星から来た怪物(直腸脱)
「では、下腹部正中切開を行う! ・・・メス!」
「はい!」
カナンは力強くメスを手渡す。医学学校の歴史上、2例目のエーテル全身麻酔手術が始まった。リューは臍の下あたりから恥骨に向かって皮膚を切開する。
皮下脂肪を火箸で止血しながら切開を進め、内臓や腸管が存在する空間である「腹腔」へと辿り着く。切開した創が汚れないように創縁をガーゼで覆い、開創器で開腹創を広げる。
「これは『S状結腸』、そして仙骨の先が『直腸』・・・その他の腸管は『小腸』」
創の中では小腸が無造作に蠢いている。このままでは小腸が手術の障害になるため、リューは大きめのガーゼを2枚、カナンから受け取り、小腸を排除するためのストッパーとした。
「紐付きガーゼ、2枚挿入!」
「はい!」
リューはカナンに聞こえる様、腹腔内にガーゼを2枚入れたことを宣言した。カナンは消毒したペンで器具台を覆うシーツに2個の丸を描く。
これは「ガーゼカウント」と呼ばれ、万が一にも体内にガーゼを残したりしないために必要な、医療安全行為の1つである。
そのため、カナンはあらかじめ術前に用意したガーゼや手術器具の総数を記録している。創を完全に閉じる前に、器具とガーゼの総数がちゃんと合っているのか確認するためだ。
現代であれば、最悪体内に残しても、腹部手術ではルーティンとして行われる手術直後のレントゲン撮影で引っ掛けることはできる。しかし、レントゲンの無いこの世界では、より厳格なカウントが求められた。
(・・・術野展開完了!)
小腸が手際よく排除され、今回のアプローチポイントである「骨盤腔」が露わとなった。アブアールとハッサン、そして麻酔医を務めるカルヴァンは興味津々な顔でその中を覗き込む。
帝王切開に関わった経験を持つアブアールにとっても、これほど落ち着いた状況で、生きた人間の腹の中をまじまじと観察できるのは初めてのことだった。
(それにしても・・・手際が良すぎる。これほどの速さでの開腹は、私でもハッサン先生でも出来ない。まるで開腹手術に慣れているかの様だ)
この世界では、開腹手術は未発達の領域であり、如何に経験豊富な外科医であっても、教科書を頭に浮かべながら手探りで進めていくしかない筈だ。それはアブアールにとっても変わらない。
だが、目の前に立つ少年は、まるで予め決まっているルーティンワークのように、慣れた手つきとスピードで開腹操作を終了した。まるで、今まで何度も開腹手術を経験しているかの様だ。
(ハッサン先生が指示を出している様子はない。いや・・・むしろ、手術の主導権はずっとリュージーン君が握っている。ハッサン先生も彼の手捌きに見惚れている・・・)
アブアールの背筋に鳥肌が立つ。もしかしたら、自分たちはとんでもない“怪物”を目の前にしているのかもしれない。
「この脈打つ管は何だ?」
「左右の『総腸骨動脈』だよ。この『腹部大動脈』から分岐しているんだ」
密かに慟哭するアブアールとは裏腹に、事情を知るハッサンはあっけらかんとリューに教えを乞うていた。
彼自身も開腹した術野を見るのは15年前以来であり、それ以前は死体解剖に複数回参加した程度である。それも15年前の帝王切開は、腹腔内を詳細に観察する余裕など全くなかった。ゆえに生きた人間の腹の中を見るのは、彼にとってはほぼ初めてと言っても過言では無いのだ。
「まずはS状結腸を引っ張り上げてテンションをかけて・・・直腸間膜の右側を切開し、S状結腸〜直腸の裏側と後腹膜の生理的な癒着を剥がしていく。すると、剥離した面の仙骨側に色々な構造や神経が出てくる」
リューは説明を続けながらS状結腸を引き出し、それを第1助手のハッサンに渡す。ハッサンは戸惑いながらもそれを受け取り、リューに指示された通りに引っ張って緊張をかける。
「長鑷子と長メッツェン!」
「はい!」
リューは長いメッツェンバウム剪刀を使い、S状結腸を仙骨の前面から剥がしていく。時折出てくる出血は、火箸を使ってこまめに止血していく。
(この人は痩せた男性だ、脂肪も少なくて解剖が分かりやすい・・・。冷静に考えれば・・・CTによる術前精査が出来ないこの世界、患者が『Persistent Descending Mesocolon』や『腸回転異常症』の様な先天的な腸管走行異常を抱えている可能性も0じゃないんだ)
CTやMRI、レントゲンすらないこの世界で、術前に体の中の詳細な観察を行うことは不可能だ。それどころかこちらの世界でも、CTが世に普及する1980年代以前、外科医は体の診察と患者が訴える症状から診断を推察して緊急手術に臨み、最終的な診断は開腹して初めて分かるという状況だったわけだ。
その他、今ならCTで事前に分かる様な先天奇形や血管の異常なども、術中診断・術中判断で対応せざるを得ない。リューはそんな時代を生きた大先輩たちよりも、さらに手探りな手術を行わなければならない状況に置かれているのだ。
「これが左の『下腹神経』・・・尿を我慢する蓄尿と排便機能にも関わるし、男性なら射精・・・子種の放出にも関わる」
リューは長鑷子で仙骨の前面を走る白い筋を摘み上げる。「神経」はこの世界でも存在は認知されているものの、解剖書では“精気が流れて人の魂の活動を司る管”と記載され、どちらかと言えば概念的・宗教的な色が強い存在である。
「この青い筋と白い筋が『精巣動静脈』・・・睾丸を栄養している。それと伴走しているのが左の『尿管』・・・腎の臓から膀胱まで尿を運ぶ管だ。絶対に損傷は避けないといけない」
さらに長鑷子の先端で、剥がされたS状結腸の後ろを走る管を次々と差し示していく。ハッサンとアブアール、そしてカルヴァンは、嘘か本当かも分からない彼の解説を、無言のまま聴いていた。
(この少年が話す医学用語は殆ど理解出来ない・・・)
(しかし、解剖学の知識は非常に深く、手術の技術は比肩する者が居ないほどに高い・・・!)
この場にいる外科医たちは、ハッサンを除く全員が戦慄を覚えていた。目の前にいる17歳の少年は、自分たちよりも遥かに高い次元で、人体の中を知り尽くしていた。
「左側の膜も切開すると、S状結腸〜直腸は完全に腹壁から離れた状態になる。正しい層を剥離すれば、そう大した出血も起こらない。肛門に向かっての剥離は、肛門挙筋や側方靱帯を傷つけたりしないところまで・・・」
骨盤の底を覗き込む様な格好で、直腸後方の剥離を進めていく。そして剥がされた腸管を頭側へ引っ張り、肛門の外へ出ている腸管を引っ込ませる。
「誰か・・・、肛門を確認してくれませんか?」
「・・・私がやろう」
外側から手術を見学していたナスールが名乗りを上げる。彼は革手袋をはめ、清潔シーツの下から患者の肛門を確認した。
「引っ込んでいるぞ」
「・・・よし! ここで仙骨前面に縫合固定します! ・・・針糸!」
「はい!」
カナンは糸を通した湾曲針を手渡す。リューは腸管を貫かない様に、引き出した直腸の脂肪組織に針を通し、仙骨前面の薄膜に数箇所縫い付ける。
さらに直腸を剥離するために切開したラインを元通り縫い閉じていく。そして小腸を排除するために入れていたガーゼを取り出した。
「ガーゼ2枚出すよ!」
「は、はい!」
「洗浄水!」
「はい!」
リューとカナンはテンポよく道具の受け渡しをこなしていく。リューはガラス瓶の中に注がれた手製の生理食塩水をお腹の中へ注ぐ。
「腹腔内を生理食塩水で洗浄し、ガーゼで吸水させる・・・。洗浄水を粗方回収できたら閉腹に行きます! ・・・有鉤鑷子とミクリッツ!」
「はい!」
「閉腹用の針糸!」
「はい!」
リューはミクリッツ鉗子でお腹の壁を掴む。そしてカナンから渡された糸をつけた湾曲針を、1針1針次々と腹筋の層に通し、結んでいく。
糸を結ぶスピードも目にも止まらぬ速さで、ハッサンとアブアールは思わず見惚れてしまう。リューの手には消化器外科医として魂に刻まれた記憶が完全に蘇っていた。
「カナン! ガーゼと器械の数は!?」
「ガーゼカウント、大丈夫です!」
カナンは用意したガーゼ類と外科道具が全て揃っていることを伝える。リューはそれに耳を傾けつつ、腹筋の層を太めの綿糸で縫い閉じた。
「創部感染予防のため、皮下脂肪の層をまた洗った後、皮膚を縫い閉じます」
リューは細めの綿糸で皮膚を縫合していく。手術開始からおよそ1時間半後、直腸脱の手術は全ての工程を終了した。
「皆さん・・・ありがとうございました」
前世以来、およそ17年ぶりの本格的な開腹手術を終えた。リューは興奮を抑えきれず、その頬は茹蛸の様に紅潮している。そしてそれは、彼がこの世界で黒川大吾として完全に目を覚ました瞬間だった。
「・・・」
同時に、外科学教室の医師たちは言葉を失っていた。戦慄と畏怖が彼らの心を縛っていた。
17歳の少年が全身麻酔を見つけ、さらに外科手術まで行える。その現実の辻褄合わせをするため、医学学校の外科医たちは“ハッサンの指導を受けてきたから”と理由づけてきた。
当のハッサンとリューもそれを否定しなかったため、いつの間にか彼らの中ではそれが真実となっていた。だが、真実は違った。
(彼は・・・外科学教室の元エースに鍛えられた“秀才”などではない。天から来たか、星から来たか・・・この少年は、“怪物”だ)
自分たちが今まで長年培ってきた経験と知識を、彗星の如く現れた少年がそれらを粉々に破壊してしまった。
(ハッサン先生・・・)
アブアールはハッサンに視線を向ける。目の前にいるこの男は、この怪物を前にして何も揺らいでいない。それは彼が、かつて外科学のエースであった自分の経験と知識を上回る医学を受け入れ、認めたからだ。アブアールはそう思っていた。
「フゥ〜!」
リューはほっとしたのか、大きなため息をつきながら血のついた革手袋を脱いた。
そして“お疲れ様、ありがとう”と言いながらカナンへ手渡し、他の外科道具と一緒に洗浄しておく様に伝えて術野を後にする。手術台の上では、まだ麻酔が掛かっているフサイニーが、経口エアウェイを咥えたまま眠っていた。
「・・・少々疲れました。少し外で休みます。患者が起きたら教えてくれませんか?」
「分かった・・・」
ナスールが頷いた。そして術野の外から見物していた外科医や他の医師たちは、手術室の扉へ向かうリューを避ける様に、サッと身を引いていく。
久しぶりの本格的な腹部手術で疲労が蓄積したのか、リューの足取りはどこかふらついていた。
「リュー!」
革手袋を外したカナンは、不安な足取りで進むリューに駆け寄り、その体を支えた。
「あ、ありがとう。カナン」
「大丈夫?」
カナンは不安そうな表情でリューを見上げる。
「・・・手術の間は集中しているけど、終わった後は一気に疲れが来るんだよ。ごめん、もう大丈夫」
リューはカナンを安心させようと笑顔を作る。そして熱のこもった手術室の扉を開けると、外から乾いた風が入ってきた。
「リュージーン!」
「・・・アイーシャさん!?」
そこには、いつから出待ちしていたのか、1年生女生徒のアイーシャが待ち構えていた。端麗な顔に似合わず、鼻息を荒く鳴らしている。
「ねぇ! ・・・2例目の全身麻酔手術! しかも15年ぶりの開腹手術だったんだよね!? もう終わったの!?」
「え、ええ! そうですよ」
「お腹を切り開いて、患者は痛がらなかったの?」
「もちろん。麻酔をかけていましたから」
「手術の内容、また教えてよ!」
「はい、また時間がある時に」
「約束だよ!」
リューは矢継ぎ早に話しかけてくる彼女に答えながら、頭と口元を覆っていた手拭いを外す。アイーシャは2例目の手術がある話を聞きつけ、講義の合間をぬってここへ来ていた。
リューの様子を後ろから見ていたカナンは、彼が見知らぬ女性と親しげに話しているところを目撃してしまう。
(だ、誰・・・? あの人?)
アラベスク模様の刺繍が縫い込まれた絹の衣装、必要以上に華美ではないがそれとなく金銀や宝石があしらわれた装飾品、さらには遠目に見ても分かる艶やかな黒髪と、シミや荒れのない素肌・・・カナンは、その女性が貴族階級の子女だとすぐに分かった。
「それで・・・誰? その女?」
一方、アイーシャの方も術衣に身を包むカナンに気づいていた。外科に女医が居ないことを知るアイーシャは、手術室内にいる彼女の存在を警戒する。
「あ・・・俺たちの診療所の“手術室看護師”です。ラマーファでは、手術の時に道具の準備なんかを手伝ってくれていました。今回、新たに注文した外科道具を首都まで届けてくれましてね、ついでにこの手術も手伝って貰ったんですよ」
“・・・というより、公開手術の時も居ましたよね?”、という結びで、リューは背後に立つカナンを紹介する。内心動揺していたカナンは、少しぎこちない素ぶりで会釈をした。
「フーン・・・じゃあ、この女が医学学校の歴史に残る手術に2回も関わっているわけ?」
アイーシャはカナンを睨みつける。指を刺されたカナンは思わず半歩後退りしてしまった。
リューはカナンの前に立ち、アイーシャの視線から彼女を庇う。
「彼女は・・・カナンは優秀な看護師です。彼女の協力が無ければ、ラマーファの診療所でエーテル麻酔の手術症例を集めることは出来ませんでした」
エーテル麻酔を確立させる過程において、カナンは手術室看護師として協力してきた。ゆえに彼女は立派な研究員の1人であり、最初にアブアールへ渡した論文には、著者の1人として彼女の名前が記してある。
「だから、そう・・・威嚇するのはやめて貰えますか?」
リューはカナンに対してどこか高圧的なアイーシャの言動が気に入らない。聡い女学生はリューの心の機微を瞬時に悟り、表情を柔和なものに一変させる。
「威嚇なんてしてないわ。気分を悪くしたのならごめんなさい、えぇっと・・・カナンだっけ?」
「い、いえ! 私は別に・・・」
少し怖かったけど、もしかして本当はいい人なのかもしれない。カナンは素直に謝ったアイーシャを見て警戒心を解いた。
「それよりアイーシャさん、もうすぐ昼休憩も終わるはずです。早く講義室に戻った方が良い」
「はぁい」
アイーシャは素直に返事をする。そして一瞬のうちにリューへ近づき、蠱惑的な目で彼の顔を見上げ、その耳元に口を寄せた。
その瞬間、カナンは顔色を真っ青に一変させる。
「・・・約束忘れないでね」
「!!」
カナンの目からリューの肩越しに見えるアイーシャの顔は、同性の目から見てもゾッとするほど妖艶で、尚且つ不敵な笑みを浮かべていた。
そしてアイーシャの目は、青ざめるカナンの姿を捉える。宣戦布告・・・カナンの脳裏にはそんな言葉が浮かんでいた。
「じゃあ!」
アイーシャはご機嫌な足取りでその場を後にする。カナンはバクバクと脈打つ心臓を両手でぎゅっと抑えていた。
「さてと・・・私も君にいくつか聞きたいことがある」
「はい?」
アイーシャと入れ替わりで、背後から誰かが声をかけてきた。リューが振り返ると、そこには怪訝な表情を浮かべるナスールが立っていた。
「・・・今まで一体何人の人体解剖をしたんだ?」
「!!」
最先端の医学を学ぶ国立医学学校の外科医たちですら、遥かに凌駕する人体の知識を持つ少年が現れた。それも既存の解剖学の教科書を読み込むだけでは、得られない知識まで持ち合わせている。
人の体について詳しく知るには、人の体を実際に調べるしかない。リューに対して重大な犯罪、すなわち“違法な人体解剖”の嫌疑がかかるのは当然のことだった。




