49 はじめてのかいもの
西日が色を変え始め、街並みも鮮やかな色合いに染まってゆく。
街の西側にそびえるドルー城は、夕陽を背景に、なおも黒煙をあちこちから上げ続けていた。
ただ、叫ぶ声はほとんど聞こえなくなっている。
「収まってきたようだな」
「入りこんだ悪い人たち、退治されていればいいんですけど……」
領境の城と違い、雑兵を集め編成し訓練して送り出す中継地点の城、精鋭が置かれているわけではない。
しかしカルナリアの見たところ、騎士だけでも十数人はいたし、その従士や徴集されてきた農民兵士、傭兵など、戦える者は一千人以上いるはずだ。
騎士団長もなかなかの武の才の持ち主だった。
数は力だ。たった七人でどうこうできるはずもない……とカルナリアは信じたかった。
城に背を向け、フィンとカルナリアは通りを東へ、広場の方へ戻っていく。
「他の宿を探すんですか?」
「いや、この辺りは、もうだめだ」
「安い宿は、気持ちよく休めないからですか?」
「顔を見せたからな。一番高い宿に泊まろうとした、ひとり旅の美女。話がすぐ広まり、めんどくさい連中が押しかけてくるのが目に見えている」
フィンは、通常形態に戻っていた。
顔は完全に隠し、地べたすれすれまでぼろ布を垂らした円錐形が、滑るように移動してゆく。
よそからは、奴隷の女の子がひとりで歩いているようにしか見えないだろう。
「あの貴族の娘も、落ちついたら、私の方が自分よりずっと美しかったと宿の者たちが言っていたことに腹を立てて、嫌がらせをしようとしてくるだろう。馬泥棒だと衛兵をけしかけてくる、とかな。とにかくめんどくさい。だからこの辺りからは離れる。船宿というのがあるというなら、そちらを探してみよう」
「……わかりました」
カルナリアは、王宮では知ることのなかった人間の悪意や鬱陶しさを少しばかり学習した。
「女がひとりで旅をしていても襲われない国、というのはどこかにないものかなあ。そういうところがあれば、そこにずっと住んで、守るために全力で戦うのに。他の時間はのんびりして」
「………………」
カルナリアの中で何かが芽生えた。
どういうものかは自覚できなかったが。
――衛兵が辻という辻に立ち、わずかな人々だけが行き交う状態になった街の中心部、がらんとした広場に戻ってきた。
エラルモ河を行き来する船に乗るには、北へ、つまり左へ曲がるべき。
だがフィンはふらりと右へ行った。
「あの……?」
「腹ごしらえだ。食事を確保しておいた方がいい。船宿とやらで手に入るとは限らないからな」
広場に面した建物は大半が何らかの店だったが、今はほとんどが閉じている。
そんな中、持ち運びのできる台を地べたに置き、炊事の煙を立てている「屋台」がひとつあった。
「買ってこい。すぐ食べられるものと、後で食べるものと、二人分ずつ」
フィンの手が出てきて、カルナリアの手にコインが何枚も落とされた。
(そ、そう言われましても! わたくし、買い物などしたことありません!)
奴隷の身で口にするわけにはいかないが、カルナリアは内心で叫び声を上げた。
フィンはその場で円錐の高さを減じ、広がった。
座りこんだのだ。
こうなるともう動いてくれないことを経験則として知ってしまっている。
(ええと、ええと、ええと………………あっ、そうです、あれと同じように!)
昨日の、食後の経験。
後かたづけで困った時の質問の仕方。
「こっ、これっ、金額っ、確認しておきます、ええと、2250ギリアムでいいですか!?」
渡されたコインを全部手の平の上に乗せて、適当なことを言う。
レントが平民相手に色々払ったり値切ったりしていた時に、このメシでひとり600はねえよ500だろと言っていた記憶を元にしているので、二人分としてはそれほど突飛ではないはずだ。
「……全然違う。3500ギリアムだ。その小銀貨が1000ギリアム。二枚あるだろう。大きい銅貨、500が二枚、小さい100銅貨が三枚。他はそれ以下の小銭だ。一食分は500ギリアムというのがこの国の大体の相場のはずだ。ふたり、二食分で2000だが、2500までは許す。全部巻き上げようとしたら悪いやつだから逃げていい」
「は、はい、ありがとうございます、いってきます……!」
王女は、今、はじめての買い物に挑む。
「ほい、らっしゃい!」
威勢の良い、若い男に、ほとんど叫ぶように言われて固まった。
「ら、らっしゃい!?」
相手はカルナリアを見て、その顔面の『火傷』に一瞬顔を引きつらせた。
視線が即座に首輪にはしったのもわかった。
「……うわ…………って、すまん、お嬢ちゃん、ご主人さまの買い物かい?」
「あ、はい、そうです、失礼します、あの、お食事を、こちらで、買い求めることはできるのでしょうか?」
「うわははは!」
いきなり豪快に笑われて、カルナリアはまた固まった。
「そりゃいいや、あんた、どういうご主人様のとこでやってるんだい!?
もちろん、うちはそういう店だよ! 食い物以外に何を出すってんだい! 他のもん売ってるように見えるかい!?」
とりあえず、この若者に「悪い色」は見えなかった。
体格は良く、意外なことに「武」の、かなりの才能が見えた。
こんな状況で店を開けている胆力、決断力に、その片鱗がうかがえる。
「は、はい、では、お食事を、お願いしたいです……私と、ご主人さまの、二人分……ええと、すぐに食べるものと、後でも食べられるもの、二種類、二つずつ、いただきたく、存じます」
「ほう、あんた面白えな。なんも知らないのに、言葉づかいしっかりしてるし、頭もよさそうだ」
「いえっ、そんなことはっ!」
カルナリアは慌てて否定したが、心臓が危険なほど打っている。
数万人が整列し敬礼してくる閲兵式に参列した時よりも、ずっとひどい緊張に襲われていた。
「……ちょっとどいて、見てな」
背後から、ムワッと臭う、男くささ全開の気配がやってきた。
「おう、この状況でやっているとはいい度胸よ! いつものを六人前だ!」
ごつい、衛兵の装備をした髭面の男がずかずかやってきて、屋台に貨幣を叩きつけるように置いた。
「こういう、みんな閉じこもっちまってる時だからこそ、稼ぎ時ってね! まいどあり! 六人前、すぐに!」
男はすぐに、最初から熱せられている鉄板の上に脂を引き、灰褐色の粉を水で溶いたものを垂らして広げた。
熱が通り固まってきたその中央に、細かくした肉や野菜を醤で煮こんだらしいとろみのついた具材を、壺から大匙で乗せて、さらに少し火を通す。
頃合いを見て、十分に加熱された生地で包みこみ四角くして、器具を使って手際よくひっくり返した。
全体に熱が通り、わずかな焦げ目がついて、いい具合になったらしいものを、大きな黄緑の木の葉でくるむ。
そういうものを六つ、たちまちのうちに作り上げた。
二つずつ重ねたものを三つ、黄緑の葉ごと、薄い木の板の上に乗せて差し出す。
「ほい、おまちどう! ……お城は大丈夫なのかい」
「おう。今んところ、何も変わりねえよ。賊が入りこんで暴れただけで、こっちにゃ関係ねえまま終わりそうって感じだわ。じゃあな!」
ごつい衛兵は、仲間の分の食事を持って立ち去っていった。
「……な? ああいうもんだ」
「はい…………よくわかりました……」
初体験である平民の買い物の強烈さにやられた精神とは別に。
今、屋台主が作ったものの香ばしい匂いに、腹がはしたない音を立てた。
肉や野菜を煮こんだものの匂いは知っていたが、灰褐色の生地を焙って立ちのぼった香り、これは未経験で、十二歳の胃袋を強烈に刺激した。
屋台主に聞き取られて笑われ、カルナリアの顔は火を噴く。
「お嬢ちゃん、あんたのご主人様、もしかして偉い人だったりする?」
「え、あ、はい、たぶん、私みたいな者を買ってくださった、おかしな方ですけど、とにかく、食べるものを、二人分の、二食で、四食分、いただけると!」
屋台主の視線はものすごくなまあたたかくなった。
「うちは、500ギリアムでひとつ。わかるかい?」
「はいっ、では、ふたりの、二食で、2000ギリアムでよろしいですね?」
「それはそうだが、でもな、それは最低限ってやつで、もうちょっと出すと、色々なものを足せて、もっと美味くなるんだが」
「それは……」
警戒心と、漂う香りを根拠とした肉体の欲求とがせめぎあった。
「ど、どういう風になるのですか。2500ギリアムまでなら、許されていますから!」
屋台主の目つきが、赤ん坊をあやす乳母のような、これ以上というかこれ以下はないような穏やかなものになったのを、カルナリアは敏感に感じとった。
感じとっただけで、その意味も対処法もまったくわからないのだが……。
「よしよし、わかった、じゃあ2500ギリアムでいい、その分だけ、できるだけ美味いものを作ってやるから」
屋台主はまず、先ほどの衛兵に渡したのと同じ、四角いものをふたつ作ってから。
次には、四角ではなく細長く丸めたものを作って、太い竹を縦半分に割ったものにぴったり詰めて、黄緑の葉をかぶせ、太い糸で手早くくくったものをふたつ作り上げた。
先ほどの衛兵に売ったものより、少し具材の固形物が多いような気がした。
包む前に、先ほどは乗せなかった小さく鮮やかな緑の葉っぱを乗せていた。刺激的な香りが立った。
「すぐ食うものはこっちのふたつ。竹に詰めたのは、夜でもいいし、今の季節なら明日の昼までは十分にもつ」
「ありがとうございます!」
カルナリアは、2000ギリアムになるはずの二枚の銀貨と、大きい銅貨を台に置いた。これでいいはずだ。
「…………」
屋台主の無言が、とてつもなく怖かった。
足りないと言われたらどうしよう。
それどころか、全然足りないから持ってるもの全部よこせと言われたら。
先ほどの宿の亭主の態度への腹立ちもよみがえり――。
もしあのフィンが本当にものすごい剣士だったなら、「この者の首をはねよ」と王女として命令してしまいそうになる気持ち、というものがわかってしまった。
これこそが「力を持った者のふるまい」そのもの。
あの田舎貴族の娘のように、力を持った者がこういうことをやってしまうからこそ、恨みを抱かれ、悲劇が起きるのでは…………。
「どうした? ぴったりだぞ」
「そっ、そうですかっ、ありがとうございますっ!」
「いや、買ってもらったんだから、礼を言うのはこっちなんだが……とにかく、気をつけて持っていきな、ご主人様によろしくな! 今後ともクルンの屋台をごひいきに、って!」
――カルナリアは二度と直接会うことはなかったが、この若者、クルン・ジュタールはのちに、食材を買いつけに出向いた村が盗賊に襲われたところを、村人を指揮して見事に戦い、それが評判となって新しいカラント王国で大いに出世することとなる。
ともあれ、王女ひとりでの初めての買い物は、無事に達成できたようだった。
カルナリアは念のため広場を見回し、ぼろぼろが場所を変えていないか――最後の陽光が差しこんでいる温かいところに移動していないか、魔力を探った。
いた。
最初のところから動いていなかった。
「買ってきました。2500です。普通に買うよりも色々追加してくれたそうです」
「わかった。よくやった」
ほめられてカルナリアの頬がほころぶ。
王宮なら侍女たちが素晴らしいですお見事ですとほめそやしてくれただろうが、単純なフィンの一言の方が、ずっと心に響いた。
「こちらが、すぐ食べた方がいいもので、こちらは夜、明日の昼までは大丈夫だそうです」
「ではまず、少し早いが、夕食にしよう」
差し出したものは、例によってぼろ布の中に吸いこまれた。
カルナリアはその隣に同じように座り、食前の祈りを――口には出さずに唱えてから、多分こうやって食べるのだろうと推測して、両手で持って、かぶりついた。
「はむっ…………んっ!」
美味しい。
素朴な料理だが、できたての味と香りが口と鼻に快く広がる。
生地は、焦げ目の香ばしさと、ほどよく火を通したやわらかさが上手に共存している。
具材は、野菜と、恐らく川魚だろう、ごろりとした塊がいくつも入っている。弾力があって、噛むと心地良い。臭みはきちんと消された濃厚な味わい。生地と一緒に口に運ぶと最良の加減となりぐいぐいと喉を通る。
乗合馬車の上で、食事をじかに手で持って口に運ぶのを、エリーレアが嘆かわしいとすすり泣いていたことを思い出してしまう。
だが、これはこれで楽しいし美味しい、と感じるのがおてんば姫カルナリアだった。
「…………」
まだフィンは食べている途中の気配なのに、カルナリアは食べ終えてしまった。もうひとつあっても片づけられると腹は訴えている。
「……残りの1000ギリアムで売ってもらえる限り、買ってきていいぞ」
自分を見ていてくれたようだが、そう言われて、カルナリアは恥ずかしく思いつつ、欲求に負けて立ち上がった。
そのとき。
「…………!?」
カルナリアはしゃがんだ。
人生最速で。
「い、いえ、お腹いっぱいです」
認識阻害のぼろ布の陰に飛びこむ。
可能な限り身を縮める。
広場に、三人、入ってきた。
大きな犬を連れた、ひどい猫背の男と、子供と、老人だろうこれも背の曲がった男が。
カルナリアの視界が鮮血の色に染まり、食事を終えたばかりなのに鼻孔に血臭をかいだ。
王女はささやかな冒険を成し遂げた。しかし悪夢が追いついてきた。次回、第50話「舟」。馬を手放した以上、逃れる道はそれしかないが。残酷な描写あり。




