始末はきっちりとつけてみせましょう(2/3)
「……ナデジュちゃん、知ってる? わたし、ドルレアン銀行に貸金庫を持ってるの」
「『382』でしょ」
「ううん、それじゃなくて……え、どうして番号まで知ってるの?」
指摘されると、ナデジュちゃんは「しまった」とでも言いたげな顔になった。
……え? もしかして……。
「ナデジュちゃん、フローランさんの部屋にこっそり入ったの? それでカギを見つけた……?」
まさかナデジュちゃんもスパイごっこをしてたなんて! 姉妹って似るのね! 血は繋がってないけど!
「違うよ。アタシが兄様の部屋を漁るはずがないでしょう!」
ナデジュちゃんは心外そうに頬を膨らます。
「アタシが入ったのは義姉様の部屋だよ! ああ、もう! 前だったら、絶対に口なんか滑らせなかったのに! 義姉様の緊張感のない雰囲気のせいだよ!」
「ご、ごめん。……そんなことより、わたしの部屋を家捜ししたってどういうこと?」
「だって、義姉様は悪い人なんだもの」
ナデジュちゃんは開き直ったようにふんぞり返った。
「だから、いつか兄様のことも切り捨てちゃうかもしれない。そんなことにならないように、アタシは義姉様の身辺を洗ってたの。弱みの一つでも見つけられたら、もし義姉様が兄様に何かしようとしても反撃できるでしょう?」
わたし、そんなに信用がなかったの? 義理の妹にもこんなに嫌われちゃって……。それにしてもナデジュちゃんはしっかり者ね。さすがは名探偵フローランさんの妹だわ。
「それで? 弱みは見つかったの?」
「全然。義姉様って用心深いのね。決定的な証拠は何もなかったよ」
「……じゃあ、決定的じゃない証拠は?」
ナデジュちゃんの声の調子に含みを感じたから、もう少し突っ込んで聞いてみることにした。
「……ないこともないけど」
ナデジュちゃんはしばらく迷った末に白状する。
「でも、今の義姉様は知らなくていいことだよ」
「何で?」
そんな言い方されると、気になるじゃない!
「教えてよ! 目が覚めたら悪女になってて、お気に入りの本も大親友も全部なくなってたわたしに、これ以上悪いことなんて起こるはずがないでしょう?」
「そりゃあ、義姉様には起こらないでしょうね! でも、兄様には起こるの!」
ナデジュちゃんの瞳がギラつく。わたしはぎょっとした。彼女は怒っているのだと気付いたのだ。
「義姉様、浮気してたんだよ! 兄様を裏切ってたの!」
「……う、浮気?」
首を絞められたように、突然息ができなくなる。ナデジュちゃんがわたしを睨みつけた。
「ほら、これで満足した? 義姉様が知りたいって言うから教えてあげたんだよ」
ナデジュちゃんが踵を返す。わたしは足が地面に縫い付けられたように、その場に棒立ちしていた。
「……嘘よ」
もう姿が見えなくなってしまったナデジュちゃんに訴えかける。
「わたし、浮気なんてしてない! わたしはフローランさんを愛しているもの! だから、だから……!」
急に体が動くようになり、わたしは駆け出した。自室のソファーに崩れるように身を横たえる。
「嘘よ、嘘よ……」
クッションに顔を埋め、くぐもった声を出す。
「浮気なんかしてない。してるわけない!」
わたしはフローランさんを愛してるのに!
――永遠にさようなら。
なんて考えた傍から、夫に送った手紙の最後のフレーズが蘇ってくる。
あの手紙は、悲劇のヒロインになりきったわたしが衝動的に書いたものだと思っていた。でも、本当は違ったとしたら?
『永遠にさようなら。わたしは真に愛する人の元へ行きます』
言外の意味は、こうだったんじゃないの?
恐ろしいことに考えが及んでしまい、ぞっとなる。頭が痛み、吐き気がした。
違う、違う、違うわ! わたしは駆け落ちなんか企んでいなかった! 浮気もしてない! 絶対に、絶対に……!
でも……もしかしたら……。
「ごめんなさい、フローランさん。ごめんなさい……」
わたしって最低だ。最低最悪の悪女だ。
よりによって、フローランさんを裏切るだなんて! 二十二歳のわたしはそんなことをしても平然としていられたかもしれないけど、十七歳のわたしはそうはいかない。自分のしでかしたことに深く打ちのめされて、すっかり心が参ってしまう。
「……汚らわしい」
わたしはフローランさん以外の人にも、「素敵なもの」をあげてたんだろうか? 相手の寝顔を見ながら、ベッドの中でニヤニヤしてた? この人こそが運命の相手だ、って感じてたの?
「……わたしのバカ。大っ嫌いよ」
自己嫌悪に押し潰されそうだ。どうして二十二歳のわたしは、十七歳のわたしの嫌がることばかりするんだろう?
――浮気なんて良くないことだからね。
フローランさんはそう言ったけど、わたしも同意見だ。そして、わたしはその「良くないこと」をしていた可能性が高いんだ。
頭が重くてソファーから起き上がれない。何もする気になれない。指一本でさえ動かすのが面倒だ。
ぼんやりと目を閉じて、ただ時が過ぎるのに任せる。不意に、ドアにノックの音がした。
「若奥様、お食事の時間ですよ」
「……いらない」
胸がつかえて、空腹なんて感じなかった。何も食べたくないと思うなんて、昔可愛がっていたペットの犬が死んじゃった時以来だ。
その時から、わたしは生き物を飼わなくなった。代わりに、ぬいぐるみを手元に置くようになったんだ。
気力を振り絞り、体を動かす。机の上のマダム・ミルフィーユを見つめた。
「マダム……助けて……」
掠れた声で訴えかける。
「お願い……」
でも、マダムは何も答えない。ガラスでできた黒い瞳で、こちらを見つめ返してくるだけだ。
「……どうして何も言ってくれないの?」
こんな時、ラングドシャ卿なら何かアドバイスしてくれるのに。わたしを慰めてくれるのに。
……ラングドシャ卿なら?
ううん、違う。
多分、ラングドシャ卿も何も言ってくれなかっただろう。彼らは答えを持っていない。今何をするべきか判断しないといけないのはわたしだ。わたしが何とかしないといけない。自分の犯した罪とどう向き合うのか考えなくちゃならないんだ。
「マルグリット?」
ドアの向こうから呼び声がする。フローランさんだ。
わたしは思わずクッションをきつく握りしめた。
「どうしたんだ? 君が食事をしないなんて。具合でも悪いのか?」
何か答えないといけないのに声が出なかった。フローランさんに合わせる顔もなければ、口に出すべき言葉も見つけられなかった。
「マルグリット、返事をしてくれ。……入るぞ?」
応答がないのを不審に思ったのか、フローランさんが入室してくる。わたしはソファーの上で石像のように固まっているしかなかった。
「どうしたんだ、マルグリット」
わたしの顔を見るなり、フローランさんが眉をひそめた。
「真っ青じゃないか。医者を呼んでこようか?」
「へいき……です……」
フローランさんから目をそらす。とてもじゃないけど、夫を直視なんてできない。
「出て行ってください、フローランさん」
「だが……」
「出て行ってください!」
顔を覆って叫んだ。
「ダメなんです! わたしって最低なんです! フローランさんを傷付けました! だから、だから……!」
「マルグリット、落ち着いてくれ」
フローランさんの手が肩に置かれる。決して乱暴な手つきではなく、まるでガラス細工を扱うような優しい仕草だった。
わたしは思わず顔を上げて夫の方を見た。
こんな時でもフローランさんは礼儀正しかった。もうわたしの「素敵なもの」は受け取ったのに、まだ丁重に接してくれている。
その優しさがわたしの胸を貫いた。涙で視界が歪んでいく。
「ごめんなさい、フローランさん! こんなにあなたのことが大好きなのに、わたし……!」
泣きながら夫の胸に飛び込んだ。フローランさんが背中に手を回し、わたしの頭を撫でる。
「愛してる、マルグリット」
フローランさんがわたしの髪に顔を埋めながら呟く。
「話すのが辛いようなら、何も言わなくていい。夫婦といえども、教えたくないことくらいあるだろう。だが、これだけは覚えておいてくれ。僕はマルグリットを愛してる。二十二歳の君も、十七歳の君も、どちらも僕の大切な人だ」
「……わたしもです」
少なくとも、十七歳のマルグリットはフローランさんを愛している。これだけははっきりと言い切ることができた。
そして、今大事なのは十七歳のわたしの気持ちだ。
フローランさんの元からそっと身を引き剥がす。
「心配かけてごめんなさい。わたし、ナデジュちゃんに会ってきます」
「ナデジュに?」
「食堂にいますか?」
「いや、あの子は……」
「アタシはここだよ、義姉様」
部屋の入り口から声がした。ナデジュちゃんが室内の様子を覗き見するように、首を伸ばしてこちらを見ている。
「君の様子が気になっていたのは、僕だけじゃなかったんだよ」
フローランさんが柔らかな口調で言った。
「こっちへ来てくれ、ナデジュ。義姉様が君に話があるそうだ」
「分かった。……でも、アタシの部屋で聞くことにするね。義姉様も、そっちの方がいいでしょう?」
ナデジュちゃんの質問に、黙って首を縦に振る。フローランさんの手を一度だけ握って、わたしは義妹の後に続いて彼女の居室に向かった。




