うほどの距離まで迫った。


「…………お、おい、これ以上………」


 拒否の姿勢を見せるが、その圧迫感に湊は成す術がなかった。

 肩が触れ合う距離。琴乃の熱が押し寄せる中、湊の顔はますます苦しげに歪んでいった。

 額に寄る皺、かすかに震える唇。普段は飄々としている湊が見せないその表情が、逃げ場のない圧迫感の中で露わになる。


「……やめろって」


 かろうじて絞り出した声は低く、掠れていた。

 それでも繋がれた手は振り解けず、ただ抵抗の意志だけが表情に滲む。


 琴乃はその顔をじっと見つめ、ゆっくりと笑みを深めた。

 挑発でも揶揄でもない。確信を得た者だけが浮かべられる、満足げな笑み。


「その顔……………あはっ」


 琴乃の声音は無邪気に喜ぶような、同時に勝ち誇った響きが混じる。

 湊が苦悩するほど、彼女の胸の奥には熱が生まれ、痺れるような快感が広がっていった。


「普段は飄々としてるくせに、私がこうやって迫るとさぁ……………ねえ、知ってた? その顔、私一番好きなんだよ」


 強く絡めた指先をさらに押し込み、手のひらをぴたりと合わせる。

 湊がわずかに息を呑むと、その反応さえも琴乃の心をくすぐった。


「私は私のやり方でやるから。もうあんたの気持ちを考える余裕もあんまりないわ」


 低く言い切ると同時に、琴乃は湊の横顔を至近距離で覗き込む。視線を逸らす隙も与えず、彼の苦悩を刻み込むように見据え続けた。


 湊が困惑と拒絶で顔を歪めれば歪めるほど――そのすべてが、琴乃にとっては自分の存在を証明する甘美な証拠に思えた。 


 琴乃は絡めた指にもう一度だけ力を込める。骨と骨が触れ合う確かな圧に、湊の呼吸がわずかに詰まる。その反応を舌の裏で味わうように、彼女は低く囁いた。


「覚えておきなさい。逃げたって見つけるから」


 次の瞬間、廊下の奥で講義の予鈴が鳴った。乾いた電子音が突き当たりの静けさを震わせる。

 琴乃はようやく手を放す。絡めていた指が離れ、互いの掌に熱の形だけが残った。


「今日はここまでにしといてあげる。次は………どうなるかしらね」


 何でもない用件を告げるみたいに平板な調子で言い、椅子を引く。脚が床を擦る音がまた短く鳴り、彼女は立ち上がった。

 去り際、背を向けかけてから顔だけを振り返る。黒目がちの視線が釘のように湊を留めた。


「じゃあ、またね」


 踵を返し、細い足取りで廊下の角へ消えていく。揺れる黒髪が光を裂き、余韻だけを置いていった。

 残された湊は開きっぱなしのノートパソコンを見下ろす。画面の白さがやけに眩しい。何かを打ち込もうとする指先はまだ微かに震えていた。


 突き当たりの空気は元の静けさを取り戻したはずなのに、胸の奥で波打つ鼓動だけがいつまでも収まらない。

 掌に残る熱がさっきの言葉と同じ温度で、じりじりと意識を焦がし続けていた。

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