元婚約者は牢獄の中にいました(1/2)
それから一時間も経たない内に、わたしとフローランさんはコペル家の門を潜っていた。
懐かしい実家……のはずなんだけど、特に感慨は沸いてこない。だってまだ五年後に来た実感の薄いわたしにしてみれば、ロワイヤル家じゃなくてコペル家の方が「家」という感覚だったから。
急な来訪に家の人は驚いていたけど、使用人たちはすぐに家人に連絡を取り、コペル一家を集めてくれた。
「マルグリット! 元気になったのね!」
「事故に遭ったと聞いてすぐ面会に行ったんだ。まあ、お前は寝ていたから知らないだろうが」
お母様とお父様が安堵の表情でわたしを見つめる。こんなことは言いたくなかったけど、二人ともちょっと老けたみたい。
でも、他はわたしの知っている両親と変わりなかった。特に、お父様がこの場にいることには心の底からほっとしてしまう。
「お父様、冤罪が晴れたのね!」
「冤罪?」
お父様はきょとんとした。
「マルグリットは記憶を失っているのですよ」
今まで家族との再会を邪魔しないように黙ってくれていたフローランさんが、フォローを入れる。
「ここ五年の間に起きたことを、すっかり忘れてしまっているようなのです」
「まあ、なんてこと!」
お母様が口元を手で覆った。その時、「お姉様!」と部屋の入り口から妹の声がする。サブリナも来てくれたんだわ!
だけど、顔中に広がりかけていた笑顔は、一瞬で消え去った。
サブリナだけは、わたしが知っているいつもの彼女ではなかったからだ。
「意識が戻って良かったわ! こんなことなら、無理してお見舞いに行かなくても良かったかしら?」
サブリナも背が伸び、随分と大人っぽくなった。わたしの一つ下だから、彼女はもう二十一歳だ。
でも、わたしが動揺したのはそのせいじゃなかった。
サブリナがわたしに近づく度、キュッキュッと車輪が寄せ木細工の床を滑る音がする。クルクルと回るスポーク。
サブリナは自分の足で歩いていなかった。従者が押す車椅子に乗っていたんだ。
「サブリナ……どうしたの?」
狼狽えながら尋ねた。
「どこかケガしてるの? だから、あなたはお転婆すぎるっていつも注意してるじゃない! どうせ木登りでもして、うっかり足を踏み外したんでしょう?」
「残念、ちょっと違うわね。昨日マラソン大会に出場した時に捻挫したのよ」
サブリナがイタズラっぽく笑う。姉として断言できるけど、これは冗談を言っている時の顔だ。
わたしは妹に詰め寄った。
「サブリナ、隠さないで本当のことを言って! 足をどうしたの!」
「……何なの、お姉様。ちょっと変よ」
サブリナは困惑していたけれど、わたしもわたしですっかり気が動転していた。
記憶の中ではピンピンしていた妹が急にケガを負って目の前に現われたんだもの! 平静でいられるわけないじゃない!
戸惑うサブリナに、フローランさんは義理の両親にしたのと同じ説明を始める。事情を把握すると、サブリナはショックを受けたような顔になった。
「じゃあ、お姉様はなーんにも覚えてないの?」
「なーんにも、ってことはないわよ。十七歳までの記憶ならあるわ。……で、その足はどうしたの?」
「あー……これね」
サブリナは言いにくそうに自分の太ももを撫でた。
「五年前に事故に遭ってね。馬車にひかれたの。それで、こうなっちゃったってわけ」
「五年前!?」
そんなに長い間妹の足が不自由だったと知り、わたしはすっかり打ちのめされてしまう。同時に、彼女の言う「事故」が何なのか分かった気がした。
「もしかして、あの日のこと? わたしが殿下に婚約破棄されて、お父様が逮捕されて、家が差し押さえられて……」
あの時、サブリナは家財を運んでいく馬車を追いかけたんだ。そして、彼女を止めようとしたわたしと道の真ん中で口論になった。
なんてことだろう。二人揃って馬車にひかれたのに、わたしは無事で妹だけ重症を負うなんて! この子、もしかして無事だったわたしを恨んでたりするんじゃないかしら?
「懐かしいわ。婚約破棄とか逮捕とか、そんなこともあったわねえ」
でも、サブリナの表情には憎悪の欠片もなかった。それにしても「懐かしい」って……。わたしにしてみれば、タイムリーな話題なのに!
「それから、お姉様は一つ間違ってるわよ」
サブリナがどうでもよさそうに付け加える。
「『殿下』じゃなくて、『元殿下』だわ」
「……どういうこと?」
何を言われたのか分からずに呆ける。サブリナは呆れ顔だ。
「お姉様、やっぱりなーんにも覚えてないじゃない。自分があの人を廃嫡させたも同然なのに」
……え?
「あの復讐劇は見事だったわよねえ。陥れられて狼狽える彼の顔と言ったら!」
復讐劇? 陥れる?
「こら、サブリナ。人聞きが悪いぞ」
「だってぇ。本当のことじゃない!」
ちょ、ちょっと待って。
「ねえ、一体何の話を……」
フローランさんがわたしの肩を軽く叩く。そして、耳元で囁いた。
「百聞は一見にしかず、だろう?」
わたしは夫を見上げる。彼の口角が、さも愉快そうな半円を描いた。
****
王城の地下にある監獄。フローランさんに付き添われながら、わたしは石造りの階段を下っていた。
聞こえてくるのは二人分の足音と、どこからともなく響いてくる獣じみた呻き声だけ。壁に設置された松明しか光源がないせいで辺りは薄暗く、おまけにひどく湿っぽい。
階段を降りた先には長い廊下があった。そこに鉄格子で区切られた独房が並んでいる。
ここは重罪を犯した身分の高い人たちを収容する施設だった。要するに地下牢である。
フローランさんがその内の一室に案内してくれる。中にいたのは、ベッドに突っ伏す男性だ。
「……マルグリット?」
男性がこちらの存在に気付く。彼はわたしを見るなり、鉄格子に突進した。
「マルグリット、マルグリットぉ!」
「ひぃ!」
情けない悲鳴を上げ、後ずさりする。フローランさんがわたしの肩を抱き、「大丈夫だ」と言った。
「どんなに暴れたってあそこからは出られやしない。君は安全だから安心しろ」
「マルグリットぉ……! 俺が悪かったよぉ! 本当はお前のことを愛してたんだ! だからお願いだ! 俺をここから出してくれぇ!」
この人……本当にわたしの元婚約者?
わたしがフローランさんに連れられてやって来たのは、殿下が閉じ込められている監房だった。
でも、目の前にいる人がわたしと昔婚約を結んでいた王子だとは、どうしても信じられない。
目ばかり大きくて、ひどく痩せた体。長い時間日に当たっていないせいで、肌は不健康なまでに蒼白い。
髪はボサボサでヒゲは伸び放題。ホラー小説に出てくる怪物そっくりな見た目だ。
「マルグリットぉ! マルグリットぉ! 頼む、何でもするから許してくれぇ……!」
元婚約者は鉄格子の隙間から救いを求めるように手を伸ばす。わたしの膝がガクガクと震えだした。
「い、行きましょう、フローランさん」
わたしは夫の返事を待たず、その場を後にする。後ろからは、元婚約者の「マルグリットぉ!」という媚びた声が追ってきていた。
階段を駆け上がり、なんとか外に辿り着いた。思い切り深呼吸する。野外の空気がこんなに美味しいと思ったことはない。わたしだったら、あんな陰気な場所には五分といられないだろう。
「大丈夫か、マルグリット」
フローランさんがわたしを優しく抱きしめる。またキスしてこようとしたから、慌てて彼を押しのけた。
「一体、これはどういうことなんですか?」
わたしの頭はすっかり混乱していた。
「何であの人が監獄に? サブリナは、わたしが彼を陥れたって言ってましたけど……」
つまり、元婚約者を牢屋に放り込んだのはわたしってこと? だから彼はわたしに「許してくれ」って哀れっぽく懇願していたの?
「君の手腕には舌を巻いたよ」
フローランさんはおかしそうに言った。
「計画には僕も一枚噛ませてもらったけどね。でも、ほとんどは君の手柄だ。君が見せた粘り強さと頭の回転の速さといったら! 心底感服して惚れ直したよ。さすがは僕の妻だ、と」
フローランさんはわたしの手を取って指先に口付けた。
「義父上に濡れ衣を着せた当時の副大臣もあの監獄にいる。もちろん、君がそうなるように取り計らったんだ。……会いたいかい?」
わたしは急いで首を横に振った。
これ以上お化けに遭遇したら、夜眠れなくなっちゃうわ! 恐怖小説って後で後悔すると分かっているのについつい読んじゃうけど、本物の怪物と顔を合わせるのはもうごめんよ!




