元婚約者は牢獄の中にいました(2/2)
フローランさんに肩を抱かれながら、監獄の近くに停めておいた馬車に乗り込む。頭がぼんやりして、起こったことが上手く呑み込めない。
「あの……フローランさん。わたしのこと、どう思います?」
隣に座る夫に尋ねる。彼は「愛してる」と答えた。
「いえ、そうじゃなくて……」
突然の告白に体が熱くなるのを感じつつも、わたしはかぶりを振った。
「わたしって……もしかしなくても、いわゆる『悪女』ってやつなんですか?」
真っ赤なネイルが塗られた爪を見つめる。
ああ、なんて「悪女」に相応しい色なの!
夫からの答えを待たなくても、わたしは自分が五年後にどういう人間になったのか理解できた気がした。
お色気むんむんの人妻。スケスケのドレスを着こなす絶世の美女。男を破滅させる妖婦。
どれもこれも、わたしが今まで読んできた本に出てくる「悪女」の条件にぴったりだわ! 彼女たちは美しく逞しく豪胆。毒の花に彩られた人生を、背筋を伸ばして最後まで歩ききる。
わたしも、いつの間にやらそんなダーティヒロインの仲間入りを果たしちゃったってこと?
「悪だくみをしている時の君は、とても魅力的だよ」
フローランさんはわたしの首筋にチュッチュとキスをする。あまりに大胆な行為に、わたしは「ひょああ!」と悲鳴を上げて、馬車のシートから転げ落ちそうになった。
「どうしたんだ、まったく」
フローランさんはその反応を面白がるように笑っている。
もう! 意地悪なんだから!
「これより親密な触れ合いを、僕と君はいつもしていたぞ。そんなに動揺することないだろう」
こ、これより親密な触れ合いですって!?
恋愛小説で読んだ、あんなシーンやこんなシーンが脳内をよぎる。
そんな、はしたないっ! 結婚前の淑女がすることじゃないわ!
……いや、わたしは既婚者だったわね。
だったらいいか……。
……って、良くないわ!
「ちょっとは手加減してください……」
ドクドクと鳴る心臓を意識しながら、ほとんど泣きそうな声を出した。
「わたし、見た目は妖艶な人妻ですけど、中身は純情可憐な乙女なんですよ! ……いや、『可憐』ではないかもしれませんけど」
でっぷりした不器量な五年前の自分を思い出し、ごにゃごにゃと付け足す。
「とにかく、わたしはこういうのには慣れていないんです。心臓が止まっちゃいますよ……」
「それは困るな。……分かった。君のことは、いたいけな十七歳の少女として扱おう。……何だか楽しみだな。こういう戯れ方も悪くない」
「いや、遊びじゃないんですが」
馬車が止まり、ロワイヤル家に到着する。
玄関ホールへ入ろうとすると、庭の方から足音が聞こえてきた。
「ママ~!」
十五歳くらいの小柄な女の子が駆け寄ってきて、わたしのお腹の辺りに抱きつく。
……ママ?
「目が覚めたのね! アタシ、ママの意識が戻ってとっても嬉しいよ!」
「え……あの……」
どういうこと? ママ? わたしがママ?
「……ママ?」
少女は不思議そうな顔をする。
「どうしたの? アタシが誰か分からないの?」
少女の顔が歪んでいく。
「ひどい! 実の娘の顔を忘れるなんて! バカバカ! ママなんて大っ嫌い!」
少女はわたしの体を拳でポカポカと殴る。想像もしていなかった展開に、狼狽えずにはいられない。
「ご、ごめんね。わたし、記憶がないのよ」
なんてことなの! わたしに娘がいたなんて!
子どもの顔も分からなくなっちゃうなんて、親として失格だわ!
「なるべく早く思い出すようにするからね。だから、ダメなママを許してちょうだい……」
わたしは少女の頭を撫でてあげる。そうしている内に、心のどこかから忘れていた母性が蘇ってきて……。
「こら、ナデジュ!」
咎めるような女性の声が響き、少女はぱっと顔を上げる。そして、「母様!」と言いながら声の主のところへ走っていった。
……え? 母様?
「お出かけしていたの? マルグリットさん」
「もうすっかり元気ですな」
そこにいたのは中年の男女だった。あっ、宰相閣下夫妻だ! つまり、わたしの義理の両親だわ!
「ダメでしょう、ナデジュ。お義姉様をからかっちゃ」
「だってぇ」
宰相夫人が少女の頭を小突く。彼女はニヤニヤ笑ってこちらを見た。
「……ナデジュちゃん!」
思い出した! この子、フローランさんの妹だわ!
そうよね。よく考えればおかしいわ。わたしはまだ二十二歳。十代半ばの実子がいるはずはない。
フローランさんの方に視線を遣れば、必死に自分の太ももをつねって笑いをこらえているところだった。
くっ……! 腹黒兄妹め!
「義姉様、本当に記憶ないんだ」
ナデジュちゃんが面白そうにわたしを眺める。
「なんか前と全然違うもんね。隙だらけっていうの? 服もそんなだし」
ナデジュちゃんに言われ、わたしは自分がどんな服装をしているのかに気付く。シンプルなモスリンのドレスに、スリッパみたいな絹製のルームシューズ。
家でくつろぐだけならまだしも、こんなのは外出用の服ではなかった。
わたし、こんな格好であちこち出歩いてたの? いくらどんな装いでも似合うスタイル抜群の美人とはいえ、これはいただけないわ!
「もうすぐ晩ご飯だよ。食堂に来る時は、ちゃんと着替えてよね?」
「は、はい」
ナデジュちゃん、しっかり者だわ。わたしは思わず背筋を正して頷く。でも、義理の両親は気にしていないようだった。
「何かと大変なことも多いでしょうが、少しずつ慣れていってくださいね」
「ゆっくりでいいんですよ」
良かった。二人ともいい人みたい。夫の両親にいじめられる主人公の話を前に読んだことがあるけど、わたしはそんな目に遭わなくて済みそうだ。
「行こうか、マルグリット。君の服は僕が選んであげよう」
「ありがとうございます」
わたしは夫の手を取った。
ふと、気付く。義理の両親と義妹との顔合わせが済んだことで、わたしの五年後の生活におけるレギュラーメンバーが一通り揃ったのかもしれない。
目覚めたら突然始まっていた新しい生活。正直に言えば戸惑うことばかりだけど、上手くやってみせよう。
大丈夫。多分、わたしはすごく運がいいから。待ち受けていたのは、貧民街に寝泊まりし、マッチを売って生計を立てなければならない極貧生活とかじゃなかったんだもの。
今のわたしはすごく素晴らしいものをたくさん持っている。
愛情深い夫とか、楽しい妹とか、優しい義夫と義母とか、ちょっと小悪魔的な美貌とか。
こうなったら、この新生活を楽しんでやるのみだ。そしていつか、記憶も取り戻してみせる!
そんな決意を胸に、わたしはこれから先暮らすことになる屋敷の中に足を踏み入れた。




