素敵なものをあげるわ(1/1)
ドルレアン銀行での衝撃以来、わたしは少しずつマルグリット・ドゥ・コペルだった頃の自分に戻りつつあった。
まずは、数え切れないほどいた何とかアドバイザーさんたちを解任して、お手入れの時間をぐっと少なくした。
次に、衣裳部屋のラインナップの一新。スケスケのドレスはやめて、もっと落ち着いた、無難なものを取りそろえる。
食事の量も増やしてもらったけど、これは今に始まったことじゃないか。
目指すは、十七歳当時のだらしなかった自分。でも、そんな方針転換に不満を抱いている人もいるようだった。
「義姉様、何なの、そのたるんだ格好は!」
食堂で本を読みながら朝食を食べていると、いつの間にか入室してきたナデジュちゃんから苦情が飛ぶ。
「寝癖だらけの髪! 簡素なドレス! 顔も洗ってないんじゃない?」
ナデジュちゃんは腰に手を当てた。
「そんなの、人前に出ていい姿じゃないよ!」
「出ないわよ。パーティーの招待は基本的にお断りしてるし」
「そういう問題じゃないの! そんなだらけた姿で兄様の前に出ちゃダメってこと!」
「でも、フローランさんは何にも言わないけど……」
わたしのだらしなさを、フローランさんは一度も咎めたことはなかった。むしろ、「気楽に振る舞えばいいよ」と言ってくれるのである。
「兄様は義姉様に甘いからそう言うんだよ! でも、奥さんがそんな自堕落じゃ、兄様がかわいそうじゃない!」
ナデジュちゃんはすっかり憤っている。怒られているというのに、わたしは思わず表情を緩めた。
「ナデジュちゃん、本当にフローランさんが好きなのね」
「当たり前でしょう。血が繋がった実の兄なんだから」
ナデジュちゃんがテーブルに着く。
「父様も母様も昔からとっても忙しくて、あんまり家にいないんだ。だからアタシ、両親よりも兄様と過ごす時間の方が多かったの」
言われてみれば、わたしの意識が戻った日以来、お義父様やお義母様と会ってないかも。
二人は宰相と上級文官だから、仕事が立て込んでるのも不思議じゃないわね。きっと朝は日の出前に家を出て、夜は日付が変わるくらいの時間帯に帰宅するんだろう。
わたしの実父も宮内大臣だけど、結構忙しそうだったもの。「もっと家に帰って来られればいいのに」って、わたしもよく思っていたし、ナデジュちゃんが両親の不在にどんな思いを抱いていたかは、簡単に想像できる。
そんな状況に置かれていたなら、いつも一緒にいてくれるお兄様に強い愛着を抱くのは自然な流れだわ。
「アタシ、どっちかっていうと今の義姉様の方が好きだよ。だけど、限度ってものがあるでしょう!」
「ナデジュちゃん、前にも言ってたわね。今のわたしの方がいいって」
食べ終えた朝食の皿を遠くに押しやる。
「気持ちは分かるわ。昔のわたしはとんでもない悪女だったのよね。そういう人は、好きになれなくても仕方ないわ」
けれど、ナデジュちゃんが返したのは予想外の答えだった。
「別に義姉様が悪事を働こうが、アタシ、そんなことは気にしないよ」
ナデジュちゃんは緩くかぶりを振った。
「アタシが嫌だったのは……義姉様がまとっていた空気だね。ナイフみたいに鋭くて張りつめていて……。近づくだけで人を傷付けそうな空気だよ」
「えー? わたし、そんな風だったの?」
間の抜けた声が出てしまう。悪女になっただけじゃなくて、オーラまで変わっちゃってたってこと?
「何で兄様がこんな人を愛してるのか全然分からなかった。まあ、その件でとやかく口を挟んだことはなかったけどね。仮にも兄様が見込んだ人だもん。あんまり義姉様を悪く言うと、兄様の判断を疑っちゃうことになるから」
「そうなんだ……」
美貌の悪女。ツンツンしていて冷たい貴婦人。鼻持ちならない傲慢さを持つ嫌な女。
なんだか、冒険小説に出てくる敵の女幹部みたいだわ。
「だけど、一つくらいはいいところもあったんじゃない? じゃなかったら、フローランさんもメロメロにならないでしょう?」
自分で言っておいて恥ずかしくなってきた。でも、フローランさんがわたしをすごく好きなのは本当だもの!
「アタシには分かんないよ」
ナデジュちゃんは難しい顔になる。
「でも……何となくだけど、兄様も今の義姉様の方が好きな気がする」
「え? 前から仲は良かったんでしょう?」
「そうなんだけどねえ……」
何だか歯切れが悪いわ。ナデジュちゃん、ひょっとして何か隠してる?
その時、食堂にフローランさんが入ってきた。ナデジュちゃんはハッとしたような顔になり、まだ食事の途中だったにもかかわらず「ごちそうさま!」と言って席を立つ。
気まずそうなその様子に、わたしは不審を抱かずにはいられない。まるで、今の話を兄には聞かれたくなかったような態度だ。
「おはよう、マルグリット。……ここ、ついてるぞ」
フローランさんがナプキンでわたしの口の周りのパンくずを払う。そして、穏やかに笑った。
愛がこもった眼差し。やっぱりフローランさんはわたしが好きなんだ。
彼の心の内にある愛情は、わたしが目覚めてからの短期間で作られたとはとても思えない。
フローランさんは前からわたしを好いていた。そんな風に考えるのが自然な気がした。
「フローランさんは、いつからわたしを愛してくださっているんですか?」
「何年も前からだよ」
「……わたしの妹との婚約が決まりかけていた時から?」
思い切った質問をしてみる。ここでフローランさんが「そうだ」と言ったら、これから先、わたしはサブリナにどんな顔をして会えばいいんだろう? ああ! 魅力的って罪だわ!
と心配してみたものの、運良くわたしは罪人にならずに済んだ。
「いや。正直に言って、当時は君のことはそこまで気にかけていなかった。将来の義理の姉くらいにしか思っていなかったな」
……あ、そうなの。
それもそうか。だって、当時のわたしは不器量なぽっちゃり娘だったもの。フローランさんの食指が動かなくてもおかしくはない。
「僕が君を愛するようになったのは、君の気概に感化されたからだよ。君は元婚約者の非道な振る舞いを許しはしなかった。そして、彼に報いを受けさせようと固く心に決めていたんだ」
「でも、わたし一人で復讐を完遂したわけじゃないんですよね?」
「ああ、他にも協力者はいたよ。僕はもちろんのこと、廷臣から庭師に至るまで顔ぶれも様々だ。中には、横暴な息子に手を焼いていた国王陛下がこっそりと力を貸してくれたと推測する者もいる。まあ、真相は君しか知らないだろうが」
うわあ。わたしの人脈、一体どうなってるの?
「だけど、どれだけ賛同者が増えても、計画の中心人物がマルグリットだったことは変わらない。君は自分の手で元婚約者をやり込めると誓っていたからね」
「どうしてフローランさんはわたしを手伝ってくれる気になったんですか? だって、お父様が宰相なのに。王子を陥れる計画に関与したら、家族が不利益を被るとは思わなかったんですか?」
「そんなのは気にしてなかった。ロワイヤル家もあの時は危機に陥っていたから。当時の宮内副大臣が……君の父親を嵌めた黒幕が欲を出したんだ。奴は自分の息のかかった者を新たに宰相に任じて、宮廷内での地位を盤石なものにしようとしたんだよ」
「っていうことはもしかして……」
「ロワイヤル家にもコペル家と同じことが起きた。父は宰相を解任。屋敷は差し押さえられて、領地に帰ることを余儀なくされた。もちろん、その処罰を決定したのが君の元婚約者だったことは言うまでもない」
そんな事情があったのね。フローランさんも苦労したんだわ。
「多くのものを失って、僕は途方に暮れていた。もうお先真っ暗だと思ったよ。そこにマルグリットが現われたんだ。『まだ諦めるのは早いわ。わたしに着いてきなさい』と言う姿は本当に勇ましかった。僕はあっという間に君に惹かれていったよ。運良く君も僕を愛してくれてね。それで、二人はめでたく結ばれたんだ」
「運なんかじゃありませんよ」
わたしはとっさに反論する。
「フローランさんはとても素敵な人だから……四年前のわたしが好きになるのは必然です」
「素敵? 本当に?」
「ええ。何だかフローランさんといると温かな気持ちになるんです。今だけじゃなくて、きっと、あなたと結婚してからずっとそうでした。記憶はないけど何となく分かるんです」
「マルグリット……」
フローランさんの目が情熱的に潤む。急に体が火照ってきた。どうしよう! ちょっと大胆なこと言いすぎたかしら!?
「わたしとフローランさんが結婚するまでには、何の障害もなかったんですか?」
恥ずかしさを誤魔化すように、わたしはミルクの入ったグラスを傾けた。
「だってフローランさんはサブリナと婚約するはずだったのに」
もしかしてわたし、サブリナに「この泥棒猫!」って言われて引っかかれたことがあったりして!? 壮絶な姉妹喧嘩! 一人の男性を巡って二人は争い、ついに一族を二分する派閥争いに……!
「もうその頃には、僕とサブリナの婚約は取りやめになっていたよ」
わたしの妄想は、フローランさんの冷静な声で断ち切られる。
「色々あっただろう? 君の父上の投獄とか、サブリナの事故だとか。コペル家は混乱の真っ只中だった。僕との婚約どころじゃなくなっていたんだよ」
じゃあ、わたしたちが結婚しても、何の禍根もなかったわけね。
ちゃんと祝福された縁組みだと分かり安堵する。悪女のわたしは誰かを踏み台にしても傷付かないんだろうけど、十七歳のわたしは他人の幸せを犠牲にして平然としていられるような性格じゃないもの。
「十七歳の君をきちんと知れたのが今で良かった」
フローランさんがわたしの手を握る。
「もし五年前の僕が今の君に抱いているのと同じ気持ちを持ったとしたら、大変なことになってしまう。浮気なんて良くないことだからね」
フローランさんがわたしの頬に口付けた。
頭がぼんやりする。熱に浮かされたように、わたしは陶然とフローランさんを見つめた。
体の奥に甘い疼きが走る。
……何、この感覚。
分からない。十七歳のわたしはこんな気持ちを知らない。これが理解できるのは、二十二歳のマルグリットだけだ。
でも……推測することくらいなら可能かもしれない。
朝食を終えた後、わたしは自室に戻った。解雇した何とかアドバイザーさんたちを急遽呼び戻して、入浴の介添えを頼み、肌や髪のお手入れを任せる。
そして、ばっちりお化粧していいドレスを身につけ、フローランさんの部屋に向かった。
全身を丹念に磨き上げた妻の姿に、ドアを開けたフローランさんはちょっと驚いたような顔になる。
「どうしたんだ、マルグリット。今からどこかに出かけるのか?」
フローランさんが中に通してくれた。彼が踵を返し後ろを向いた瞬間、わたしは夫の背に抱きつく。
「あ、あの……フローランさん、わたし……!」
こういう時って何て言えばいいの!? 頭が真っ白になりかける中、浮かんできたのはマダムに入れ知恵してもらったセリフだった。
「フ、フローランさん♡ 素敵なものをあげるわ♡」
……いいのよね!? これでいいのよね!? わたしの意図、伝わってるわよね!?
「……その『素敵なもの』というのが何なのか、聞いておく方がいいか?」
「できれば聞かない方向でお願いしたいです……!」
プレゼントはわたしよ♡ なんて言えないわ!
「……分かった」
しばらくの間を置いて、フローランさんが静かに言う。
「隣の部屋へ」
フローランさんの背中にくっついたまま、ぎこちなく歩く。
うう……! こういう時って抱き上げてもらうとか、もっとロマンチックに移動するんじゃないの!? 恋愛小説の女性主人公は皆そうだったわよ!
続きの間にはベッドが置いてあった。わたしはフローランさんの服をぎゅっと握りしめる。
「わざわざ寝室へ来なくても、部屋にベッド、あるじゃないですか」
「ないとは言ってないだろう」
フローランさんはのらりくらりと追及をかわした。
「君は何かと忙しい身の上だったんだ。一晩中家を空けていることもたまにあった。そんな時、二人用の広すぎる寝台で独り寝をする気にはなれなかったんだよ。寂しいからね」
フローランさんがわたしをベッドに座らせた。
「……マルグリット、やっぱり君の言う『素敵なもの』が何なのか聞いておいた方がいいと思う。もし思い違いをしていたら、僕はこれからすごく恥ずかしい思いをするだろうから」
「聞かなくて大丈夫です! フローランさんの想像で多分合ってますから! むしろ、間違ってたらわたしの方が恥ずかしいですよ!」
わたしは正面からフローランさんを抱きしめた。
「……わたしの『素敵なもの』、受け取ってくれますか?」
心臓が体から出てしまいそうなほど激しく鼓動している。一生分の度胸を使い切ったわ! もうこれ以上は無理! お願い、フローランさん! なんかこう……いい感じに事を運んで!
「……じゃあ、そのお返しに、僕は君を恋愛小説の主人公にしてみせよう」
フローランさんの腕がわたしの背中に回される。夫の優しいキスを、わたしは唇で受け止めた。




