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幼馴染と後輩

 カチカチとキーを叩く音が狭い休憩スペースにやけに響いていた。

 学部棟の二階。ガラス張りの窓からは午後の日差しが差し込み、床に淡い模様を描いている。整然と並んだテーブルの一角に私は座り、ノートパソコンに向かっていた。


 空気はしんと静まり返っていて、聞こえるのは時折の椅子の軋みと、誰かの指先がキーボードを叩く乾いた音くらい。

 周囲には数人の学生が散らばっているが、みんなそれぞれに課題やレジュメに没頭しており、雑談も笑い声もなかった。静けさは集中にはうってつけだった。


 私は画面に目を落とし、黙々と文字を打ち込む。レポートの進捗は順調。

 後で焦るのは嫌だ。高校の頃からやるべきことは早めに終わらせる。それが私のやり方で、癖でもある。


 ふと、指が止まる。肩に少しだけ張りが残っていたので伸ばそうとした瞬間――隣の椅子が引かれる音がした。


 視線を上げるまでもなく、誰なのか察しがつく。聞き慣れた声が半ば呆れたように、けれどどこか親しげに響いた。


「……相変わらず真面目だねぇ、琴乃」


 案の定だった。

 彼女は高坂雅(こうさかみやび)。肩につく茶髪をざっくり後ろでまとめて、片手にはアイスコーヒー。派手さはないけど、いつも清潔感がある。昔からそうだった。気取らないのに印象は薄くならない、不思議な雰囲気の女の子。


 高校の頃からの付き合いで、私は一年生の時から彼女と同じクラスだった。

 だからこそ、私が湊の隣に立ち続けてきたことも、私の湊に対する気持ちも知っている。


 だから、こいつの前では誤魔化しがきかない。

 ペットボトルのアイスコーヒーを片手に、当然のように私の隣に腰を下ろす。


「課題なんて、できるときにやるのが一番効率いいでしょ」

「はいはい、そういうとこは昔から変わんないよね」


 軽口を叩きながら、雅はキャップを開けてごくりと喉を鳴らした。


 この友人は昔からこんな調子だ。

 べたべたしてこないくせに妙に距離感は近い。高校の頃もそうだった。気づけば隣にいて、勝手に人の本音を見抜いてくる。


 画面に視線を戻し、再び指を動かそうとしたとき。

 さらりと、何でもない調子で落とされた言葉に心臓が跳ねた。


「で、蓮見は?」


 ほんの一拍、手が止まる。

 打ちかけた文字列が中途半端に残って、カーソルが点滅していた。


「……湊はサークル」

「ふぅん。最近蓮見と講義一緒受けてないよね?何かあった?」


 最近の私たちをよく見ている鋭い質問に、レポートを書く手は完全に止まってしまった。


「……別に。何もない」


 短く答えながら視線を画面に固定する。変わらず指先は動かなかった。


 雅の目は鋭い。わざと追及するわけでも、からかうわけでもない。

 ただ事実を見抜いて当たり前のように口にする。だから厄介だ。


「そう? でもこの前の昼休み、棟内ですれ違ってたの見たよ。あんたと蓮見」


 胸の奥がひやりとする。

 湊と廊下ですれ違った。そりゃあ、同じ学部学科で講義も一緒の物が多いのだから当然。

 

 視線は一瞬だけ交わったが、互いに何も言わず、そのまま素通りした。

 周りの学生にはただの他人にしか見えなかっただろう。だが、私にとってそれは息苦しいほどの数秒であり、とても耐えられなかった。


 あの課題を一緒にやったとき以来、湊は私の事をきっと少し避けている。

 完全に会話をしなくなったわけではないし、一緒の講義は隣で受けている。だけど、どこか会話は余所余所しくて、目線もいつもより合わなかった。


 こうして一人で課題に取り組むのも久しぶりで、どこか寂しかった。


「普通声くらいかけるでしょ。あんたたちらしくなかったよ」


 あっさりと指摘され、心臓がぎゅっと縮む。

 雅は大げさに笑ったりしない。ただ事実を並べるだけだからこそ、余計に響いてくる。


「……気分じゃなかっただけ」


「………ふーん。ま、そういうことにしておく」


 キャップを開けて無造作にアイスコーヒーを飲む雅。

 私の内心なんてお見通し、という顔。


 ……やめてよ。そんな簡単に突き止めないで。

 胸の奥で、言葉にならない苛立ちがじわじわ広がっていく。


「高校のときから分かりやすいんだよ、あんた。蓮見くんのことになると」


 言い切られた瞬間、耳の奥まで熱が走った。

 否定したい。だけどできない。雅は全部知っている。私がどれだけ必死で湊の隣を守ってきたか、他の誰よりも理解しているから。


「……鬱陶しい」


「はいはい。図星突かれたときの口癖も変わんないね」


 サバサバした笑みを浮かべると、雅はペットボトルを片手に立ち上がった。

 軽く伸びをして、もう用は済んだとでも言うようにあっさりと背を向ける。


「ま、いいんじゃない? でも――取られたくないなら素直になりなよ」


 それだけ言い残して、片手をひらひら振りながら歩き去っていった。

 雅らしい。深入りはしないくせに、言うことは言っていく。


 私はただその背中を目で追いながら、深く息を吐いた。

 やけに広く感じる隣の椅子。さっきまであれだけ煩わしかった存在が消えたのに、空気が妙に冷たく感じられるのが気に入らない。


 レポート画面に視線を戻す。

 カーソルは淡々と点滅を繰り返しているのに、頭の中は真っ白で言葉が出てこなかった。指先も凍りついたみたいに動かない。


 ……そう、湊とのすれ違い。

 声をかけられなかった。ほんの一言すら出なかった。

 ただ目を逸らして、素通りするしかなかった。


 周囲からすればきっとなんでもない光景。だけど私にとっては、胸を締めつける数秒。


 ――寂しい。悔しい。苛立たしい。

 でも、それ以上に。


 胸の奥で熱がじわじわと膨れ上がっていく。焦りや不安をすべてかき消すような、鋭い決意。


 ……そう。湊は私のものだ。

 すれ違って声をかけられなくたって、会話がぎこちなくなったって。

 私が手放さない限り、誰にも渡しはしない。


 画面を見つめたまま、私は小さく唇を噛んだ。

 カーソルは変わらず点滅を繰り返している。まるで「早く答えを出せ」と急かしているかのように。






 気づけば課題に想定以上の時間を食ってしまい、キャンパスを出た頃にはもう日が暮れていた。

 西の空に残っていた赤みもすっかり落ち、街灯の白い光が路面を照らしている。

 小腹も空いたし、飲み物くらい買って帰ろう――そう思って私は近くのコンビニに足を向けた。


 店の前のスペースには銀色のU字型ガードレールが並んでいる。その一本に、背を預けるように寄りかかっている人影があった。

 コンビニの明かりに照らされて、紙コップを口に運ぶ仕草が見える。


 何気なく目をやったその瞬間、胸に小さなざわめきが走った。

 見覚えのある顔。


 ――櫻庭詩織。


 頬にかかる髪を乱暴に耳に掛け、どこか疲れた表情でカフェオレを口にしている。

 笑っているわけでもなく、ただ虚ろに夜を眺めるその姿に一瞬ためらいが生じる。


 私は思わず足を止め、眉間に皺を寄せた。


「……うげっ」


 声に出してはいない。だが、顔が勝手にそう歪む。

 気づかれたくない。でも視線はもう逸らせなかった。


「ん………あれ~?誰かと思えば、先輩の元彼女さんじゃあないですか~」


 紙コップを揺らしながら、詩織が細い目をこちらに向ける。

 口元は緩んでいるのにその視線は笑っていなかった。


「私はバイト終わりですよー。さっきまでレジに立ってました」


「ふぅん。ご苦労さま」


 私はそっけなく返す。立ち去ればいいのに、足は止まったままだ。

 目の前の女の表情に警戒心が勝手に膨らんでいく。


「琴乃先輩もこんな時間にお買い物ですか?」


「課題が長引いたの。帰りに寄っただけ」


「へぇ……。湊先輩は一緒じゃないんですね」


 その名前をさらりと口にされ、胸がぴくりと反応する。

 詩織はわざとらしく肩をすくめ、カフェオレを口に含んだ。


「よかった。もし一緒に来てたら、湊先輩に迷惑かけちゃうところでしたから」


「……何それ」


「いえいえ。ただの冗談ですよ」


 目の奥だけは冗談を言っていない光を宿したまま、詩織は笑う。

 私は睨み返すが、表面上は笑みを崩さなかった。


「………この際言っておくわ。あんた、湊に付きまとうのやめてくれないかしら」


 胸の奥でずっと燻っていた言葉が気づけば口から滑り出ていた。

 吐いた瞬間、わずかに自分でも震えを感じたが、もう引き返す気はなかった。

 この女の前で何も言わずに黙っているなんて絶対に嫌だった。


 詩織は一瞬だけ目を丸くし、それからゆるく笑った。

 その笑みは形だけ柔らかいのに、目の奥には冷ややかな光が宿っていた。


「……付きまとう? そんなつもりは全然ないですけど」


「だったら、どうしていつもあいつの周りをうろついてるのよ」


「“うろつく”なんて。酷い言い方ですねぇ」


 紙コップを弄ぶ指先。わざとらしく肩をすくめるその仕草。

 軽い調子に見せかけているけれど、挑発の匂いが隠しきれていなかった。


「困ってるときに声をかけてもらったり、心配してもらったり……そんな優しさに触れたら、誰だって惹かれちゃいますよ。琴乃先輩だって、そうだったんじゃないですか?」


 胸がぎゅっと縮む。

 ――違う。あの子が優しいのは、誰にでもそうだから。


 詩織はそれを見透かすように、目を細めて笑った。


「……勘違いも甚だしいわね。湊はそういう人なの。あんたに限った話じゃない」


「まあ、仮に勘違いだとしても――」


 詩織の瞳が夜の光を映して細く尖る。


「人を想う気持ちに、琴乃先輩が口を出す権利なんてないですよね?」


「っ……!」


 喉の奥に鋭い棘が刺さったように、言葉が出なくなる。

 理屈で返せないことが何よりも悔しい。


「私は……」


 絞り出しかけた声を詩織が切り取った。


「だって先輩、もう“過去の女”なんですから」


 胸が一瞬で凍りついた。

 奥歯を強く噛み締めすぎて、軋む音が自分の耳に届きそうだった。


「……ふざけないで。私はまだ隣にいる」


「ほんとですか?」


 軽い問いかけに、爪で抉られるような痛みを覚える。


「私から見ると、最近ちょっと距離があるようにしか見えませんけど」


「っ……」


「昼休みの廊下ですれ違ったとき、素通りで声ひとつかけなかった。……あれが“まだ隣にいる”人の姿なんですか?」


 心臓が止まったように跳ねた。

 あの数秒の沈黙をこの女にも見られていたなんて。胸の奥の秘密を覗かれた気がして、呼吸が苦しくなる。


「……あんたには関係ない」


「関係なくないですよ。私にとっては大事なことですから」


 詩織はにこりと笑う。だがその笑みは、優しさとは無縁の色をしていた。


「だって――もし琴乃先輩が“過去の女”でいてくれたら、次は私の番なんですから」


 その言葉は容赦なく胸を抉った。

 悔しさと苛立ちで喉が熱を帯び、視界の端まで赤く染まっていく気がした。


「……」


 私は言葉を失い、ただ睨みつける。

 喉にせり上がる熱い感情は、形を持てずに渦を巻くばかりだった。


「まあ、今の状況、私からすれば好都合なんですよね」


 詩織はわざとらしく息を吐き、声を落ち着かせる。


「このまま湊先輩がこっちを見てくれたら……そのときは遠慮なく、ってだけですから」


「…………」


 吐き出したい言葉は喉に張りついたまま動かない。

 私はただ視線で拒絶を示すしかなかった。


 詩織はそんな私を見て楽しそうに微笑むと、紙コップをゴミ箱に投げ入れ、軽く手を振った。


「じゃあ、また学校で。……お互い、頑張りましょうね」


 背を向けて歩き去る姿は疲れているはずなのに背筋がまっすぐ伸びていて、不思議と余裕を漂わせていた。

 その余裕が、私にはどうしようもなく癪だった。


 拳を握りしめる。

 爪が掌に食い込み、鈍い痛みが広がる。それすら怒りを抑えるには足りなかった。


 ――過去の女? 冗談じゃない。

 私はまだ隣にいる。これからも。誰にも渡す気なんて、これっぽっちもない。


 街灯の白い光が夜の冷気を一層強く照らし、胸の奥の決意をさらに固くしていった。

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