■第28話 パン屋の娘は一般人である
「……? 帰って来ない?」
どういうことか飲み込めなくて問い返した私に、エオルスさんは頷きを返す。
曰く、皇帝陛下はしばらく執務室で仕事をしていたが、「少し出掛けてくる」と言って、ひとりでどこかに行ってしまい、それきり帰って来ないとのことだった。
「今日はシルヴィスに公務で出掛ける予定は入ってないはずだから、私用で外に行ったんだと思う。でも、公務でもないのにこんなに長く帰って来ないなんてこと、今までなかったんだ」
エオルスさんの狼狽振りから、もっと深刻なことを想像していたので、少し拍子抜けした。
「うーん……。陛下も人の子ですし、何かの用事で出掛けたついでに寄り道したり、行列のできるクレープ屋さんで買い食いしたり、外でサボりたくなる日もあるのでは」
おろおろするエオルスさんを宥めようと思ってそう言ってみる。まだ外は明るいし、皇帝陛下も大人である。ちょっと帰りが遅いくらいそこまで心配しなくてもいいのではと、軽く考えていたのだけれど。
「それはない」
と、エオルスさんはやけにきっぱりと断言した。
「あいつが仕事をサボって出掛けること自体が珍しいけれど、もしたまたまサボりたくなったんだとしても、今の状況では絶対にあり得ない」
「どうしてですか?」
「だって、今はリーニャちゃんがいるんだもん」
「……」
「暇さえあればリーニャちゃんと一緒にいようとするあいつが、城内にリーニャちゃんがいる状況で、外に遊びに出掛けるとは思えない。そんな時間があったらリーニャちゃんを構いにいくか、リーニャちゃんの勉強姿を後方からこっそり眺めにいくはずだ。意味もなく外出なんて、仮に用事があって出掛けたとしても帰りに寄り道なんて、あり得ない。まして、もうすぐリーニャちゃんとのおやつ時間なのに」
「……。……。それは、かなり説得力がありますね」
言われてみれば確かにそうだ。皇帝陛下はそういう人である。だんだんと事態の深刻さが飲み込めてきた。
「城内が混乱するから、シルヴィスの所在が分からないってことはまだ伏せてある。ただ三メイドちゃんたちには状況を説明して、捜索に出てもらった」
エオルスさんは、ここで視線を落として、どこか歯切れが悪く続けた。
「でも、シルヴィスが行きそうな場所にはいなくて……。一応、捜索範囲を帝都中に広げて、探し続けてはいるんだけど……」
難しい顔になった彼は、腕を組んで「もしかしたら」と言った。
「シルヴィスが自分から出向いたことから考えると、大聖堂……聖王様のところにいるかもしれなくて……」
「せ、聖王様?」
いきなりものすごく偉い人が話に出てきて面喰った。
皇帝陛下が帝国で一番偉い人なら、聖王様は教会で一番偉い人である。聖王様の姿を見ることができるのは、ごく限られた人々だけらしく、当然、私も拝見したことはない。
「前にも一度、シルヴィスは皇帝に即位してまもない頃に、当時の聖王様に呼び出されてるんだ。皇帝に足を運ばせることができる相手なんて、この国じゃリーニャちゃんか聖王様くらいだよ」
恐れ多いので聖王様と私を同列に置かないで欲しいのだけれど、そんなことよりも。
「えっと……大聖堂に陛下がいると分かっているなら、安心してもいいのでは? 聖王様や教会の人たちなら、陛下にだって親切でしょう」
「それはちょっと分からなくてよ」
凛とした声で、ミッシェルベル様が会話に加わった。騎士団の訓練は見物し終わったらしく、私たちの話も聞いていたようだ。
「皇帝側と教会側は表面上、平和的な関係ですけれど、水面下ではバチバチにやりあっていますもの」
「えっ……陛下、教会の人たちに何かやらかしたんですか?」
聞いたことのなかった皇帝陛下と教会との不仲説に驚いて聞き返すと、ミッシェルベル様はふるふると首を横に振った。
「今の陛下が何かしたという訳ではないわ。帝国ではずっとずっと昔から、皇帝と教会は対立していると言うだけ。権力を持った組織が二つあれば、おてて繋いで仲良しこよしとはいかないのよ」
皇帝陛下が何かして嫌われた訳ではないというのは安心したけれど、否、何一つ安心できる状況ではなかった。
幼少期は教会付き孤児院で育ててもらったし、神官様のお世話になった身だし、何ならバイト先でもあるし、教会に悪いイメージはない。
でも、組織として「皇帝側」と「教会側」で伝統的に不仲があるというのなら、陛下の身に不安な想像をしてしまう。
代々仲の悪い教会の、総本山的な大聖堂に、ひとりで呼び出されるという状況。
「その……言い方は悪いですけど、敵地に一人で乗り込んだみたいなことですか?」
「ええ。今代の聖王様の話はあまり聞かないから分からないけれど、先代の聖王様は露骨にハイドラ皇帝を嫌っていましたから……今代もその方針を踏襲しているのなら、招いた陛下に出涸らしのお茶を振る舞うくらいはするかもしれなくてよ」
ミッシェルベル様が重々しい表情なところ申し訳ないのだけれど、出涸らしのお茶を振る舞われるくらいなら別に大丈夫じゃないかなと思った。
「シルヴィスが」
と、エオルスさんがすごく困った、悲しそうな顔で言った。
「前に一度、先代の聖王様に呼ばれた時、すごく暗い顔して帰ってきたから。『二度と行きたくない』としか言わなかったから、何があったか分からないんだけど、だから、心配」
「……」
「それにあいつ、今日出掛ける直前に『万が一、俺が帰らなかった時はリーニャのことを頼みます』って僕に言ったんだよ。すごく深刻そうな顔して」
「……そんなの」
そんなの、万が一のことが起こりかねないと、言っているようなものだ。
「大聖堂に行きましょう!」
勢い込んで提案すると、エオルスさんは困った顔のまま首を横に振った。
「大聖堂のある神聖地区は国家不可侵の場所なんだ。帝国軍の兵士はもちろん帝城で働くメイドさんに至るまで、宮廷関係の人間は公的に立ち入れないし、必要があって入るにしても手続きがいる。皇帝がいるかもしれないから確かめさせてくれ、なんて不確かな理由じゃ、まず許可は下りない」
「……」
「こっそり侵入したり、手続きなしで押し入ることはできなくもないけれど、今後のことを考えるとそれは非常にまずい。『皇帝の手の者』が無断で神聖地区に入ったと知れたら、敵対行動と取られかねないから」
エオルスさんが難しい顔をしている理由が、やっと分かった。
皇帝陛下の居場所に当たりが付いたところで、そこが簡単に入れる場所ではなく、弟に何かあるかもしれない不安があるのに、確かめようにも国を巻き込んだ騒動になりかねないから動くこともできない。
だったら。
「……あの、エオルスさん。私の立場って対外的には、ごくごく一般的な市民ですよね。お城で働いている使用人でもないし、別に皇帝陛下の正式な婚約者という訳でもない。言わば皇帝陛下とは無縁の人間ですよね?」
「ごくごく一般的な市民かと言われると首肯し難い部分はあるけれど、まあ、公的にはシルヴィス自身とも、宮廷の各派閥とも、何のつながりもない……けど……」
「ちなみに社交界では『皇帝陛下に恋人ができた』という噂は出回っていますけれど、陛下が情報を統制していますから個人は特定できていませんわ。この城の人間が口を噤む限り、リーニャさんは陛下と無縁の人間と言い張れましてよ。教会の方も、まさか皇帝とパン屋の娘につながりがあるなんて夢にも思いませんわ」
私が何を言い出すのか察したエオルスさんが言い澱み、私の意を汲んだミッシェルベル様が言い添える。ふたりに向かって、こっくりと頷いた。
「では、私が陛下を探しに大聖堂に入っても何の問題もありませんよね。だって私、ただの一般人ですから」
どんと胸を張る私を、「いやいやいや危ないから駄目だよ!」と、エオルスさんが慌てて制する。
「聖王様のところには自衛のための兵士だっているんだ。下手なことをしたら、女の子とはいえ乱暴に摘まみ出されるかも知れないんだよ。こう、ぽいっと」
「危ないことはしません。陛下がいるかどうか、出涸らしのお茶を出されていないか、ちょこっと覗いてくるだけです」
「そもそも市民が普通に入れるのは、礼拝用に一般開放されている区画だけだよ。シルヴィスがいるとしたらたぶん、大聖堂の奥だ。教会関係者以外は立ち入り禁止だから、リーニャちゃんは入れないよ」
「教会関係者――例えばシスターなら、入れるんですね」
「それはまあ……え、リーニャちゃん、まさか、一応聞くけど、どこ行く気?」
大股で歩き出した私に、エオルスさんが問い掛ける。歩みを止めずに答えた。
「ちょっとバイト先まで、着替えを取りに」
すみません、リーニャがお着替えに手間取っておりまして、来週の更新はお休みします。シスター服のチャックに三つ編みが挟まってもだもだしているリーニャを想像してお許しください。
また、次話から毎週水曜日の更新に変わります!
次話は3/27(水)に投稿予定です。




