悪女マルグリットの秘め事(1/1)
「お帰りなさい、義姉様」
ロワイヤル家へ戻ると、玄関ホールでナデジュちゃんが待っていた。
行き先は知らせていなかったけど、ナデジュちゃんはわたしがどこへ行っていたのか知っているようだった。固い表情でこちらを見ている。
「義姉様がこっそり会っていた相手はどんな人だった?」
「人じゃなかったわ。……この子よ」
ラングドシャ卿を差し出す。ナデジュちゃんの声が「へ?」と裏返った。
「……何、この年代物のクマのぬいぐるみは」
「わたしの親友のラングドシャ卿よ」
ラングドシャ卿の腕を動かし、ナデジュちゃんに手を振る。
「初めまして、ナデジュ姫。私はラングドシャ。以後、お見知りおきを。……ほら、ナデジュちゃんも自己紹介してあげて」
「ど、どうも……ってどういうこと!?」
ナデジュちゃんは混乱しているようだった。
「意味分かんないよ! 義姉様、ドルレアン銀行の貸金庫に行ってたんでしょう!? そこで浮気の証拠を掴むって……」
「わたしは浮気なんかしてなかったのよ」
朗らかに笑ってみせる。
「わたしね、あそこへはラングドシャ卿に会いに行っていたの。多分、二十二歳のわたしはクマのぬいぐるみが大好きだなんて恥ずかしくて人に言えなかったのよ。だから、トップシークレット扱いしてたんだと思うわ」
「何それ……」
ナデジュちゃんは呆気にとられた後、緊張が解れたように笑い出した。
「ふっ……あははは。クマのぬいぐるみ? 義姉様が? ふふ……あはははは! そうね。これは隠したくなるかもしれないね!」
もとよりナデジュちゃんは、わたしが浮気をしていただなんて考えるだけでも嫌だったんだろう。明かされた意外な真実をあっさりと信じてしまった。
「他にも金庫の中には色んなものがあったわよ。今度ロワイヤル家に全部移すわ。それで、あの貸金庫は閉めちゃいましょう」
「お客さんに逃げられて、頭取さん、泣いてるよ!」
ナデジュちゃんが軽口で応じる。
「それにしても、義姉様がクマのぬいぐるみだなんて……」
ナデジュちゃんはまだおかしそうな顔をしていた。わたしは「ちょっと預かってて」と言って、ラングドシャ卿をナデジュちゃんに渡す。
『お一人で平気ですか、マルグリット姫』
うん、大丈夫よ、ラングドシャ卿。
心の中でそう返して、わたしはフローランさんの居室へ向かった。
「おはよう、マルグリット」
フローランさんはにこやかに出迎えてくれる。
「朝から出かけていたんだってな。一緒に朝食が取れなくて寂しかったよ」
「ごめんなさい。野暮用があって」
できるだけ何気ない風を装って答えた。
「でも、これからはずっと一緒にいられますよ」
フローランさんに歩み寄り、夫の胸に頬を寄せる。
「ずっと、ずっと一緒です」
「……マルグリット?」
わたしの声の調子が妙だったからなのか、フローランさんが怪訝そうに聞き返した。
「どうした? 何かあったのか?」
「いいえ、何も。……愛しています、フローランさん」
「……僕も君を愛してるよ、マルグリット」
戸惑いながらも、フローランさんが愛を告げる。
彼のこの言葉に嘘はない。今ならはっきりとそう言い切れる。
おバカなわたし。なんて間抜けなの?
こんなに溢れんばかりの愛情をどうして今まで見落としていたのかしら?
でも、自分を叱っても仕方がない。だって二十二歳のわたしは、他人の温かさを信じるだけのゆとりを失っていたんだから。
――アタシ、やっぱり今の義姉様の方がいいな。
――お姉様、やっと戻ってきてくれたのね。
周りの人たちがそう言っていた意味がようやく分かりかけてきた。
二十二歳のわたしは他人に対して冷たく心を閉ざしていた。皆は悪女のマルグリットが嫌だったんじゃない。誰とも打ち解けようとしないわたしを扱いにくいと思っていたんだ。
ナデジュちゃんが言っていた「義姉様がまとう空気が嫌」って、そういうことだったんだろう。
わたしが自分の周りに壁を築いていたのは、自らを守るためだった。
でも、その防壁が逆にわたしを傷付け始めた。夫の言葉に存在しない裏の意味を見出し、この愛情は表面だけのものだと決めつけるようになってしまったせいで。
フローランさんは本心からわたしに深い愛情を抱いてくれていたのに。これ以上ないほどわたしを想ってくれていたのに。
サブリナの言う通りだった。わたしは想像力が豊かすぎる。そのせいで、妄想と現実の区別がつかなくなっていたんだ。
「行きましょう、フローランさん。わたし、お腹が空きました」
夫の腕に自分の手を絡める。フローランさんは目を見張った。
「マルグリット……本当に何もなかったのか? 何だかいつもと違う……いや、いつもと同じか? まるで……」
「まるで、何なのですか?」
夫の言葉を遮った。
「わたしはいつもと同じですよ。今も昔もあなたを愛するフローランさんの奥様です。……ねえ、そうでしょう?」
夫の体にそっと体重を預けた。
「お食事の後はフローランさんのお部屋に行ってもいいですか? 二人だけで過ごしたいんです」
色仕掛けなんて、悪女が取る典型的な行動だわ。
でも、これでいいんだ。
フローランさんは気付きかけている。わたしが記憶を取り戻したことに。
だけど、その「気付き」を確信に変えちゃいけない。哀れな二十二歳のマルグリットのために、わたしは嘘を吐かなければならない。
悲惨な結婚生活。相手を信じられないでいたすれ違いの日々。
失われたわたしの記憶と共に、あの不幸な毎日は存在しなくなった。わたしたちは初めから愛し合う仲の良い夫婦だった。そういうことにしておく方がずっといいでしょう?
「また『素敵なもの』を贈りたいんです」
甘く、とろけるような声で囁く。
「分かったよ、マルグリット」
フローランさんが官能的な笑みを見せた。
やっぱり、色気は二十二歳のマルグリットの最大の武器の一つなだけはある。
悪女のふりだなんて言ったけれど、案外この仮面も肌に馴染んでるのかもしれない。まあ、それも悪いことじゃないだろう。
だってフローランさん曰く、「悪だくみをしている時の君はとても魅力的」だそうだから。




