■第25話 パン屋の娘は淑女を目指す
「あ、そうだ。陛下……その、何か仕事はありませんか?」
「仕事?」
皇帝陛下は朝食の後で政務に戻るのだろうし、城内にいる人々で働いていない人はいないのだろう。昨日は安穏と過ごさせてもらったけれど、今日以降も何もしないのは心苦しい。
「衣食住の面倒を見てもらっている身で一日中ごろごろするのも気が引けるので、掃除とか洗濯とか、何かお手伝いすることがあればと思いまして」
「気に病む必要はありませんよ。今リーニャは客人として城に滞在しているのですから、客人に仕事をさせる訳にもいかないでしょう」
それもそうか。お客様枠である私が掃除や洗濯に参戦したら、今度はメイドさんたちの気が引けるだろう。業務妨害もいいところである。
「でも、ただ遊んで過ごすのはやっぱり……」
このまま美味しい食べ物と楽な時間だけを与えられていたら速やかに駄目人間になってしまいそうだし。
「このまま美味しい食べ物と楽な時間だけを与え続けていれば速やかに駄目人間になってくれるかなと思って楽しみにしているので、気にせず流されてくれていいんですよ」
狙い澄ましたように人を堕落させないで欲しい。
「リーニャは駄目人間になっても可愛いですから。いや、可愛いから駄目にしたいが正しいですね。可愛い子は旅に出すより駄目にするのが望ましい。厳しい外では生きていけないから安全快適なここにいるしかないという心身になってくれれば重畳です」
真摯な表情で人の堕落を待ち望まないで欲しい。
「陛下の目指す『落とす』の方向性が俄かに心配になってきたのですが」
私が懺悔室で皇帝陛下の恋愛相談にアドバイスをした際は「恋に落とせ」と言ったはずなのだけれど、彼の中では「相手を人の優しさに甘え切った生活に堕落させる」という意味に誤変換されてしまっているのではなかろうか。
いやまあ、可愛い存在を甘やかしたいという理屈は分かる。
私だってポメコに「え、おかわりないんですか?」と言わんばかりの瞳で見つめられると、ついおやつを多めに与えてしまう。
皇帝陛下は何の因果か私を可愛いと思っているから、たぶん、そういう理屈だ。
でも、可愛がろうと思ってくれるのは正直ちょっと嬉しいけど、駄目な奴でも見限らないと思ってくれるのは甘えたくなるような甘さだけど、そこに乗っかって甘やかされるだけの毎日を送りたいかと問われれば、それは違うのだ。
「あの……陛下は私が駄目人間でもいいかもしれませんけど、私は駄目人間として陛下の傍に居たくないです。陛下と釣り合う……のは、無理だとしても、せめて一緒にいても恥ずかしくない人間を目指す努力はしたいところです」
「……」
皇帝陛下は無言で私を手招きした。何だろうと思いつつ指示に従って傍らに移動すると、何の前置きもなく抱き締められた。
「なん、な、何をしはるのんですか」
「可愛さ余って、つい」
朝から無駄に人の心拍数を上昇させないで欲しい。「つい」で抱擁をかまさないで欲しい。助けを求めて三メイドたちを目で探すと、気配を消して並んで立っていた彼女たちは無言で頷き、無言で親指を立てた。いや、推してないで助けてください。
「分かりました」
「え?」
皇帝陛下は私から身を離し、代わりに手を握って、にっこりと笑った。
「俺がリーニャを引きずり込んだ訳ですからリーニャに努力を強いるのは違うと思っていたのですが……そうですか。そうですよね。リーニャはそういう人ですよね――では、社交界向けの行儀作法を徹底的に叩き込むところから始めましょう」
「えっ」
なぜそんな話に。
そして「叩き込む」のところに一切の容赦がない響きがあって一瞬ぞっとしたけれど、皇帝陛下はそれはもう優しい顔で、否、目だけは飽くなき熱意に満ちていた。
「口の煩い連中が口を挟む隙も無いほど、徹底的に淑女に仕上げましょう」
「あの……?」
「食事というのは美味しく食べることが最高の礼儀ですからその点リーニャは心から賛辞を送りたいくらいに完璧なのですが、如何せん社交用の作法というものが存在しますからね。リーニャが表に出るなら将来的には会食の場も避けられないでしょうし、この際ですから完璧な作法を身に着けましょう。もちろん二人きりの時は今まで通りに唸ったり呻いたり涙ぐんだりして欲しいですが、それもしばらくはお預けですね」
「えっと……?」
「食事の作法以外にも覚えることは山程ありますが、まあ大丈夫です。今日からたくさん勉強すればいい話ですから。人間は追い詰められれば追い詰められた分、成長する生き物です」
「え、あ、私、追い詰められるほどに勉強させられるんですか……?」
「一朝一夕で身に着くものではありませんが、リーニャが城に滞在するこの数日間は事前研修ということでみっちり勉強して、今後の日々のために慣れておきましょうか」
「みっちり……」
いや自分から何かさせてくれとは言ったのだけれど、床の雑巾がけとか庭の草むしりとかの労働を想定していたものだから、予想外の展開に衝撃である。
でも、よくよく考えれば確かに、皇帝陛下の傍にいて恥ずかしくない人間を目指すというのなら、まずはそこから始めなくてはいけないのだろう。
そして今まで貴族社会の教養と無縁だった私にとっては、どうやら生半可な勉強量ではなさそうだ。たぶん、フォークとナイフがいっぱいあるんだと思う。
多難な前途に若干気が遠くなる私を見下ろしながら、皇帝陛下は無邪気に言う。
「俺のために努力してくれるんですよね?」
皇帝陛下、そこが嬉しかったらしい。
ああ、もう。もちろんしますとも。これも落ちた弱みというやつだから。
期待に応えられるだろうかという不安がよぎるけれど、期待に応えたいという気持ちの方が強くて、そのことに自分でちょっと驚いた。以前の自分なら、失望される前に逃げを打ったと思う。
でも今は、皇帝陛下に何もしないでいいと言われるよりも、するべきことを求められる方が、ずっと嬉しかった。
「どんな勉強も、どんと来いです」
胸を張って頷けば、皇帝陛下は「それは頼もしい」と微笑んだ。こちらもつられて頬が緩む。
「調教の基本は飴と鞭だと本に書いてありました。厳しい訓練と美味しいおやつの繰り返しが効果的であることはポメコで実証済みです。リーニャの調……教育も、この基本に沿って行いましょう」
頷くんじゃなかったと早くも後悔した。
「いやそれ犬用の躾の本の内容ですよね。あとさっき調教って言いかけなかっ」
「勉強を頑張ったらおやつの時間にしましょう。今日のおやつはリーニャが愛してやまない苺のパンケーキです」
「はい陛下、全力で頑張ります……!」
こうして、安穏と思われたお客様生活は一変、怒涛の淑女研修期間となった。
勉強開始の初日にして疲れ果てた結果、今夜も寝室の鍵と毛布を掛けずに眠り込んでしまったけれど、朝目覚めたらちゃんと毛布が掛けられていた。まあ、誰が掛けてくれたのかはもう分かっている。
せめて十通りの起こし方を再び試されていないことを願うばかりだ。




