もうとっくに二度目の恋に落ちてる、ですって!?(1/1)
その日の夜。わたしはベッドの中で、買ってきた小説『バラ園の怪』に没頭していた。
……ああ、やっぱり読書って最高だわ!
目が文字を追いかける度、物語の世界に没入し、登場人物と自分が一体化していくような錯覚に陥る。今日のわたしは、殺人事件の解決を任された名探偵! 警察が見落としていた証拠を現場から次々と発見して、華麗に犯人を追い詰めるの!
――誰であろうが、真実から逃れることは決してできないのよ!
特にこの決めゼリフ、最高だわ! わたしもどこかで使ってみたい!
「はあ……。面白かった……」
まだ半分くらいしか読んでいないけど、本を閉じる。続きは明日! それまでに、殺人犯が誰なのか妄想を膨らませておかないと!
「僕は依頼人の叔母が怪しいと思う」
隣から声がしてぎょっとなる。本に夢中でフローランさんの存在をすっかり忘れてたわ!
添い寝係はわたしの長い髪を指に巻き付けて遊んでいる。その傍ら、本の内容を盗み見していたらしい。
「叔母様が犯人? まさか!」
わたしは目を瞬かせる。
「だって、死んだのは彼女の旦那様なんですよ。自分の夫を殺そうとしますか?」
「だが、二人の夫婦生活は上手くいっていなかったんだろう?」
「うーん……。でも、彼女にはアリバイがありますし……」
「では、殺人犯はいないのかもな。被害者は殺されたんじゃない。自殺したんだ」
自殺? フローランさんって、突拍子もないことを考えるのね!
「君はどう思うんだ?」
「ええと……そうですね……」
容疑者は何人かいるけど、叔母様みたいに皆犯行時にはアリバイがある。でも、フローランさんの言うように、「犯人がいない」って結論付けちゃってもいいのかしら?
「……地底人」
しばらく考えた末、わたしの灰色の脳細胞は天才的な推理を成し遂げた。
「犯人は地底人です!」
「地底人? そんな登場人物いたか?」
「いませんよ。だけどこういうミステリー小説って、犯人が意外なほど面白いじゃないですか! だったら地底人の仕業だってこともあり得ると思います!」
「ふむ……」
「死体は温室で発見されましたよね? 実はこの温室には、地下帝国に通じる穴があったんです。被害者はその穴を偶然見つけ、空想の存在だと思われていた地底人と遭遇。そして、口封じのために殺されてしまったんです!」
わたしの脳内でどんどんお話が紡がれてゆく。地下に通じる穴を発見した主人公の探偵。始まってしまった悪の帝国との戦い。息も吐かせぬ速度で語られる、血湧き肉躍るエピソードの数々! 波瀾万丈の戦記物語の始まりだわ!
……と妄想しかけてハッとなる。これは推理小説。万が一地下帝国があったとしても、そんな戦争は起こらないに決まっている。
「す、すみません、フローランさん」
わたしは本をナイトテーブルの上に置いた。夫を置いてけぼりにして、ありもしない冒険に夢中になっていたことに申し訳なさを覚える。
「わたし、たまにこういうことをやっちゃうんです。目の前の現実よりも、頭の中で繰り広げられる空想の方に気を取られてしまうというか……」
「君は想像力が豊かなんだな」
フローランさんが私の髪を撫でた。
「地底人の話、良ければもう少し聞かせてくれないか?」
「え……も、もちろん喜んで!」
まさかの言葉に、つい浮かれてしまう。
わたしの現実味のない妄想に興味を持たれたのは初めてだ。先ほど即興で作り上げた地底人との戦いの記録をペラペラと話す。
「面白い発想だな」
主人公がついに悪の地底大魔王の首を取ったところを語り終えると、フローランさんは感心したように頷いた。
「すごくワクワクしたよ、マルグリット。特に、大魔王が主人公の父親だったと判明した場面なんか最高だった。こんな話を考え付くなんて、やっぱり君はとても頭がいいんだな」
「あ、ありがとうございます!」
話を聞いてくれただけじゃなくて、まさか好意的な感想のプレゼントまであるなんて! フローランさんは素晴らしい聞き手だわ!
「フローランさんのお話も聞かせてください!」
はしゃぎながら尋ねる。目がキラキラしている自覚があった。他人の妄想なんて、滅多に聞かせてもらえないんだもの! これはチャンスだわ!
「フローランさんは、殺人犯はいなくて、被害者は自殺したんだと思ったんですよね? どうしてですか?」
「僕の想像なんて、君の話に比べたらすごくつまらないよ」
フローランさんは困ったように言った。
「被害者は温室の中の、バラの花壇で亡くなっていたんだろう? 元々植わっていたバラの数は千本。だが、その内の一本は何者かの手によって抜き取られていた」
ああ、そういえば、庭師がそんなことを話しているシーンがあったわね。
「九百九十九本のバラの花言葉は、『何度生まれ変わってもあなたを愛します』だ。被害者は妻との仲に亀裂を生じさせていた。だが、本当は彼女を愛していたのではないだろうか? だから、この不仲を死をもって終わらせ、来世で愛に満ちた関係を結ぶことを期待したんじゃないかと思ったんだ」
フローランさんが腕組みした。
「ほら、つまらない想像だろう? 最初に叔母が犯人だと言ったのは、『何度生まれ変わってもあなたを愛します』が憎い夫への皮肉だと思ったからだ」
フローランさん……。
「あなた、天才ですか?」
これ、絶対に自殺だわ。この物語には犯人なんかいない。もちろん、地底人も。
「半分しか読んでないのに、何でそこまで分かっちゃうんです? わたしの話はただの妄言でしかないけど、フローランさんのは立派な推理ですよ!」
「いや、僕はマルグリットの想像の方が好きだ。僕の推測は現実的すぎて楽しくない。でも、君の話はとても面白かったから」
フローランさんは謙虚に首を振った。
「それに、こんなのは推理でも何でもないよ。ただ経験から推し量っただけのことだ」
「フローランさん、殺人事件に巻き込まれたことがあるんですか!?」
「いや、そうじゃなくて……」
フローランさんは枕の上に頭を乗せた。
「大切な人と仲良くなれないのは悲しい、ということだ」
フローランさんが虫眼鏡片手に未解決事件を捜査している光景を妄想していたわたしはハッとなった。
彼は真っ直ぐにこちらを見つめている。
フローランさんは前に、わたしの記憶が戻らなくても気にしない、みたいなことを言っていたけど、本心では違うのかしら?
……そうよね。深く愛し合っていた妻が、急にキスもしてくれない純真な十七歳の乙女になっちゃったんだもの。心のどこかでは、寂しいって思っててもおかしくはないわ。
「わたしは……フローランさんのこと、好きですよ」
言ってしまった後で、頬が熱くなってくる。
「あ、あのですね。そういう意味じゃなくて……ええと……とにかく、仲良くしたくないだなんて思ってないってことです!」
上手い言葉が見つからない。わたしは布団を頭から被り、「おやすみなさい!」と言った。
マダム・ミルフィーユをぎゅっと抱きしめる。
『あなた、フローランのこと、「そういう意味」で好きなんでしょう?』
マダムがわたしの心の内を見透かしたように言った。
『もうとっくに二度目の恋に落ちてるの。認めなさいよ、マルグリット』
……認めたら、どうなるの?
『まあ、このままの関係ではいられなくなるわね。フローランには添い寝係を卒業してもらわないと。まずは、抱きしめてキスをねだりなさい。それで、「フローランさん♡ 素敵なものをあげるわ♡」って言って、そんなネグリジェ、脱いじゃうことね』
な、ななななな何てことを言うの! はしたない! そんなの、結婚前の淑女がやることじゃないわ!
『あなたは人妻よ』
マダムが呆れたようにツッコむ。
それはそうだけど……。……でも無理! わたしにそんな破廉恥なことをする度胸があると思ってるの!?
隣から衣擦れの音がする。フローランさんも本格的に寝ようとしているようだ。
「おやすみ、マルグリット」
フローランさんが囁いた。
……どうしよう。ネグリジェ、脱いだ方がいいのかしら……?
……やっぱりダメ! そんなことできないわ!
その代わりモゾモゾと体を動かして、心持ちフローランさんの方に近づいた。
十七歳のわたしでは、これが精一杯だ。
左手に嵌めた結婚指輪に口付ける。これもフローランさんへのキスの代わり。この固い感触が、いつか夫の柔らかな唇に変わる日は来るのかしら?
『牛の歩みねえ』
でも、進まないよりはいいでしょう?
明日のわたしは、もう少し大胆になっているかもしれない。せめてフローランさんを抱きしめるくらいなら、できるようになっているかもしれないんだから。
あり得ない話じゃないはずよね? だって、わたしは冴えないマシュマロ令嬢から、ピカピカの美しい若奥様に変身できたんだもの。
その時の経験を今活かすの! ……あいにくと、何にも覚えてないけど。
そんなことを考えている内に夫との親密な触れ合いがないまま、今日という日は終わっていった。




