アイーシャの思い
「・・・腑分け?」
リューは思いも寄らない嫌疑をかけられ、動揺してしまう。この世界の医学水準を明らかに超えた解剖学の知識、それらはこの世界の外科医たちにとって受け入れ難いものだった。
「何を馬鹿なことを・・・。リューは若くとも、人を救う医師の端くれ。人体をいたずらに傷つける様なことはしない!」
先に反論したのはハッサンだ。彼は荒々しい形相でリューの潔白を主張する。カナンは腑分けという言葉の意味が理解できていなかったが、周りの様子からリューの分が悪くなっていることは何となく察知していた。
「では・・・あの解剖学の知識はどこから?」
「・・・そ、それはだな」
前世云々の話をしたところで誰も信じない。ハッサンは急激にトーンダウンしてしまう。
沈黙の中、リューとハッサンには突き刺さる様な視線が向けられた。
「・・・私は養父であるハッサン・グリムール=ロランの下で、医学の修練に励んできました。その密度と質は、烏滸がましいですが・・・皆さんにも引けを取らないと思っています」
この国では、人体解剖は国の許可が必要だ。私的にそんなことをすれば、墓荒らしと死体の損壊の罪に問われる。その嫌疑は払わなければならない。リューは一言一言、言葉を選びながら話を続ける。
「ですが・・・いくつかの発見、例えばエーテルもそうですが、そういった発見は俺自身も神の啓示を受けているとしか思えないのです」
「神の啓示だと・・・?」
ナスールは眉間にしわを寄せる。
この国の宗教は特定の名称はなく、土着信仰から発展した天地創造神話の神々が信仰されており、多神教の形態をとっている。その信心深さは人によってまちまちであり、熱心に神殿へ祈りを捧げる者もいれば、まさしく大多数の現代日本人の様にやんわりとした信仰心しか持っていない者もいる。
医者を含めた知識層は後者の割合が多い。リューの弁論は平民を納得させることは出来ただろうが、医師たちを説き伏せるにはあまりにも曖昧すぎた。
「しかし、それが本当なら・・・素晴らしいことじゃないか。天は我々に、伝説のメディスンマンを遣わされたのだ」
「・・・アブアール教授」
沈黙を守っていたアブアールがこの場を収めにかかる。両の手のひらをパチンと合わせ、“もうこの話はここまで”と、まるで兄弟喧嘩を収める親のような言い回しを放つ。
「・・・」
しかしそれは“教授”というこの教室の長が放った言葉だ。外科医たちは一斉に押し黙るしかできなかった。
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直腸脱の手術から1週間後、フサイニーは手術創の感染もなく良好な経過を辿る。そして手術以降、直腸は肛門から飛び出なくなり、彼は感激しながら退院して行った。
その時、フサイニーが従者に持たせた巨額の治療費と寄付金は、エーテルの精製で入用だった外科学教室にとってありがたい軍資金となった。
「おはようございます!」
「あ、・・・お、おはよう」
リューは元気に出勤する。だが、研究室に現れた彼を見る同僚たちの目は初対面の時よりも余所余所しい。友好的に接してくれたナスールすらも、どこか壁のある態度をとる様になっていた。
「・・・」
外科医学を志す新たな仲間、そう思っていた者たちから向けられる猜疑の視線は、容赦無くリューの心を突いた。また、イドリースィーの娘に友好的な態度をとり続けていることも、彼の立場を悪くしていた。
唯一、アブアールだけは彼らを擁護してくれているため、表立った面罵や嫌がらせには晒されていないのが救いだった。
「・・・お前、大丈夫か?」
養父のハッサンは息子のことを気にかけている。
「・・・大丈夫だよ! それよりも3例目の手術を早く見つけて貰わないとね」
エーテルと生理食塩水、高濃度アルコールの精製は今も進められている。せっかく作った薬品類が無駄にならないように、彼らは3例目の手術を探していた。
この世界の1日の間隔は地球とほぼ等しい。そしてこの国では多くの街で日時計が使用されている。しかし首都の中心部には、政府が管理する機械式時計塔が建立されており、「1刻」すなわち2時間毎に鐘を鳴らす仕組みになっている。
よって首都中心部の住民たちは、現代世界とあまり大きく変わらない時間感覚の中で生活しており、医学学校の授業はこの時計を下に時間を組まれていた。
「・・・では本日の講義はここまで」
ここは学舎にある1年生の講義室だ。教壇に立つ講師は講義時間終了を告げる鐘の音を聴くと、教科書を持って出て行った。
「・・・ふわぁ〜あ」
医学科1年生唯一の女学生であるアイーシャは、大きなあくびをしながら背伸びをする。そして教科書を入れたカバンを持って講義室を後にする。
周囲では学生同士で他愛ない会話をしている。だが、彼女に話しかける者はいない。唯一の女学生で、尚且つ外戚の一族である彼女は、他の男子生徒から壁を作られ、クラスに馴染めない状態がずっと続いていた。
強気な性格をしている彼女も、およそ50人のクラスメートから無視され続けるのは内心堪えていたところもあり、渇望して入学した医学学校への通学を続ける意思が揺らぎかけていた。
だが、そんな彼女の前にあの少年が現れた。彼女は鼻歌を歌いながら外科学教室の研究室へと向かう。
「・・・リュージーン!」
一族の仇敵である筈の外科医たちの巣窟へ、アイーシャは堂々と顔を見せる。最初は警戒していた外科医たちも、流石に慣れたのかあまり気にしない様になっていた。
「・・・アイーシャさん、こんにちは」
研究室の奥に、その少年がいた。彼は類稀なる外科の才能と未知の医学を携え、突如としてやって来た。そして彼はアイーシャのことを1人の医学生として差別しない。
「ねぇ、今日の講義で・・・」
アイーシャは最初、講義でわからなかったところの質問、という体でリュージーンに話しかけてくる。リューもそれに対して真摯に答える。
「なるほど、それはですね・・・」
教員と生徒という立場でありながら、リューは丁寧な言葉使いでアイーシャと会話を交わす。それはアイーシャにとって、この学校で唯一他者と気兼ねなく話せる時間だった。リューが年下とは思えないほどの余裕と包容力を持っていたことも、彼女の精神を安定させていた。
最初は医学講義についての話だったが、内容は次第に脱線していく。そして完全に気を許していたアイーシャの口から、長らく心のどこかで疑問に思っていたことが飛び出した。
「・・・ねぇ、リュージーンは婚約者とかいる?」
「・・・え?」
「・・・!」
リューの笑顔が真顔へと変わる。同時に、アイーシャは“しまった”という顔で口を押さえた。
(・・・く、口が滑った!)
貴族階級の娘としては、あまりにも下世話すぎる話題だった。彼女は顔を真っ赤にしてしまう。対するリューも驚きはしたが、すぐに気を取り直す。
「特別、懇意にしている相手はいませんよ。あと、こういう話題を平民の男に振るのはいかがなものでしょうか」
「・・・ご、ごめん」
貴族令嬢として相応しい振る舞いに気を付ける様嗜める。アイーシャは羞恥でさらに頬を赤くしてしまう。同時に、ラマーファからやって来た“あの女”がリューの特別ではないことを知り、安堵していた。
ゴォーン・・・!
その時、下校の時間を告げる鐘の音が鳴る。
「もうこんな時間か。では、また明日・・・アイーシャさん」
「う、うん。またね、リュージーン」
アイーシャは床に放り出していたカバンを拾い上げ、一礼をして外科の研究室を後にする。リューに背を向ける彼女はにやけ顔を押さえきれない。
学舎の外には、家路につく学生たちの姿がある。この医学学校には、敷地内に学生寮と職員宿舎があり、生徒はそちらで暮らしている者も多い。だが寮は男子専用であり、アイーシャは入学前に入寮を希望していたものの、女子生徒であるためそれは叶わなかった。
彼女は学校の敷地を隔てる門を抜ける。そこには1台の馬車が待ち構えていた。
「・・・アイーシャ様、お待ちしておりました」
「・・・」
イドリースィー家の使用人が深々と頭を下げる。アイーシャは先ほどまでのニヤケ顔とは一変して、うんざりした様な顔になってため息をついた。
馬車に乗り込んだアイーシャは、無言のまま窓の外を眺めていた。貴族の邸宅や政府の施設、寺院などが立ち並んでいる。そして馬車は広大な庭を持つ豪邸の門の中へと入っていく。
彼女は荷物を使用人に持たせ、玄関の正面に止まった馬車から降りてくる。彼女が歩みを進める先には、使用人の男や女奴隷たちが列を成して出迎えていた。
「お帰りなさいませ」
「・・・」
アイーシャは無言のまま、玄関を上がって廊下を進んでいく。そして自室の扉を開けると、そこには着替えを抱えて待機している女奴隷の姿があった。
部屋の中には天蓋がついた大きなベッド、絹製のクッション、精密なアラベスク模様の絨毯などの家具や調度品が並んでおり、まさしく貴族令嬢の部屋に相応しい絢爛な内装の部屋だった。
「お着替えが終わりましたら、どうか食卓へ。すでにお食事の用意は済んでおります。また、旦那様がお待ちです」
「・・・父が?」
アイーシャは今、両親と折り合いが悪い。それは彼女が学生寮への入寮を希望していた理由でもあった。
そんな父親が自分と話がしたいという。彼女は怪訝な表情を浮かべていた。
ゆったりとした部屋着に着替えたアイーシャは、食卓の間へ入る。部屋の中心には長い大理石製のテーブルが鎮座し、天井からは西方の国からの舶来品であるシャンデリアがぶら下がっている。さらにはこの国では珍しいホールクロック(大型振り子時計)まで鎮座していた。
テーブルの上には、料理人が腕に縒をかけた夕食が並んでいる。最上座には彼女の父であるハグダーディー・アテント=イドリースィーが座っていた。この国の男性としては珍しく髭が薄く、体も小柄で、どこか頼りない印象を受ける男だ。
アイーシャは彼から見て右手側の椅子に座ると、大皿で並べられた料理を自分の取り皿に取り分け、無言のまま食事を始めた。
「あのね・・・アイーシャ。ちょっと聞いたんだが、お前、外科医たちの教室に出入りしているそうじゃないか」
「・・・!」
ハグダーディーは意を決して、長らく没交渉となっていた娘に話を切り出す。その瞬間、アイーシャは鋭い目つきで父を睨んだ。ハグダーディーは娘相手に思わず短い悲鳴をあげるが、精神を持ち直して話を続ける。
「私も一族の中で立場というものがある・・・。叔父上もお前が医学学校に入ったこと自体が相当腹に据えかねている様だし、せめて・・・これ以上、叔父上を逆撫でする様な振る舞いは自重してくれないか?」
ハグダーディーが口にした“叔父”とは、一族の当主であるオマール・アヌビス=イドリースィーのことだ。
「そもそも・・・私の妹の手術を失敗したヤブ医者共だろう? そんな奴らに学んで何になるというんだ」
「・・・!」
“失敗”、“ヤブ医者”・・・その言葉がアイーシャの逆鱗に触れる。彼女は目尻を釣り上げると、手に持っていたフォークをテーブルに叩きつけ、声を荒げる。
「・・・違う! ヤブ医者なんかじゃない!」
「お、おい!」
激昂したアイーシャは、そのまま食卓の間を出て行ってしまう。ハグダーディーは呼び止めようとするが、聞く耳を持たない。そして自室に帰った彼女は、乱暴に扉を閉める。そして机の上に置いていた1枚の手紙を手に取った。
(あの日、あの状況で母子共に救ったことが奇跡なんだ! なのに、叔父様も皆も・・・シェエラ姉の命の恩人をヤブ医者扱いして・・・。結局、女を子を産む道具としか思っていないんだ・・・!)
その手紙の送り主の名はシェエラザード、すなわち帝王切開を受けた皇妃本人からのものだった。アイーシャは幼い頃から歳の近い叔母である皇妃を、姉のように慕っていた。
手紙には医学学校への入学を祝福する言葉が記されている。シェエラザードはアイーシャにとって最大の理解者であったのだ。
(私は、この医学学校で初めての女性外科医になる! そして、私は、イドリースィー家と後宮を否定する!)
彼女は医学に理解のない家族も、子宮を失ったシェエラザードを用済み扱いする宮廷も、どちらも嫌悪していた。アイーシャは医者になり、一族と袂を分つつもりなのだ。
(・・・でも)
帝王切開の後、シェエラザードは“カエルの様に醜い腹”となる病を患っている。彼女はアイーシャと交わす文通の中で、そのことについて綴ることはない。
しかしアイーシャは同性として、シェエラザードがその症状に悩み、深く傷ついているだろうと感じていた。
「・・・リュージーンなら、どうにかできないのかな?」
彼女の脳裏にはあの少年の姿が浮かぶ。アイーシャは明日相談してみようと考えながら、天蓋のベッドの上へ身を投げ出した。




