■第20話 兄の話
「えっと……。あの、陛下、自分だけ期間限定の桃のシュークリームを食べ損ねて拗ねているのでは……?」
「拗ね……」
言ってしまってから、いや皇帝に向かって「拗ねた」はないだろうと己が不敬に内心で慌てたが、やがて皇帝陛下はおかしそうに笑い始めた。
「なるほど……」
「え、あの……?」
何を面白がっているのか分からないので困惑していると、皇帝陛下はいつもの優しい調子で言った。
「今度城に来るときに、ちゃんと忘れずに買ってきてくれますか?」
「……! はい。もちろんです」
「では次のお茶会のおやつはシュークリームで決まりですね」
「お任せください。期間限定と通常版と両方買ってきます。実は通常版の味も気になっていまして」
「それは楽しみですね」
この顔。よかった。ご機嫌だ。これでエオルスさんの懸念は解消された。ミッションコンプリートである。
「シュークリームなら持ち運びやすいですから、今度は庭園でお茶会をしましょうか。ポメコの散歩もかねて」
皇帝陛下の提案に「最高ですね」と頷く。近頃の皇帝陛下は庭園を気に入っている様子なのが、何となく嬉しい。快適な室内でのゆったりとしたお茶会もいいけれど、たまにはピクニック気分もきっと楽しい。蝶と戯れるポメコを眺めながら美味しいものを食べるなんて、天国寄りの至福が待っているに違いない。
「あ、そうだ。せっかくだからエオルスさんの分も買っ……」
「兄さんの分はいいです」
ご機嫌一転、ツンとした表情で食い気味に却下された。
「仕事をサボって勝手にリーニャと仲良くお菓子を食べた兄さんにはしばらく不眠不休無酸素無呼吸で働いてもらうのが妥当な処遇です」
うん。
兄に冷たい。
遠回しに息の根を止めにかかっている。
「あの、陛下……。エオルスさんが『弟が冷たい』って悲しんでましたよ。もう少し、もう少し寛容に、せめて酸素のある場所で」
「知りません。勝手にリーニャと仲良く馬車に乗るような兄さんなど馬車馬の如く働かせるもしくは馬車馬そのものをやらせるのが妥当な処遇です」
「……」
そっぽを向いて、それこそ拗ねたように言う皇帝陛下。
その様子は、とても。
「陛下って……エオルスさんと仲良しなんですね……」
「……」
私の言動が理解しがたいと言うように、困惑したように眉を寄せる皇帝陛下。さきほどのツンとした表情と言い、今の表情と言い、彼がこういう負の感情寄りの気持ちを露わにするのは珍しい気がする。
「……。別に特別仲良くはありませんよ」
「え。そうなんですか?」
「ただ、昔から兄さんがしつこく……本当にしつこく、俺を『弟だから』などという、ただそれだけの薄弱な根拠で構ってくるので、根負けして、兄として慕っているだけです」
真面目に言うその様子に、なんだか安心してしまった。
エオルスさんの話では詳しく語られなかったけれど、皇帝の実子と異父兄という関係である、何も波乱がなかったとは思えない。何よりふたりが生まれたのは、兄弟姉妹間の殺し合いを前提とする苛烈な世界だ。
けれど、彼は皇帝となった今、エオルスさんを事務官として傍において「兄さん」と呼ぶことを躊躇わない。
皇帝陛下はたぶん、皇位継承の過程で兄二人と姉一人を殺めたことを、必要なことだったと割り切っているのだと思う。だけど、割り切ったというだけで、何も思わなかったわけじゃない。思うことはあったはずだ。だって私は、彼が誰かからの肯定を欲して、小さな教会の懺悔室を訪れたことを知っている。
だからこそ、嬉しい。皇帝陛下に、命を懸けて争わなくていい兄がいることが。思うままに拗ねたり怒ったりできる兄がいることが。弟に好きな相手がいると知ってそのバイト先へ挨拶に行っちゃうような、そんな兄がいることが。
「ところで陛下のお兄さんっていい人ですね」
またも脈絡なく、いや、今度はちゃんと脈絡ある「ところで」を使って、さっきと同じことを口にした。
「なんてったって、仕事をサボってすることが『未来の妹』への挨拶ですからね」
「……。本当に仕方のない兄ですね」
そう言った皇帝陛下の表情は、あの日に庭園で「サボるのが上手な事務官」について話した時と同じだった。
「仕事をサボるなと叱っておきましょう」
本人は意識していないだろうけれど、親しみの滲んだ、穏やかな。
「ところでリーニャ」
と、皇帝陛下はそこで不敵な笑みになった。皇帝陛下の「ところで」は、たいてい不穏の始まりである。
「兄さんの『未来の妹』だと自認するわけですね」
「え。あっ」
「つまり俺の未来の妻だと。つまりリーニャには俺と結婚する意志があると。つまりこれは結婚の了承よし今すぐ婚姻届けを持ってきてもよろしいで」
「いや全然そういうわけではないです。全くよろしくないです。エオルスさんが未来の妹という言葉を使っていたのでそう言ったまでです」
皇帝陛下の前では迂闊に口を滑らせることもできないらしいっていうか言質を取ってからの行動が早いため否定する側にも速度が求められるので油断ならない。
「おやそうですか……。でもまあそこは遠慮せず、『エオルスさん』ではなくて」
銀色の髪に赤い瞳をした青年は、金色の髪に翠色の瞳をした青年の面影がある顔に、にっこりと笑みを浮かべてこう言った。
「お義兄さんと呼んでくれていいんですよ?」
兄そっくりの笑みで言う皇帝陛下に、「いやそれはまだ早いです」と返した。




