靄の中の真実
しんと静まり返った暗黒世界に落ち着いた声が響く。
「先週、竹田山で女性の左手が、手首から切断された状態で見つかった」
暗闇に包まれていた大学講堂の演台にスポットライトが射した瞬間、講堂内からざわめきが起こった。
それは、演台に立っていたのが予定されていた学生ではなく心理学部教授の小佐田だったからなのか、その小佐田の妻が先週起きたバラバラ殺人事件の被害者となっており、大学を休んでいたからなのか。
どちらともなのか。
小佐田はそんなざわめきを気にすることなく、少しずれた四角いメガネのブリッジを左手中指で押し上げながら話を続けた。
小佐田がリモコンを操作する。
ステージ上のスクリーンに映し出されたのは、手首部分から切断された左手だった。
一段とざわめきが大きくなったところで、小佐田が少しだけ声を張り、朗々と話し続けた。
「手首は鋭利な刃物で切断されており、切断面から死後に切断されたと推測される」
この日、大学の講堂では、各学部の生徒たちが一年間の研究成果発表を行っていた。
心理学部三年の発表は吉村ゆみが予定されていた。ところが時間になっても吉村が現れず、焦っていた実行委員の元に来たのは、休んでいるはずの小佐田だった。
実行委員の制止を無視して照明を落とし、小佐田は登壇していた。
「左手薬指には指輪が着けられており、指輪に掘られた文字から、行方不明者届が出されていた竹田市の小佐田晴香(29)の可能性が高いとして捜索が開始された。その後、山中の別の場所に埋められた小佐田晴香の遺体を発見。遺体は、手首と同じく鋭利な刃物でバラバラにされており、殺人事件と断定された」
事件資料とおぼしき遺体の写真を次々にスクリーンに映し出す小佐田の顔は、ざわめきと悲鳴が響き続ける講堂内とは反するように、穏やかな微笑みを零していた。
ある者はスマホを構え写真を撮り、ある者は動画を撮っていたが、小佐田は一切気にする素振りを見せない。
「私は、若いだろう? まだ三六で、顔もいい。私に懸想する学生は多いと自認していた」
話の方向性が変わり、講堂内が一瞬静まった。小佐田は未だ微笑んだまま話し続けている。
「一昨年からストーカーに悩まされていてね、学長には相談していたんだよ。ただ、有望な学生だから大目に見るようにとね」
小佐田はそう言うと、この場の支配者かのようにゆっくりと歩き、ステージの横に捌けていった。
話の流れがなんとなく見えた者は隣に座っている者と話し、分からない者はきょとんとした表情でステージを見つめている。
スクリーンには小佐田晴香の無残な姿が映し出されたままだった。
小佐田が大きなスーツケースを二つ引いてステージに戻って来ると、講堂内のざわめきが更に大きくなった。
多くの人々があのスーツケースには人が入っているのではと囁き合っている。それが聞こえたのであろう小佐田が笑みを深めマイクを構えた。
「心理学を学ぶ者たちにいい教材が出来た。人は、大切なものが奪われると、壊れる。そんなの分かりきっているって? いいや、君たちは分かっていない。どれだけ壊れるのかを」
小佐田がひとつのスーツケースを開くと、そこからゴトリと人が溢れ落ちてきた。猿轡をはめられ、手足を拘束された年配の男だった。
その瞬間、大きな悲鳴とともに三分の一程度の者たちが立ち上がり、講堂から逃げ出そうとしてた。ところが講堂の出入り口はいつの間にか全てが封鎖されており、内からも外からも開かないよう南京錠で施錠されていた。
席に残っている残りの三分の二のほとんどの者たちは、スマホを握りしめ次に何が起こるのかと固唾をのみ込んでいた。
小佐田はそんな講堂内を気にもかけず、もうひとつのスーツケースを乱暴に開けた。
小佐田はそこから溢れ落ちて来た女に微笑みかけた。女は、猿轡をはめられ手足を拘束されていた。
「やぁ、吉村さん。窮屈な思いをさせて申し訳なかったね。君の父親は代議士さんだったね。君は親の権力を手に入れようとする心理が働いて、父親の真似をしていたね。結果として本当に似てくるというのは、本当にセオリー通りで面白いと思っていたよ。そこまでは良かったんだけどね」
小佐田が年配の男が入っていたスーツケースから、出刃包丁を取り出した瞬間、講堂内がどよめきから大きな悲鳴に変わった。そして、この場からどうにかして逃げ出そうと席を立ち上がる者が増えた。
それでもなお、ほとんどの者はスマホを構え続けている。
その光景をステージ上から見た小佐田は、恍惚とした笑みを浮かべた。
「んーーーーーーっ!」
吉村と呼びかけられた女が叫び暴れるように動くと、小佐田が女の腹を蹴り仰向けになるように踏みつけた。
「暴れると、余計に痛いよ?」
妙に落ち着いた小佐田のその言葉に、講堂内が水を打ったように静まり返った。皆が息を潜め固唾を呑む中、吉村がしゃくり上げくぐもった声で泣き出した。
小佐田が柔らかな声で「ここにいる全員に君がしたことを話せば、君の命は救ってあげよう」と言った。
まるで赦しを与える神かのような微笑みを湛えて。
吉村の懺悔は、あまりにも身勝手なものだった。
小佐田にどれだけ言い寄っても自分に靡かない。あんな不細工な女がなぜ小佐田に愛されているのか分からない。たぶん小佐田より七つも年下だからだろう。それなら一〇以上は若くて美しい自分の方がいいに決まっているという思い込みからだった。
小佐田が大学にいる間に自宅を訪ね、小佐田の妻である晴香に話をつけに行ったが、断固として拒否された。父親からくすねた三〇〇万円をやると言っても、一切耳を傾けなかった。
「――だから! 私は悪くないっ!」
この期に及んでそう言い張った吉村に対して、講堂にいた者たち全員が終わったと思った。この後は激情に駆られた小佐田による惨殺劇になるのだろうと。
ある者は目を隠し、ある者は耳を塞ぎ、ほとんどの者はスマホを構え続けていた。
「吉村さん、ありがとう」
小佐田の感謝の言葉に、全員が息を呑む。もうその時なのだろうと。
ところが、小佐田は握りしめていた出刃包丁を自身の首にあて、ステージ上をゆっくりと歩きながら、滔々と語りだした。その姿はまるで歩く狂気のようだった。
「復讐は、私たち人間の脳の神経回路に刻み込まれた反応だ。そういう感情を抱くのは仕方ない。相手に苦しめられた、嫌なことをされた、だから相手も同じような報いを受けるべきだと考えるのが自然だ。そして、人は苦しみから逃れたいと思うものである。本来であれば向き合い紐解くことで和らげられるが、それはとても難しいものだろう。心理学に携わっていても私には自分の感情を制御できなかった。だから、私はこの結果を選ぶことにした」
ステージの真ん中で立ち止まると、小佐田は晴れ渡った笑顔で宣言した。
自分は復讐と逃避を同時に行うと。講堂内の人々に膨大なストレスを与え、その捌け口を吉村に向けるのだと。殺人は犯したものの、殺人未遂の被害者にもなった吉村に死刑が下ることはないだろう。刑期が何年になるかは分からない。
「恨まれ、苦しみ、生き続けろ」小佐田はそう言うと、自分の首を出刃包丁で勢いよく切り裂いた。
………………
………
……
「小佐田さん、お薬ですよー」
「…………よしむら…………そのご………けいさつ、つれられて………」
「小佐田さーん、口開けて! くーちー!」
精神科の看護師がため息を吐きながら部屋を歩き回る小佐田の二の腕を掴み制止する。口に無理やり薬を詰め込みコップを唇にあてると、水を飲むよう怒鳴りつけた。
「毎日毎日、殺した奥さんのことを思い出して何が楽しいのかしらね」
「違うわよ。殺・さ・れ・た、なのよ。彼の中では」
当時は若くて有名な心理学者だったのだと年配の看護師が話を続けた。
「奥さん凄く若くてね、小佐田さんの生徒と浮気してたんだってよ」
「それで逆上して?」
「そう。本人は靄の中で幸せそうだけどね」
看護師たちが悲惨すぎるわねと笑い合いながら小佐田の部屋を施錠し、次の患者の部屋へと移動して行く。
小佐田は今日も一人、出刃包丁で生きたままバラバラにした妻と共に、美しい妄想の世界を狂気と共に歩き続けていた。




