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悲運の皇妃

 首都に来て早2ヶ月、リューとハッサンは全身麻酔手術の集積を続けていた。直腸脱の手術を成功させてからは、エーテル麻酔の評判を聞いた政府高官が外科外来へ訪れる様になり、今や週に1〜2件の手術が行われていた。

 患者たちは長年悩んでいた脱腸や皮膚腫瘍を抱えて外来を訪れる。それらに対して、最初のうちは全てリューが執刀していたが、皮膚腫瘍などの手術は、次第に他の外科医たちも執刀する様になっていた。


「・・・手術終了です、お疲れ様でした」


 この日は、鼠径ヘルニアの手術があった。リューは原初のヘルニア手術であるBassini法にて左の内鼠径ヘルニアを修復する。

 一時は違法解剖の嫌疑が掛けられ、他の医局員から距離を置かれてしまったリューだが、長い時間をかけて自分の腕を披露し、彼の人となりも相まって、再び信頼を取り戻しつつあった。


「リュージーン、後で聴きたいことがあるんだが・・・」

「はい、ナスール先生、勿論良いですよ」


 特に若い外科医たちは、17歳の助教に遠慮なく教えを乞うた。彼がどこから来たか、どこでその知識を手に入れたか・・・最早、そんなことはどうでも良いと思えるくらい、彼が披露する未知の外科手術は外科医たちを魅了していた。

 その腕前は外科学教室の域を超えて評判になりつつあり、医学学校内部はもちろん、政府中枢にも彼の名前を噂する者が現れる様になっていた。


「あの・・・」


 リューは他の外科医やハッサンと共に、研究室で休息を取っていた。すると扉の外から、久しぶりに聞いた女学生の声が聞こえてきた。


「あれ、アイーシャさん・・・久しぶりですね?」


 アイーシャは一時期、ほとんど毎日の様に外科学教室を訪れていたが、ここ1ヶ月は姿を見せていなかった。リューはそんな彼女を少し心配していたのである。


「・・・」


 リューはいつもの様に柔和な笑みを浮かべる。一方、アイーシャは以前の勝気な笑顔がない。彼女は小さな深呼吸をすると、久しぶりに現れた理由を語り始める。


「あの、実は・・・ある患者の相談をしたいの。ここ1ヶ月、その前準備に手間取ってなかなか学校にも来られなかったんだけど・・・」

「準備・・・」


 リューは2ヶ月前に彼女と交わした会話を思い出す。外科医の診察を受けるためだけに、長い前準備がかかる程の人物、そしてアイーシャが相談したい人物など、1人しか思い浮かばなかった。



 リューはアイーシャを引き連れ、教授執務室へ彼女を案内する。大理石製のデスクに座すアブアールを前にして、アイーシャは背筋を伸ばしていた。


「・・・で、君は今日、患者の相談のためにここへ来たわけか」

「はい、時間を取って頂き、感謝します」


 アイーシャは貴族令嬢に相応しい振る舞いで礼をする。その様子を後ろから見ていたリューは、不思議な違和感を抱いていた。


「その患者はまだ、国立医学学校を受診できる状況ではありません。なので、往診して頂きたいのです。場所は『外廷』・・・」

(・・・外廷)


 「外廷」とは、皇帝とその子女・妃たちの私的な居住空間である「後宮(内廷)」に対して、文官・武官が勤務し、公的な執務や儀式を行うエリアのことだ。つまり、通常は出入りできない第1の城壁の内側に相当する場所である。


「第1の城壁『ジダール・ラー』の通行手形は此処に。表向きは、その患者による召喚に応じて向かうという形になります」


 アイーシャは公印が押された手形を取り出す。宮廷へとつながる第1の城壁を守る門番に見せるためのものだ。


「そして・・・もうすでにお分かりかと思いますが、患者の名はシェエラザード・アメンホテプ=イドリースィー、皇帝の第一妃です」

「・・・!」


 その場にいたハッサンとアブアールは生唾を吞み込む。15年前に残した因縁に、決着をつける時がついに来たのだ。


: : :


 3日後、リューとハッサン、アブアール、さらにはアイーシャを乗せた馬車は、第1の城壁と第2の城壁の間のエリアである「中心街」のメインストリートを進む。窓の外には、貴族の館や官公庁舎、公共施設、宗教施設などが立ち並んでいた。


「まさか・・・あの日以来、皇妃殿下を診察させて頂く機会を得られるとはな」


 ハッサンの脳裏には15年前の記憶が蘇る。血の海の中、皇子を取り出した帝王切開の凄惨な光景は、忘れたくても忘れられない。


「しかし、よく我々に診察の許可が降りましたね。医師の診察とはつまり、殿下のお体に触れることを意味する。本来、宮廷医にしか許されない行為だというのに・・・」


 皇帝の子を産む妃には、万が一にも不義があってはならず、さらに過剰なまでの貞淑さが求められる。その結果生まれたのが宦官であり、閉じられた園である後宮だ。

 いくら医師とは言え、宮廷医でもない者に妃の診察が許可されるなど、それこそ15年前の帝王切開以来のことである。


「妃とは言えども、子宮を失った子を成せない女です。言い換えれば、いくら密通があっても不義の皇子は産まれないわけですから、好きにしろ・・・ということなのでしょう」

「・・・う」


 ハッサンとアブアールはアイーシャの言葉を聞いて、心の古傷を抉られる思いだった。それは皇帝がシェエラザードに対する興味を、全く失っていることを示唆していた。



 馬車は門の前に止まり、御者が門番へ通行手形を見せる。そしてリューたちはついに、この国の中心部「宮廷」へと足を踏み入れた。一般の平民は立ち入ることすらそうそう許されない不可侵の領域へ、とうとう飛び込んだのである。


「うわ・・・!」


 そこには中心街すらも凌駕する、贅を尽くした光景が広がる。絢爛で彩り豊かなアラベスク模様があしらわれた建物が並び、その合間には色鮮やかな異国の草木が咲き乱れ、地表は大理石製の石畳で舗装されている。中庭には噴水すらも引かれており、その周囲は広大な芝生が広がっていた。

 ここに勤めるのは、貴族の中でも宮廷への参内を許された高官ばかりだ。ゆえに彼らが来ている衣服も絢爛なものばかりである。


 馬車はその一画で止まる。アイーシャを先頭にして降りていくと、そこには1人の侍女が待っていた。


「お待ちしておりました、皇妃殿下のご親族とその御連れ様ですね。殿下よりご案内する様、承っております」

「ええ、早速・・・叔母のもとへ連れて行って頂戴」


 侍女は一礼しながら来訪者たちを出迎える。アイーシャはその顔を一瞥すると、不遜な態度でシェエラザードのところへ案内する様に命じた。


 一行は建物の中に入っていく。全てが段違い、自らの何もかもが場違いだと思えるこの世界で、リューは奥へ奥へと進んでいく。そしてついに、リューはこの国の皇帝に最も近い人物と対面した。


「・・・!」


 その女性は窓辺に腰掛け、素顔はカーテンのレースの向こう側に隠れている。だが直後、風がレースを押し除け、皇妃の素顔が明らかとなった。


(綺麗な人だ・・・)


 一瞬、男性と見紛うほどの凛々しい顔つき。しかし、よく目を凝らしてみると、その顔は非常に整っていることがわかる。“男装の麗人”・・・正しくそのフレーズが似合いそうな人だと、リューは感じていた。


「アイーシャ、久しぶりだな」

「シェエラ姉・・・殿下もお元気な様で何よりです」


 アイーシャはつい幼少期と同じ呼び名を口にしてしまうが、すぐに言い直して跪き、最上級の敬礼を捧げる。2人はもう、年の近い姪と叔母には戻れない。アイーシャの仕草を見て、シェエラザードは悲しそうに笑う。

 そして彼女は、アイーシャの背後に跪く3人の男に視線を向ける。


「アイーシャから、この腹を治せる外科医がいると聞いた。それがお前たちか? ・・・面を上げよ」

「・・・!」


 リューが顔を上げる。それに遅れてハッサンとアブアールが顔を上げた。


「お前たち、確か・・・あの時の?」

「!!」


 ハッサンとアブアールは体をびくつかせる。彼らとシェエラザードは15年前に会っている。顔を覚えられていたことを知り、2人は額から冷や汗を流す。


「あ、あの! 殿下! ここにいる3人はこの国でトップに立つ外科医です! 勿論、冷やかしで来たわけではなく・・・」

「フフ、落ち着いて・・・アイーシャ」


 アイーシャはハッサンとアブアールが追い出されると思い、咄嗟に弁明を図ろうとした。だが、シェエラザードはクスクスと笑って彼女を宥める。


「子の命を救ってくれた恩義は感じれど、恨む道理がどこにある? だが、あの時は私も動転していて、満足に礼を言うことも出来なかった。ずっと、それが気がかりだった。むしろあの時の外科医に会わせてくれて感謝している」

「・・・え」


 シェエラザードから出た言葉は、ハッサンとアブアールにとって意外なものだった。そして彼女は改めて2人へ向き直す。


「皇子の命を助けてくれて、ありがとう」

「!!」


 シェエラザードは立ち上がり、頭を下げる。その言葉を聞いた瞬間、ハッサンとアブアールは心の中で、何かが砕けた様な感覚に陥った。15年間の苦悩と後悔が、一気に晴らされたような、そんな心地になっていた。


「だが、陛下はあれ以降、私のもとへは通わない。子宮を失ってまで産んだ皇子さえ、この腹を恐れて私に近寄らない」


 シェエラザードは服の中に隠れた傷跡を触る。


「もし、この呪いの傷が治るのなら、何でもする。早速、診てくれないか?」

「・・・御意!」


 ハッサンとアブアール、そしてリューは皇妃の願いを知る。3人は改めて深く首を垂れた。



 その後、彼らは診察のため、寝台のある部屋に移動する。簡素なベッドに横になるシェエラザードの横に、リュージーンが立っていた。


「君が全身麻酔の開発者か。アイーシャの手紙でよく知っている。若いのに優秀なんだな」

「・・・! 恐縮です」


 シェエラザードは姪と交わしている文通の中で、リューの存在を認知していた。もとより下手な官僚よりも聡明な彼女は、リューの功績に対する理解度が高い。


「さぁ、早速診てくれ」


 シェエラザードは何の躊躇いもなく、衣服を胸までずり上げ、腹部を晒した。同席していた侍女は思わずギョッとした顔をする。普通の妃なら、皇帝以外の男性に素肌を晒すことなど、断固として拒むだろう。


「・・・これは」


 臍の直下から恥骨のあたりまで、縦方向の歪な手術跡があった。さらに、その創に一致して皮膚が盛り上がり、蠢いている。加えて、盛り上がった箇所の皮膚は菲薄化し、衣服に擦れてボロボロになっていた。


「触診します・・・」


 リューは蠢いている腹に触れる。その周囲を触っていくと、皮膚の下の層で離開した「腹直筋鞘」の縁が触れた。蠢いているものの正体は、離れた腹直筋の間から飛び出した蠕動する小腸だった。


(やはり『腹壁瘢痕ヘルニア』で間違いない。ヘルニア門の大きさは・・・縦に10cm、横に3〜4cmと言ったところか。・・・大きいな)


 腹直筋の層の縁を触診でたどり、小腸が脱出しているヘルニアの出口の大きさを探る。


「これは呪いなどではありません。15年前の帝王切開・・・皇子殿下を取り出した手術による後遺症の一種です。手術に際して一度切開した腹筋の層がちゃんと寄らず、空いた隙間からお腹の中の腸が飛び出しているのです」

「・・・ほう、なるほど」


 リューは呪いの傷の正体である「腹壁瘢痕ヘルニア」について説明する。


「治すことは可能です。しかし、そのためには離れた腹筋の層を再び寄せて縫い直す手術が必要です」

「それは聞いている。以前は陣痛で苦しんでいる中、容赦なく腹をかっ捌かれたが・・・私を眠らせて、その間に手術が出来るのだろう。手術をするのは、君か?」

「・・・はい、そのつもりです」


 リューは頷く。シェエラザードはアイーシャから全身麻酔について聞いているため、手術に対する抵抗感はなかった。そして、彼女の答えはすでに決まっていた。


「私は後宮で生きることに疲れてしまった。どうか・・・私をもう一度手術して欲しい! 是非、よろしく頼む・・・!」

「・・・御意!」


 リューは深々と頭を下げる。彼に続いて、ハッサンとアブアールも跪いた。かくしてこの日、第一妃の手術が決まったのである。


「・・・!」


 アイーシャはその光景を万感の思いで見つめていた。


: : :


 さらに7日後、ついにその日がやってきた。シェエラザードは後宮に持ち込んでいた私物を全て処分し、侍女たちに見送られながら後宮を後にする。そして文官や武官、女官たちが見守る中、彼女は第1の城壁の門を抜けて、実に15年以上を過ごした宮廷を後にした。


「・・・」


 門に足をかけた時、シェエラザードはふと後ろへ振り返った。侍女たちは見送ってくれたが、子宮を失ってまで産んだ皇子は、ついに最後まで姿を見せなかった。

 彼女は悲しみを含んだ表情を隠す様に、フードで頭を覆うと、門の前に待っていた馬車に乗り込む。



 そして馬車は、彼女を国立医学学校附属病院へ連れて行く。荷車から降りる元皇妃を、外科学教室の面々が出迎えた。


「ようこそ、お越しくださいました」


 教授であるアブアールが前面に立ち、深く頭を下げる。彼に続けて医局員の外科医たちも頭を下げていく。


「過分な儀礼など不要だ。もう私は皇妃ではないのだからな」

「はっ、恐れ入ります。・・・では早速ですが、病室へご案内します」


 アブアールの目配せに反応し、ナスール医師が案内役となってシェエラザードとその従者を先導する。今回の手術に関しては、いつかの直腸脱の患者と同じように、前日入院という形をとることとなった。

 病室は当然ながら個室である。従者が着替えなどを詰めた荷物を運び込み、荷解きを始める。その傍らで、ナスールは今後の予定について説明を始めた。


「本日の夕食は粥の様な消化に良いものになります。また、寝る前にセンナ・・・瀉下剤を内服してください」

「分かった」


 日本では腹部手術の前に、便を除去するため下剤の処置を行う場合が多い。その目的は腸管内の便塊が手術の妨げになったり、縫合不全や手術創部感染の原因にならないように、という趣旨によるものだ。

 しかし、近年では過剰な排便処置は脱水や粘膜障害、腸内細菌の不調を来たすとされ、さらに術後合併症の予防効果も確固たるエビデンスはないと言われている。故に手術の内容によってその程度は最小限にするのが望ましい。腸管を直接切ったり縫ったりしない今回の手術なら、通常用量の便秘薬を服用すれば十分だと思われた。


「では続けて・・・執刀医のリュージーン医師から、手術の説明をさせて頂きますので、少々お待ちください」


 ナスールはそう言うと、一礼して病室を後にする。シェエラザードは病床ベッドに腰掛け、窓の外に見える太陽を見つめていた。

 その瞳には様々な感情が入り混じっている。だが、彼女の心の多くを占めていたのは、姪への罪悪感だった。


「・・・失礼致します」


 程なくして、扉をノックする音が聞こえてきた。入室を許可すると、外廷で一度会っている17歳の少年外科医が現れた。


「・・・遅ればせながら、改めて自己紹介させて頂きます。リュージーン・ヒルクライハー=ロランと申します。明日の手術の概要について、説明させて頂きます」

「ああ、よろしく」


 リューは資料を片手に手術に関する説明を始める。手術・麻酔の内容、かかる時間、そして起こり得る合併症まで、細かく説明していく。

 こうした腹壁ヘルニアの手術において重要なのは、“再発”の可能性が0ではないことだ。一度くっつかず離れた層をもう一度縫い直したところで、無情にもまた弾けてしまうということは当然あり得る。故に外科医はヘルニア手術の前に、再発の可能性は確実に説明する。

 若く聡明な元皇妃の医学に対する理解力は鋭く、術前説明は(つつが)なく終了した。


「では、私はこれで失礼します。また明日、よろしくお願いします」


 リューは一礼すると、背を向けて病室を後にしようとした。だがその直前、シェエラザードは彼を呼び止めた。


「あ、ちょっと待ってくれ!」

「?」


 リューは再びシェエラザードの方へ振り返る。


「君はアイーシャと親しいのだろう? あれから彼女と会ったか?」

「アイーシャさん・・・ですか? えっと・・・」


 リューはこの1週間の記憶を読み返す。思えば、宮廷でシェエラザードに謁見した日から、彼女に会っていないことに気づく。


「1つ、あの子にとってはお節介かもしれないが、老婆心として聞いて欲しい。・・・もし、彼女が君に何か望みを伝えた時は、それが何であっても叶えて欲しい」

「・・・望み、ですか?」

「ああ、そうだ」


 シェエラザードの表情は真剣そのものだ。迫り来るような彼女の気迫を目の当たりにして、リューはただならない雰囲気を感じる。


「わ、分かりました。俺に叶えられることなら・・・!」


 リューは深く頷いた。それを聞いてシェエラザードはひとまず安心したのか、威圧感を緩める。リューはホッと小さなため息をついた。


「・・・頼むぞ」


: : :


 夜は更け、そして次の朝日が昇る。ついに運命の日がやってきた。外科学教室が15年前の因縁に決着をつける時が、ついにやってきた。

 外科医たちはいつも以上の緊張感を胸に、手術室へと向かって行く。その中には執刀医であるリュージーンの姿がある。


「リュージーン!」

「アイーシャさん・・・!」


 およそ7日振りに、リューの前にアイーシャが現れた。彼は満面の笑みを浮かべ、彼女のもとへ駆け寄っていく。


「何だか久しぶりですね」

「う、うん! そうだね!」


 アイーシャはアハハと空回りな笑い声を上げる。リューはいつもの彼女の様子とは違うと、直感的に感じていた。そして彼は、シェエラザードと交わした会話を思い出す。


「・・・そういえばシェエラザード様が、貴方が俺に、何かお願いがあると言っていました。何でしょう? 俺に叶えられることなら」

「・・・え!!」


 その瞬間、アイーシャは顔を真っ赤に染める。予想外の言葉が飛んできて、彼女は動揺してしまう。そして視線を左右させながら、言葉を選びつつ口を開いた。

 それは口に出すことすら、本来ならば許されない願い。それも平民の男に明かすことなど許されない願いだった。


「・・・ねぇ、リュージーン、私を」


 どこかへ連れていって・・・だがその刹那、彼女は言葉を飲み込んだ。幸いにも、言葉尻は彼の耳に届いていない。アイーシャはいつもの勝気な笑みを顔面に貼り付け、リューの方へ向いた。


「・・・私の願いは、シェエラ姉の手術が成功すること! だから絶対、失敗なんかしないでね!」

「・・・もちろん!」


 リューはガッツポーズを突き上げる。そして手術室の中へ入っていく。アイーシャはそれを笑顔で見送る。

 そして手術室の扉が閉じられた瞬間、演技の限界を迎えた彼女は、膝から崩れ落ち、涙を流した。



 手術台の上には、エーテル麻酔がかかった元皇妃が眠っている。唇の色は良く、換気は良好な様だ。


「脈拍、異常なし」


 麻酔をかけるのはナスールだ。彼もすでに5例の麻酔を経験している。そしてアルコールで消毒された腹の上に穴が空いた清潔なシーツを被せる。

 さらに煮沸で消毒した手術機材が台の上に並ぶ。手術に参加する外科医たちは、頭と口を手拭いで覆い、術衣と革手袋に身を包む。革手袋は装着後、高濃度アルコールに浸すことで消毒している。現代医療と比較すれば、明らかに不十分な感染対策だが、それでも何もしないよりは余程良かった。

 またその甲斐あってか、創の術後感染はリューが来る前よりもかなり抑えられている様で、このこともアブアールたちを非常に驚かせている。


「患者はシェエラザード・アメンホテプ=イドリースィー、『Component separation法』による腹壁瘢痕ヘルニア修復術を行う! ・・・メス!」


 リューの宣言を合図に、手術が始まる。彼は右手に渡されたメスを力強く握った。

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