若奥様のスパイ大作戦(1/1)
……やっちゃったわ。
隣に横たわるフローランさんを見ながら、ニヤニヤが止まらなかった。
ついにやっちゃった。わたし、フローランさんと本当の意味で夫婦になっちゃったんだわ!
あんなに情熱的で愛に満ちた一時がこの世にあるなんて……! 何で今までフローランさんを拒絶してたんだろう! こんなことなら、もっと早く「素敵なもの」をあげれば良かったわ!
……ううん。そんなことはないかしら。こういうのって、信頼関係や愛があってこそだものね。
目が覚めたら、五年の月日が流れていた。それなのに、わたしの中身は十七歳のまま。
だけど、フローランさんはそんなわたしを受け入れてくれた。中身は不器量で冴えない少女でも、わたしを愛していると言ってくれたんだ。
そんな彼だから、夫婦になってもいいと思ったのだ。
二十二歳のわたしは皆から恐れられている悪女。でも、悪いことばかりじゃない。温かい家庭というかけがえのないものを、こうしてちゃんと持っている。
そのことが分かればもう充分だ。夫との間に完璧な愛情も取り戻せた。だったら、頑張って記憶を取り戻そうとしなくてもいいはずだ。
わたしの大事なものは失われた思い出の中じゃなくて、今ここにあるんだから。
湯浴みをしようとフローランさんに背を向け、ベッドから這い出そうとする。
その時、腕を掴まれた。
「……行かないでくれ」
フローランさんにベッドに引き戻されて、後ろから抱きしめられた。いつの間に起きたんだろう? 背中に夫の裸の胸が触れる。
わたしの髪にフローランさんが顔を埋めた。触り心地がいいのかしら? 何とかアドバイザーさんのお陰ね。これからもフローランさんに喜んでもらいたいし、彼女たちをもう一回雇い直すことも考えておかないと。
「ここにいてくれ、マルグリット」
「お風呂に入るだけですよ。それに、服も着ないと……」
「湯なら後で使用人に持って来させる。服も僕が着せてやる。だから、どこへも行くな。そう何度も置いていかないでくれ」
フローランさんの口調は、寝起き特有の虚ろなものだった。多分、まだ頭が上手く回っていなくて、何を言っているのか自分でも分かっていないんだろう。
「君が僕をどう思っていようと、僕は君を愛してるんだ、マルグリット……」
フローランさんは黙り込み、やがて寝息が聞こえてきた。腕の縛めが緩み、わたしはそろそろとベッドから抜け出す。
寝台の下に散らばっていた服を着込みながら、妙な気分になっていた。
何度も置いていかないでくれ、ってどういうこと?
わたしがフローランさんをどこか遠くに置き去りにしたことが過去にあったの? そんなまさか!
でも、何だかモヤモヤする。
――君が僕をどう思っていようと、僕は君を愛してるんだ。
そんな言い方、まるでわたしがフローランさんを好きじゃなかったみたいじゃない! そんなわけないのに! わたし、絶対にフローランさんが好きだったのに!
自分のことだからちゃんと分かるわ! 十七歳のわたしだけじゃなくて、二十二歳のわたしも、絶対にフローランさんを愛していたのよ!
フローランさん、多分何か勘違いをしてるのね。
……でも、それって逆に言えば、勘違いをしても仕方がないような出来事があったってことかしら?
……うーん?
ノロノロと風呂場へ向かう。今度は誰の手も借りずに熱い湯に浸かりながら、わたしは浴室の大理石の天井を仰いだ。
「……気になるわ」
失われた歳月なんてもう気にしないと思った矢先のことだけど、どうにも引っかかるものがある。
「誰であろうが、真実から逃れることは決してできないのよ!」
お気に入りの推理小説に出てくる探偵になりきってみる。誰も真実からは逃れられない。もちろん、わたしも。
「……これは名探偵が必要になってくるわね」
依頼人:わたし
依頼内容:わたしたちの結婚生活に、何か大きな事件はなかったの?
ああ、どうか怖いことじゃありませんように! わたしが絞め殺したロワイヤル家の敵が床下に埋まってるとか発覚しませんように!
「でも……自首すれば、ちょっとは罪が軽くなるわよね……?」
一生牢獄暮らしは嫌よ! 元婚約者の隣の独房で静かに朽ち果てるのを待つだけなんて、考えただけでぞっとするわ!
だけどそんな秘密だったら、忘れたままの方が余計にマズイわよね……。
……よし、お風呂から出たら、フローランさんに話を聞いてみよう。
依頼人:わたし
探偵:フローランさん
依頼内容:わたしたちの結婚生活に、何か大きな事件はなかったの?
こんな感じでいくわ! だってフローランさん、名探偵だもの! あの推理小説『バラ園の怪』の犯人も動機も、彼の推理通りだったんだから!
……いや、自殺なんだから「犯人」って表現はおかしいのかもしれないけど。
お風呂から上がり、髪も生乾きのままで先ほど退室したばかりの夫の私室へ向かう。
でも、フローランさんは留守だった。食堂に行ったらしい。
さっき朝ご飯食べたばかりなのに! と思ったけど、もうお昼だった。わたしたち、そんなに長い間寝室にいたのかしら?
「やあ、マルグリット」
食堂に顔を出すと、笑顔のフローランさんが食事をしているところだった。艶っぽい表情だ。紅茶色の髪が肩にかかっているのも何とも言えず艶めかしい。
この髪型……わたしがさっきベッドの中で、フローランさんの髪を結んでいたリボンを解いちゃった時のままだわ。ああ……思い出したら、もう一回「素敵なもの」をあげたくなってきちゃった!
……なんてはしたないことを考えてる場合じゃないわよ、マルグリット。今のわたしが追い求めないといけないのは、夫との蜜月じゃなくて真実なんだから。
「フローランさん、わたしたちの夫婦生活ってどうでしたか? ……仲良かったんですか?」
「もちろん。前にも言っただろう?」
フローランさんは何食わぬ顔でガレットをフォークに突き刺す。
その表情からは、彼が嘘を吐いているのかどうかは読み取れなかった。食えない人!
「じゃあ、わたしたちの仲を裂くような事件とかはなかったんですか?」
白パンを頬張りながら尋ねる。今さらながらに、ひどく空腹だと気付いた。「素敵なもの」を贈るとお腹が空くのね!
「何もないよ」
フローランさんは平然としている。余裕のある顔だ。これはあれね! わたしのあげた「素敵なもの」が彼の心を満たして、悪い思い出を頭から追い払っちゃったんだわ!
もしくは、事件はあったけどわたしには教えたくないと思っているとか。その場合、こっちが固執するだけフローランさんは警戒心を強くして、余計に口が硬くなってしまうだろう。
……わたし、交渉人には向かないわね。
小説だと、中々自白しない犯人に対して警官が「お前のお袋さんも悲しんでいるぞ!」って言って口を割らせたりするんだけど、フローランさんの「お袋さん」は、義理とはいえわたしの「お袋さん」でもあるし……。
こうなったら、作戦その二に変更よ! どんなプランかは、今から考えないといけないけど!
でも、今日のわたしは珍しく冴えていた。昼食後すぐ、フローランさんがちょっとした用事を片付けるために外出することになったのだ。その話を聞いた途端に、素晴らしい案を思い付いたのである。
「二、三時間で戻るよ」
フローランさんがわたしの唇にキスをする。
「行ってきます」
「お気をつけて」
いかにも夫婦って感じのやり取りに気分を高揚させながらも、わたしは作戦その二を実行に移すことにした。
名付けて、『若奥様のスパイ大作戦』。
その名の通り、今回のわたしは諜報員! 与えられたミッションは、夫の部屋からこれまでのわたしに関する記録を盗み出すこと!
家捜しは気が咎めるけど、これも真実のためよ! 上手く言えないけど、感じるの。わたしは何か大切なことを忘れてるんだ、って。
だから、これは決して好奇心だけに突き動かされての行為じゃない。もっと切実な……義務感とでもいうべき何かが、わたしの背中を押していたんだ。
部屋に戻り、白いタキシードを着て蝶ネクタイを締める。やっぱりスパイといえばこの格好よね!
「ミッション開始よ!」
気合いを入れ、気配を消しながら廊下を進む。難なくフローランさんの部屋まで辿り着いた。
ふふん、上出来! さて、早速入室を……ってカギがかかってるわ!
でも、一流のスパイはどんな時も冷静沈着でいるものだ。こんな時どうすればいいのか、本にはちゃんと書いてあった。
わたしは頭からヘアピンを抜き取り、カギ穴に差し込む。しばらくカチャカチャやってみた。
よし、これで開いたはず! ……あれ、おかしいわね。よし、もう一回!
……ダメだわ! 開かない! どうしましょう! 扉を開けるのに何時間もかけてたら、あっという間にフローランさんの帰宅時間になっちゃうわ!
「……若奥様?」
背後から呼びかけられ、わたしは奇声を上げて飛び上がった。
対立組織の殺し屋が来たんだわ! わたしを消そうとしているのね!
「どうかなさいました?」
でも、そこにいたのは普通の使用人だった。ああ、良かった。命拾いしたわ。
使用人はこちらの格好をしげしげと眺めている。わたしは大急ぎで言い訳を考えた。スパイたるもの、口も達者でないと!
「フローランさんが忘れ物をしたらしいの。だから、届けてあげようと思って」
「ああ、そうでしたか。今、マスターキーをお持ちしますね」
使用人はわたしの嘘をあっさりと信じた。やっぱり、口が上手くないとスパイは務まらないのね!
使用人から借りたマスターキーで、無事に入室完了! さて、ここからが肝心よ!
大事なものを隠すなら……やっぱり金庫よね。この部屋にもあるし。
でも、わたしはスパイであって金庫破りじゃない。まずはその辺の棚とか机とかから取りかかりましょう。
フローランさんの部屋にはオーク材の大きな事務机がある。そういえば、彼はここの引き出しからドルレアン銀行のカギを取り出したんだっけ。
もしかしたら、わたしに関する別の情報もここにあるのかも。確証はないけど、そんな勘が働く。貸金庫のカギが入っていた引き出しを開けた。
カギの他にあったのは、封筒に入った一通の手紙だ。当たり前だろうけど、フローランさん宛。差出人は……。
「わたし……?」
名前の横に日付が書いてある。わたしの意識が戻る二日前のものだ。
「……事故に遭った日じゃない」
ただ事ではない予感がして、手のひらが汗ばんでくるのを感じる。封筒の中から手紙を引き抜いた。




