病の正体
翌日、アイーシャは父親の忠告を無視していつも通りリューのもとを訪れていた。
「あの、リュージーン・・・実は相談があるの」
「相談?」
リューはアイーシャを見つめる。いつもと違う彼女の様子に気づいていた。
「私の叔母・・・皇妃シェエラザード・アメンホテプ=イドリースィー殿下の、あの人の病について、相談したいの」
「!」
リューは目の色を変える。ついに来た、彼は心の中で叫んだ。
アイーシャと親しくしてきた最大の目的、それは外戚の一族である彼女を介して、皇妃の情報を得ることだった。
「知ってるとは思うけど、シェエラ姉・・・殿下は、15年前に子宮から赤子を直接取り出す手術を受けた。奇跡的に母子共に助かったけど、手術からしばらく経って、切った腹がカエルの喉袋みたいに膨らむようになったと聞いてるわ」
「・・・」
アイーシャは皇妃の病状を詳細に説明する。リューはその説明を聞いて、かねてより頭の中に思い描いていた“病名”に確信を抱く。
手術からしばらく経った後、皇妃の腹は手術創に沿って不自然に膨らみ、蠢くようになった。それを目の当たりにした者たちは呪いや天罰と騒ぎ立てた。子宮を失ったことも相まって、シェエラザードは無用の妃として、他の妃や皇帝からも忌避されるようになってしまった。
「・・・しかし、相手は後宮の妃殿下でしょう? 親族とは言え、よくそこまで詳細を知っていますね」
皇帝のハレムである後宮は、基本的に皇帝とその子女、または去勢された男性官僚、すなわち宦官しか出入り出来ない。
唯一の例外は国立医学学校の「内科学教室」から選ばれる「宮廷医」だけだ。
「確かに・・・皇帝の妃である以上、後宮から自由には出られない。でも、妃ともなれば書簡を通じて親族とのやりとりは容認されるの。もちろん、検閲はあるけどね・・・」
アイーシャとシェエラザードは年の近い姪と叔母の関係だ。姉の様に慕ったシェエラザードが妃となった後も、アイーシャは手紙を介して交流を続けていたのである。
シェエラザードも、妹の様に可愛がっていた彼女には、心の内を打ち明けていた。その中で、アイーシャはシェエラザードの病状について、詳しく知ることができたのである。
「・・・実際には診察してみないと断言はできませんが、妃殿下の病の正体は、おそらくはその過去の手術の“合併症”です。『腹壁瘢痕ヘルニア』と呼ばれるものです」
「フクヘキ・・・ハンコン・・・?」
アイーシャは首を傾げる。開腹手術そのものが未発達の世界では、その“術後合併症”などが知られているはずがない。
「腹壁瘢痕ヘルニア」とは、腹部(開腹)手術を受けた後、何らかの要因で筋肉の層が癒合せず離開してしまい、主に腸管などの臓器が皮下脂肪の層へ飛び出してしまう状態だ。
絶対に治さなければならない病気ではないが、運が悪いと「嵌頓」と言って、飛び出した腸が原因で痛みを伴ったり、最悪の場合、腸の血流が悪くなって壊死することもある。そうでなくとも、まず見た目が悪くなるし、大きくはなれど自然に小さくなることはない。
「・・・で、そのフクヘキハンコンヘルニア・・・だっけ? は、治せるものなの?」
「治すことはできます。ですが・・・それには離れてしまった筋層を再び縫合し直す手術が必要です」
腹壁瘢痕ヘルニアを治すには、手術で離れた創を縫い直すしかない。現代では鼠径ヘルニアの手術と同様に「メッシュ」と呼ばれる網で補強を追加することが多い。
「本当に!? シェエラ姉・・・皇妃殿下の病は治るんだね!?」
「はい、ですが・・・問題は、そもそも我々がどうやって皇妃殿下の手術をするのか、というところだと思います」
「・・・う」
宮廷・後宮に出入りできる宮廷医になれるのは、内科医だけだ。外科医は宮廷には入れない。接触できないのならば、当然手術などしようがない。
「・・・そうか、そりゃそうだよね」
アイーシャは顔を俯ける。シェエラザードはすでに後宮から追い出されてもおかしくない身だが、外戚としての影響力を失うことを恐れたイドリースィー家の当主が、莫大な財力を背景に、それを良しとしない状況が続いている。
「・・・少し待っててくれない?」
「え?」
アイーシャは一か八か、当主に直談判することを決意する。
そして思い立った彼女は、きょとんとするリューに背を向け、元気よく走り去って行った。
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首都イスファダードは三重の城壁から構成される計画都市である。郊外には異民族や農民などの平民階級が暮らし、最も外側の第3の城壁の内側は、商人や職人などが暮らす。
第2と第1の城壁の間は、富裕層の平民や貴族、官僚が暮らす中心街であり、貴族の邸宅のほか、宗教施設や官公庁舎、図書館などの公共施設も並ぶ。国立医学学校もこのエリアにある。このエリアまでなら、緊急時を除き、日中は出入り自由となっている。
そして最も内側の第1の城壁、その向こう側は皇帝の一族が暮らす絶対不可侵の領域だ。そこには「宮廷」と、皇帝の妃および子女たちが暮らす「後宮」がある。
皇帝のハレムである後宮は、貴族から嫁いできた子女から、身売りされた平民の娘、さらには容姿を見込まれた女奴隷まで、あらゆる身分の女性たちが押し込められた花園だ。その中で現在、皇妃の筆頭となっているのがシェエラザード、新興貴族イドリースィー家から嫁いできた女性であった。
「・・・」
後宮は長年の増築に次ぐ増築で、複雑怪奇な迷路と化した巨大な宮となっている。その中の一画にシェエラザード・アメンホテプ=イドリースィーの姿がある。
「シェエラザード様・・・湯殿の用意が出来ております」
「そう、ありがとう」
侍女が着替え一式とタオルを持って現れた。シェエラザードは腰掛けていたベンチから立ち上がり、素っ気なくお礼を伝えて歩き出す。
水の貴重なこの国では一般的な入浴と言えば蒸し風呂だ。上級の妃ともなれば、個別の浴室が与えられる。
シェエラザードは侍女を引き連れ、風呂のある部屋へ向かう。その途中、ほかの妃やその侍女たちとすれ違う。
(・・・)
隠しているつもりなのか、それともわざと聞こえる様にしているのか、彼女たちの小声がシェエラザードの鼓膜を刺激する。
腹を切った皇妃、子を産めない皇妃、呪われた傷の皇妃・・・侮蔑の言葉を恐れもなく口にしている。シェエラザードの侍女はそれを聞いて、憤りを覚えていた。
「・・・気にするな、言わせておけ」
「で、ですが!」
シェエラザードはそれを気に留めない。彼女は悲しそうに、笑っていた。
程なくして、入浴を終えたシェエラザードは自室に戻ってきた。皇妃の部屋の机には、年の近い姪とのやり取りが記された手紙が積まれている。そして新しい書きかけの手紙がその横に置かれていた。
「・・・ん?」
彼女は新たな手紙が置かれていることに気づく。入浴中に侍女が持ってきたものだろう。差出人はいつもと同じく、アイーシャの名前が書かれていた。
(まだ以前の手紙の返事も書いていないのに・・・?)
手紙の返事を書く前に、2連続で姪から知らせが来た。もしかしたら急を要する知らせかもしれないと、シェエラザードは封筒を開く。
手紙の冒頭には、いつも通りの挨拶文が書かれていた。さらに目を走らせていくと、そこには彼女を大きく動揺させる一文が書かれていた。
ーシェエラ姉は、もし腹を治せる方法があるとしたら、治したい?ー
「・・・!!」
: : :
首都の中心街に、イドリースィー家の総本家がある。貴族の邸宅が並ぶ中心街の中でも、一際絢爛さが目立つ建物だ。そこは一族の当主オマールの私邸であり、本家筋の一族のほか、数多の使用人や奴隷を抱えていた。
屋敷の正面玄関となる巨大な扉の前に、1人の少女が立つ。使用人の男が彼女を出迎える。
「アイーシャ様、お待ちしておりました」
「・・・」
アイーシャは無言のまま、総本家の中へ足を踏み入れる。彼女の目的は当主である大叔父を説得して、年の近い叔母・・・すなわちシェエラザードが後宮から下野することを納得してもらうことだった。
彼女は使用人に先導されながら、一族の長の部屋へと案内される。扉の前まで来たところで、使用人は一礼してその場から去って行った。
「・・・」
彼女の懐には、シェエラザードから届いた手紙の返事が収められている。アイーシャはそれに手をかざし、高い壁の向こう側にいる叔母に想いを馳せる。
(大丈夫、絶対に・・・シェエラ姉を後宮から出して見せる!)
意を決して扉を開ける。すると、華美な家具や絢爛な調度品が並ぶ部屋の奥、夜景も見える窓辺にその男が立っていた。しわがれた肌、痩せぎすの手足、白い髭・・・細身の老人でありながら、その目力は鋭く、人の心の底を見透かす権力者の目をしていた。
「久しぶりだな、もう2年ぶりか・・・アイーシャ」
「お久しぶりです、叔父様・・・」
親類同士とは思えない思い雰囲気が、2人の間に流れている。先に口を開いたのはアイーシャだった。
「突然の来訪を承諾いただき、感謝します。本日は1つ、お願いがあって参じました」
「・・・シェエラザードのことか?」
オマールは彼女の目論見を半ば見透かしていた。一瞬面食らうが、ならば話は早いとアイーシャは言葉を続ける。
「はい・・・どうか叔母上の下野を認めてはくれないでしょうか」
彼女はシェエラザードの下野、すなわち後宮からの降下を進言する。そしてアイーシャは、シェエラザードと交わしている文通の中で、彼女がどれほど後宮で辛い思いをしているか、それを手紙の中で自分に吐露していると伝える。
「皇帝の子をもう産めない女がどうなろうが、私はもうどうでも良い。だが・・・妹分に等しいお前に、そんな愚痴をこぼすほど弱い女ではあるまい?」
「!」
再びアイーシャは動揺する。シェエラザードが手紙で自分に辛い心情を見せているというのは、“本当の目的”を隠すため、そしてオマールの情に訴えるための嘘だ。
オマールはそれを瞬時に見破ってしまった。
「その顔、図星だな。お前が外科医共のもとへ通っていることと、関係があるだろう。そう言えば・・・何やら新しい手術法が始まっているそうだな。大方、奴らに腹の治療が出来るかも、とでも言われたか?」
「・・・!!」
オマールはアイーシャの狙いが、シェエラザードの腹の傷にあることを察知していた。アイーシャは言い返す言葉を失う。
「確かに・・・可愛い我が姪が、醜い傷を負ったまま一生を終えるのは忍びない。だが・・・その手術とやらを行うのは宮廷医でもない外科医なのだろう。シェエラザードがその治療をするためには、後宮を出る必要があるな・・・!」
オマールは話のペースを完全に奪っていた。アイーシャは服の裏に冷や汗を滲ませる。
「だが、それは我々が“外戚の一族”という地位を失うことを意味する。誰かもう1人、後宮に入って陛下の寵愛を勝ち取ろうという気概がある一族の女でもいれば、話は別だがな」
「・・・それは!」
オマールは下衆な笑みを浮かべる。それはアイーシャにとって、とても許容できることではない。長年追い求め、そして医学学校に入ったことで遂に大手をかけた夢・・・この国の歴史でも数える程しかいない女性医師になるという夢、オマールはそれを諦めることを対価として要求してきたのだ。
「何の対価もなく、自らの願望を押し通そうなど、虫が良すぎる」
「・・・っ!」
オマールはアイーシャに、シェエラザードの傷を助けたければ、彼女と入れ替わりで後宮へ入る様に迫っている。アイーシャの呼吸がどんどん荒くなっていく。
「・・・まぁ、お前が対価を出さないならば、何のことはない。我が姪は呪われた傷を抱えたまま、蔑まれながら後宮で過ごすだけだ」
「!!」
オマールはアイーシャの心を揺さぶる。彼女の脳裏には、遠い幼少期を共に過ごした姉の様な叔母の記憶が蘇る。女児ながらも勝気でわがままで、尚且つ泣き虫で、実の両親すらも手を焼いていた自分を、可愛がってくれた最愛の姉だった。
その姉への恩義に報いたい。今まで助けられっぱなしだった姉を助けたい。そう思った瞬間、アイーシャの覚悟は決まった。
「・・・私が、シェエラ姉様の代わりに後宮へ入ります。そして・・・皇帝陛下のご寵愛を勝ち獲って見せます!」




