36 新しい顔
(くああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ! かゆいかゆいかゆいかゆいかゆいぃぃぃぃぃぃ!!!)
カルナリアは悶絶した。虫に刺されてもくすぐられても、ここまでのかゆみを味わったことはなかった。
顔面をかきむしろうとした。
だが体はまったく動かせない。
かゆみだけがひたすら続く。
「ひっ、ひぃっ、ひっ、ひぅぅっ!」
うめき声を漏らすしかできない。
その声も、息苦しい中で、耐えがたいかゆさと引っ掻きたい激烈な欲求とで押し潰され、途絶えてゆく。
(死ぬっ、これっ、死んじゃうっ……!)
かゆみに、熱さが重なってきた。
だがかゆさを軽減してくれるものではない。むしろ一緒になって責めさいなんでくる。ひどい苦痛。皮膚がひきつり顔が歪み骨まで変形してゆくような。
「ぐっ、げっ、ごっ……!」
息ができない。苦しくて何も考えられない。動かせないはずの体が細かく痙攣する。
(あ………………もう、だめ…………)
そのまま、意識が薄れていって……。
「まあ、こんなところか」
気がつくと、まばゆい空と、視界の隅にぼろぼろが見えていた。
「はーっ、はーっ、はーっ、はーっ!」
反射的に思いきり息を吸い、せわしなく呼吸し、普通に息ができて体も動くことに気がつく。
(いっ…………生きてるっ…………!)
何をされたのかよりも、怒りよりも、とにかくまずその感動が心に満ちた。
先ほどの突然の気絶と違って、今度は完全に、死んだと思ったのに。
首に手をやり確認し、それから気絶する前のことを思いだし、顔に手をやった。
わずかにかゆみが残っているが、耐えられないというほどではない。
だが違和感がある。
額のこぶはあまり変わっていない。
しかしそこから右目の上、右頬にかけて――つまり先ほど石で何かを塗りつけられたところが。
カリッ。
指先は、硬くガサガサした感触を伝えてきた。
「え…………これは…………!?」
飛び起き、あらためて顔面を手の平で撫で回す。
ごわごわする。
大きな何かが顔に貼りついているような。
ぼろぼろの中から何かが出てきた。
鏡。
即座に手を伸ばして受け取り、自分の顔を見た。
「!」
反射的に、目をそむけた。
周囲の緑を見つめ、空を見上げ、ゆったり息をしてから、あらためて鏡をのぞきこむ。
ひどいものがのぞき返してきた。
人間の頭部ではある。
だが額が大きく腫れ上がり、そこから顔の片側、目から頬にかけて、赤黒く色が変わっている。
赤黒い中にかろうじて線のようにまぶたの隙間があって、瞳らしきものが見えている。片頬だけが引きつり唇もそちらだけ歪んでいた。
きょとんとして、小首をかしげると、鏡の中の醜い顔も斜めに傾いた。
これが今の自分の顔だという理解が、ようやくやってきた。
「~~~~~!!」
声にならない絶叫。
底なしに落下してゆく感覚。
「落ちつけ」
思わず放り出してしまった鏡を、手を出して素早く受け止めたフィンが、淡々と言ってきた。
「いやああああ! こんな! こんなの! ひどい! ひどすぎます!!」
確かにカルナリアの顔をごまかす必要はあった、殴ることはしないと言っていた、あの草の汁の意味もわかった、だけどこれは、こんな、いくらなんでもこれは!
「だから落ちつけと言っている」
フィンの手が――あの指輪がはまったままの手が迫ってきて、カルナリアは反射的に逃れようとして、石の上から転がり落ちた。
「ふべっ!」
そこを捕まえられた。
触れられた途端にあらゆる動きができなくなって、おかしなポーズで固まったところを、持ち上げられて、岩の上に戻される。
「いいから、落ちつけ。黙れ」
ぼろぼろから両手が出てきて、カルナリアの頬をはさんだ。
「ひゃ…………ひゃい…………」
指輪から魔力が走り、四肢の麻痺が解ける。
同時に両頬から甘いしびれのようなものがはしって、カルナリアの爆発的な感情は、水をかけられた火のようにみるみる小さくなって消えてしまった。
「ふむ。いい感じだ。これなら充分だろう」
カルナリア自身が触れたのと同じように、額からまぶたの上、右頬にかけて、指でなぞってくる。
素肌に触れられた感じがしない。大きなかさぶたに覆われているような感覚だ。
「何なんれすか…………こえ……」
「落ちついて話を聞けるな?」
うなずいた。
「これから人里に降りる。その前にお前の顔を、めんどくさいことにならないようにしておく必要があった。それはいいな」
「はい」
フィンは地面を示した。カルナリアの目が向いた先に、すりつぶされた後の例の草と、粘液がこびりついている石があった。
「ちょうどいい所に生えていた。これは――かぶれる、というのはわかるか?」
「……はい……いちおう……」
王宮の庭園だけでなく、自然の中で遊ぶことも好んだカルナリアは、時々外部の森に連れていってもらったものだ。
もちろん危険な獣をはじめ有害なものは全て取り除かれた、管理されている王家所有の森だが――学友や侍女たちとそこを歩いている時に、少し離れたところを歩く近習が険しい顔をして「これは肌がかぶれる。抜いておけ」と下僕に指示していた声が記憶にある。
肌に触れると良くないことになる、そういうものであるらしい。
「この草の汁は、肌に触れるとひどくかぶれるが、それだけではなく、乾くとちょうど火傷の痕のような具合に固まる」
「やけどの……あと……」
熱いものに触るとやけどする、ということは知っているが、火傷を負った人というのは見たことがない。
こんなにひどいことになるものなのか。
フィンは、草の残骸と石を、粘液部分に触れないように慎重に持ち上げて、渓流に放り捨てた。
「お前は、前に働いていた家が火事で焼けて、顔にひどい火傷を負い、それで売りに出されて、前の主人夫婦に買われたということにする。今のその顔ならばみな信じるだろうし、お前をさらって売り飛ばそうとする不埒者も出てこないだろう」
「………………」
今一度、カルナリアは自分の顔のその辺りを指で擦った。
「それは…………わかりました……これからは、そういうことにします…………でも、これ……ずっと、このままなんですか?」
一番の懸念はそこだった。
『王の冠』を届ける使命のためならば何を犠牲にしてでも、と思い定めてはいたが、一生このままというのは――どうしてもそうするしかないのなら受け入れるが――どうにかなるのなら、やはり、元に戻してほしい。
「いや。割と簡単にはがせる。体温よりはもう少し高い、それなりの熱をあてればすぐ取れる。熱い湯に浸した布を押しつけるか、湯を沸かし、細い口から噴き出す蒸気をあてるかすればいい。少し肌が赤くなるかもしれんが、一晩寝ればもう元通りだ」
「………………はあああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ………………」
カルナリアは全身が空っぽになるほど長々と安堵の息をついた。
「良かったぁ…………」
安心すると、怒りが湧いてきた。
「……ご主人さま。そうならそうと言ってください! 先に言ってくれれば、気持ちの準備も、我慢することだって……」
べちっ。
額に激痛が走った。
「いだだだだだだだだだぁぁぁぁぁ!」
のたうち回る。
ぼろ布からフィンの手が出ていた。
こぶを指で弾かれたのだ。
「走るなと言ったのに走って、転げ落ちたのは?」
「…………わ……私…………です…………」
「使う予定のなかった色々なものを使わせ、私をひどく疲れさせたのは?」
「私…………です……」
「そういうことだ」
「………………はい」
カルナリアはしゅーんと小さくなった。
「では、行くぞ。これ以上ここにいるのは良くない」
言われて、自分たちは今追われているのだということを思い出した。
衝撃的なことが起こりすぎて、忘れてしまっていた。
それにもへこむ。我ながら危機感がなさすぎる。
荷物を背負い、適当にまとめていた髪を少し前に流して右半面を隠してから、フードをかぶる。
いかにも訳ありの風体になった。
「持て」
蔓草で巧みに縛られ、吊して持てるようにされた熊の掌を渡された。
ずっしり重い。爪が怖い。切断面にのぞく骨と肉がおぞましい。
「うひぃぃ……」
「獣よけにもなる。下の村で売り払うからそこまででいい」
獣よけと言われて、戦慄がはしった。
気づけば上空を猛禽類が何羽も舞っている。
しきりに鳴き交わしている。
周囲の木々の合間に、小動物の――肉食のそれらがうごめいている気配がする。
カルナリアは、これに似た状況をすでに経験したことがあった。
身がすくむ。周囲が夜の闇に染まってゆくような心地がする。
「い、行きましょう」
「ああ」
カルナリアは急いで足回りや荷物の具合を確認し、蔓草を肩にたすき掛けにして熊の掌をぶら下げた。
渓流を離れ、恐らく道だろう、木々の合間にある通れそうなところに先に立って踏みこんでゆく。
そこで、ふと、思った。
「……すみません、待って下さい」
「どうした」
カルナリアは振り向いた。
木々の合間にまだ見えている、熊の死骸。
近くにある時は直視したくなかったので、視界に入れないようにしていたのだが。
離れるとなると――。
「私のせいで、死んでしまったのです。怖い相手ではありましたけど、お祈りしておきたいと思います」
「……ああ」
フィンの声に、柔らかい感情が乗った。
ほめてくれているのかもしれなかった。
「私は、もう鎮魂の祈りと必要な処置はすませてある。お前の思うようにするといい」
カルナリアは魂の良き旅路を願う聖句を小さくつぶやき、その理不尽な死の原因となってしまったことを謝罪した。
たとえ相手が自分を食おうとしていたのであっても、命は命、魂は魂、尊いもの。
「………………?」
(あんな感じ……だったでしょうか……?)
川べりの死骸が、ずいぶんと小さくなって、形も変わっているような気がした。
遠ざかったせいだろうとは思う。
しかし……。
フィンを振り仰ぐ。
そういえばさらりと、必要な処置、と言っていた。
自分が気絶している間に、何かをしたのだろう。
だがそれが何なのか、あの大きさのものに何ができるのか、まったく思いつかなかった。
再びひどい顔にされてしまった王女。彼女をそうしたご主人様は何者なのか。強いのか。本当に剣士なのか。……ヒントは沢山出ているのだが、王女は全然気づいていない。次回、第37話「下山」。いよいよ人里へ。
※予約投稿時間を、これまでの15時から朝の7時に変更することにしました




