目覚めたら、婚約破棄の5年後でした(1/1)
何だか体が重い……。
水の底からすくい上げられるように、徐々に意識がはっきりしてくる。真っ先に自覚したのは、全身を包む倦怠感だった。
「う……ん……」
軽く唸りながらモゾモゾと体を動かし、うっすらと目を開ける。その途端に、驚愕の声が聞こえてきた。
「若奥様! 意識が戻られたのですね!」
……若奥様? 誰のこと?
「ああ良かった! 先生、先生ー!」
バタバタと足音が遠ざかっていく。わたしは目だけで辺りの様子をうかがった。
視界に入ってきたのは、見慣れないクリーム色の天井だ。頭に霧がかかったようにまともに物が考えられなかったけど、ここが知らない場所だというのはすぐに分かった。
わたしは何故か、寝心地のいいベッドに横たわっている。あまり広くない、調度類もほとんど置かれていないこざっぱりとした部屋だ。うちの屋敷にこんなところはない。
「若奥様、お加減はいかがですかな?」
ドアが開き、白衣の男性が入室してきた。何となくお医者さんだと直感する。
それにしても、この人も「若奥様」に用があるのね。周囲を観察してみたけど、室内に他に人はいなかった。もしかして、「若奥様」ってわたしのことなの? 「お嬢様」とかなら分かるけど……。
「二日も眠っていたのですよ。皆さん、とても心配していました」
「二日……」
おぼろげだった記憶がゆっくりと形を取り戻していく。わたしは目を見開いた。
そうだ! わたし、馬車にひかれたんだ! しかも、サブリナと一緒に!
「妹は!?」
グラグラする頭を押さえながら医師に尋ねる。
「あの子は無事なんですか!?」
「妹君?」
「わたしと一緒に事故に遭ったんです! どうなんですか!?」
「若奥様……どうやら少々混乱なさっているようですね。若奥様が事故に遭われた時、妹君は傍にいらっしゃいませんでしたよ」
「そんなはずはありません! わたしはあの子と一緒でした!」
わたしが頑として主張するものだから、医師は困り顔になる。
もしかしてあの子、すごく容態が悪いとか……? 寝たきりのサブリナの姿が頭に浮かんでくる。その枕元には、娘の手を握りながら涙に暮れるお母様がいた。
でも、わたしの心配は杞憂に終わる。医師が「大丈夫ですよ」と言ったからだ。
「若奥様は何か勘違いをなさっていらっしゃるようですが……妹君はご無事です。お元気でいらっしゃいますよ」
「そうですか……」
良かった! わたしは二日も意識不明だったらしいけど、サブリナは大したケガもしてないのね!
安堵したわたしは、顔にかかる髪を掻き上げようとした。その拍子に異変に気付く。
この手……わたしのじゃないみたい。
いつものわたしは、巨体に見合ったゴミバケツの蓋みたいにぼってりとした手をしていた。指なんてソーセージそっくりだし、爪も短く切ってあって色気なんか全然ない。
でも、今のわたしの手はそれとは真反対。
薄い甲と、ほっそりとした指。そして、長く伸びて形もしっかり整えられた爪。小生意気にマットな質感の赤いネイルまでしちゃって! こんな色、絶対に似合わないのに!
「若奥様、いかがなさいましたか?」
医師が尋ねてくる。わたしはおかしな胸騒ぎを感じながら、「いいえ……」と首を振った。
「ただ、少しぼんやりしているといいますか……」
「なるほど……。事故に遭った際に頭を打った影響でしょうか。後で検査をしてみましょう。……ご自分のお名前は言えますか?」
「マルグリット・ドゥ・コペルです」
わたしは即答した。すると、医師は妙な顔になる。
「年齢は?」
「十七歳です」
「ここがどこだか分かりますか?」
「いいえ」
その後もいくつかの質問をされたけど、わたしが答えを返す度に、医師はどんどん奇妙な顔になっていく。
な、何? もしかしてわたし、すごく厄介な病気にかかってるとか……?
不安を覚えていると、ノックの音がして部屋に青年が入ってきた。
……え? この人、もしかして……?
……ううん。そんなはずないわね。
一瞬、知り合いかと思ったけど、別人だろうと判断する。だって、わたしの知っている彼より、何歳か年上に見えたから。きっと他人の空似だろう。
でも予想を裏切って、青年はわたしに親しげな笑みを向けた。
「マルグリット、目覚めたんだな」
青年はほっとした顔をしていた。
「先生、彼女の具合はどうなんだ?」
「それが……どうもよろしくありませんな。最近の出来事をすっかり忘れてしまっているようでして」
「忘れてしまった? ……まさか僕のこともか?」
問いかけられ、わたしはおずおずと「いいえ」と返した。
こんな質問をされるのだ。やっぱりこの人は知り合いなんだろう。いつもと雰囲気が違うように感じるのは、事故のせいでまだ頭が上手く回っていないからに違いない。
「フローランさん……。フローラン・ドゥ・ロワイヤルさんですよね?」
「ああ、その通りだ」
フローランさんの緊張が緩む。
「さすがはマルグリットだ。記憶は失っても夫の名前は覚えているとはな」
フローランさんの顔が近づいてくる。唇に柔らかいものが当たる感覚がした。
……?
……まさか……キス?
「な、何するんですか!」
わたしはフローランさんを思いきり突き飛ばした。
「非常識ですよ! あなたはサブリナの婚約者でしょう!?」
いや、正確に言えば「婚約者候補」なんだけど! でも、二人の縁組みはもうほとんど内定してるみたいなものだもの! だったら、「婚約者」って呼んだって構わないわよね!?
「こんなのあの子が知ったらどう思うか! ああ、ごめんなさい、サブリナ……!」
わたしは口元を乱暴に拭う。ファーストキスを奪われたのもショックだったけど、その相手が妹の婚約者だなんてもっと最悪だ。この人は一体何を考えているんだろう。
「マルグリット……本当に何も覚えていないのか?」
「何がですか!?」
フローランさんを睨みつけたけど、彼の困惑した顔を見た途端に、怒りが少ししぼんでしまう。医師も軽く頭を振っていた。
「若旦那様……。若奥様は、どうやらここ五年ほどの記憶をなくされているようなのです」
「そうか……。だから僕を『妹の婚約者』と……」
二人は意味深な視線を交わし合う。フローランさんがわたしに向き直った時、彼の表情は真剣そのものだった。
「マルグリット、忘れてしまったのなら教えておこう。今の君は二十二歳。そして、姓はロワイヤルだ。マルグリット・ドゥ・ロワイヤル。君はロワイヤル家に輿入れしてきた。僕の妻としてな」




