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制圧型幼馴染はもう止まれない

 湯気の残る洗面所。白い鏡面に映った自分の姿を見つめ、私は小さく吐息を漏らした。


「…………酷い顔」


 濡れた髪が頬に張り付き、目の下にはわずかな影が落ちている。

 肌の赤みも、火照りのせいなのか疲れのせいなのか判然としなかった。

 

 だが、それ以上に──鏡の中の自分はどこか力なく見えた。


 お風呂に入って少しはすっきりしたはずなのに、胸の奥の重さは抜けていない。

 原因なんて分かりきっている。 


 あの子──櫻庭詩織と交わした会話が、ずっと胸の奥で重くのしかかっていたから。

 軽口や冗談で済ませられるものじゃなかった。

 あの真剣な眼差しと真っすぐに放たれた言葉は、耳に焼き付いて離れない。


『だって先輩、もう“過去の女”なんですから』


 その声が、今でも頭の中で何度もリフレインする。

 笑って受け流すこともできなければ、聞かなかったことにすることもできなかった。

 

 だってあの瞬間、私は確かに脅かされたのだから。

 自分の中で当たり前だと思っていたもの──湊が隣にいる日常が、簡単に揺らいでしまうんだと。


 私は歯を食いしばり、鏡の前で拳を握った。


 湊は昔から私の隣にいるのが当たり前だった。

 困った時には支えてくれて、私も強がって背中を押してきた。

 

 喧嘩しても結局は仲直りして、また隣に戻ってきてくれる。そんな関係は揺らぎようのないものだと思い込んでいた。


 ──けど違った。


 詩織の言葉一つで、私はこんなにも不安に駆られている。彼女は迷いもなく真っすぐに湊を見ているのだろう。あの詩織からはそれをふつふつと感じさせた。

 

 その姿を思い出すだけで、胸がきゅっと縮む。

 私が意地を張っている間にあの子はどんどん距離を詰めていく。

 

 このままじゃ、本当に取られてしまう。


「……………」


 唇を噛む。

 ふと、頭の中に雅の声が蘇った。


 ──取られたくないなら素直になりなよ。


 あの時は本気にせず聞き流した言葉。

 でも今は違う。痛いくらいに心に突き刺さる。


 私はずっと強がって、素直になれずにいた。

 からかって、突き放して、わざと意地悪をして。幼馴染という関係に甘えて、気持ちを隠してきた。

 でも、このままじゃ駄目なんだ。


 もしこのままの関係に甘え続けていたら、私はまた後悔する。

 湊を失ってから、ようやく気づくなんて絶対に嫌だ。


 私はタオルで乱暴に髪を拭き、鏡の中の自分を睨みつけた。

 弱さも、不安も、全部ひっくるめて受け止めるしかない。怖くても、素直になるしかない。

 そうしなければ、本当にあの子に奪われてしまうから。


「……次は、ちゃんと伝える」


 かすれた声が、湯気の残る洗面所に静かに落ちた。







 翌日の昼下がり。

 学部棟の一角にあるラウンジは授業の合間を過ごす学生たちで賑わっていた。

 テーブルに置かれた紙コップから漂うコーヒーの香り、椅子の軋む音、遠くで交わされる笑い声──そんな雑多な空気の中で、湊は一人、ノートパソコンを開いて画面に視線を落としていた。


 その姿を見つけただけで、胸の奥がきゅっと締め付けられる。

 昨日、鏡の前で誓った言葉が蘇る。


 ──次は、ちゃんと伝える。

 そう決めたのだから、もう逃げない。


 私は一度深呼吸をしてから歩み寄った。


「……湊」


 名を呼ぶと、彼は顔を上げる。驚いたように少し目を瞬かせ、それから「おう」と柔らかな声で返してくれた。

 その何気ない仕草だけで胸の奥が熱くなる。


「講義……終わった?」


「………まあな。レポートが残ってるけど」


「そ、それなら、さ…………一緒にやらない?」


 声がわずかに震えてしまう。

 普段なら「仕方ないから手伝ってあげる」とでも言うところを、今日は違う。

 必死に縋るような響きに自分でも驚いた。


 湊は一瞬目を丸くしたが、すぐに口元を緩めて頷いた。


「……いいけど。琴乃がそうやって言って誘ってくるの、珍しいな」


 心臓が跳ねる。

 図星を刺されて言葉に詰まりそうになったが、なんとか笑みを作った。


「たまには、ね」


 本当は“取られたくないから”なんて言えるわけがない。

 でも、これが私なりの第一歩だ。


 隣に腰を下ろすと、湊の顔がすぐ近くにあった。

 胸の奥の不安はまだ消えない。だけどそれ以上に、隣にいられる嬉しさが込み上げてくる。


 私たちは互いに机の上にノートと教科書を広げた。

 ペンを走らせる湊の横顔を盗み見るたび、胸の奥がざわつく。声をかけたいのに上手く言葉が出てこない。


 私は教科書のページをめくるふりをして、視線を伏せた。


 ──伝えなきゃ。


 そう決めたのに、勇気は思うように出てこなかった。

 喉の奥で言葉が渦巻くだけで声にならない。沈黙が重く積もり、数分が永遠のように長く感じられる。


 それでも──耐えきれずに、ようやく零れ落ちた。


「…………この前は、ごめん」


 自分の声に自分が驚いた。

 だが、言ってしまった以上取り消すことはできない。手元のペンを強く握りしめながら、私は湊の反応を恐る恐る待った。


 彼は手を止め、少し目を瞬かせた。


「……ああ。壁際で、あんな感じになったやつ?」


 静かな声。揶揄う響きはなく、むしろ気遣うような調子に胸が締め付けられる。


「……うん。私、言い過ぎたし……ちょっと怖かったでしょ」


 言葉が震える。

 本当は怖がられる視線でさえも、湊が私一人だけを見てくれるなら、それで満たされると思っていたくせに。

 そんな醜い独占欲を隠すように、言い訳めいた言葉を並べている私を悪い奴だと自分でも思う。


 湊はしばらく黙っていたが、やがてゆっくりと首を振った。


「まあ……琴乃らしいっていうか。別にもう気にしてない。こうして謝罪もしてくれたわけだし、もうあの時のことを掘り返す理由もないから」


 その一言で、胸の奥がじんわりと熱を帯びる。

 安心と、嬉しさと、まだ拭えない不安がごちゃまぜになって、呼吸が少し乱れそうだった。


「………ありがと」


 声がかすれてしまう。

 それでも湊は気にする様子もなく、いつもの調子でノートに視線を戻していく。


 その横顔を眺めていると、胸の奥がまたざわついた。

 こうして何もなかったように隣にいられることが嬉しいはずなのに。

 同時に──安心した途端、またすぐに怖くなる。


 彼の世界から、私が零れ落ちてしまうんじゃないかって。


 だから、机の下で握った拳に力を込める。思わず声が漏れそうになる。

 本当は「誰にも渡したくない」「私のものだ」と、今すぐにでも叫んでしまいたかった。


 だけど、口から出たのは別の言葉だった。


「……これからは、ちゃんとするから」


 湊がペンを止め、こちらを振り返る。

 柔らかな目を向けられた瞬間、心臓が跳ねて息が詰まった。


「……何を?」


 問い返され、喉が一瞬固まる。言いたいことは山ほどあるけど、正直すぎる言葉はまだ怖い。

 だから小さく笑みを作って、誤魔化すように答えた。


「色々、ね。……湊に迷惑かけないように」


 自分で言いながら心の奥で笑っていた。

 本当は逆だ。迷惑でも何でも構わない。

 例え怖がられても、嫌われても、あんたが誰かのものになるくらいなら、私は全部壊してでも隣にいる。


 昨日までの私は、必死にそれを隠してきた。

 優しい幼馴染を演じて、当たり障りのない顔をして。



 …………けど、それじゃもう足りないんだよ。

 私は過去の女じゃない。素直にならなきゃ取られる。


 机の下で震える指先を強く握り締め、私は唇を噛んだ。

 

 逃げるな。自分で決めたはずだ。

 もう嘘なんかやめて正直になれ。言葉にしなきゃ、私はこいつの隣にいられなくなるかもしれない。


「……湊」


 彼が不思議そうに顔を上げる。

 静かなラウンジの喧騒が遠く霞んで、私の声だけが響く。


「私……あんたのこと、まだ狙ってるから」


 空気が張りつめた。

 湊の瞳が驚愕に見開かれ、言葉を失ったまま私を見つめる。

 私は結局止まらなかった。


 私は震える指先からペンを手放し、その手を空いている湊の左手に向かって伸ばした。

 そして、上から互いの指と指の間を絡め、恋人繋ぎのように手を握る。


「詩織にだって、他の女にだって……絶対に渡さない。湊は私のものにするから」


 胸の奥から溢れ出た言葉は思った以上に真っ直ぐで、熱くて、どうしようもなく醜かった。

 だけど──その瞬間、不思議なほどに心は軽かった。

 ようやく自分に正直になれたから。


 例えまた余所余所しくなっても、私は追い続けるよ。あんたに拒絶されても、きっと。


 湊は何も言わない。大きく見開いた目が、ただ私を捕らえて離さなかった。

 その反応に安堵と快感が入り混じり、私は小さく笑みを浮かべた。


「覚悟してよね。………もう高校の時とは色々違うんだから」

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