20 鍋と涙
ぼろぼろが小屋の中に戻ってきた。
「あ、あの…………なにが…………声…………けものが、来たのですか?」
「まあ、ある意味、獣ではある」
するすると小屋の中を這い進んできて、どうやら鍋の様子を確認したようだ。
「時々来る、うるさい子供だ。獣の鳴き真似で追い払った」
「なきまね……?」
「割と自信がある。声だけですむので楽ができるし、色々と便利だ」
――想像するに、ランケンたちを、気づかれずに近づいていってぶちのめしたわけではなく、木陰あたりから吼え声を浴びせ続けることで追い返したのだろう。
すなわち、ほとんど身動きせずに、声だけで。
「……剣士さま、なんですよね」
「ああ」
「やっつけちゃわないんですか」
「めんどくさい」
自分の存在意義を否定するようなことをあっさり言う。
「あれで逃げなければ、お前を走らせて、追いかける連中を後ろから倒していくつもりだった」
「…………」
「そのために、お前を万全に動けるようにしておく必要があった」
魔法薬を全身に塗りこんでくれたのには、この事態の予想もあったのか。
確かにあの時、早めにお前を治しておく必要がある、理由はいずれわかると言っていた。
「それは…………もうしわけありません……」
ぼろぼろだけなら、さっさと山の中へ逃げこめる。
カルナリアを魔法薬で手早く治したのは、王女と見抜いたからでも可哀想だったからでもない、単純に、怪我したままでは足手まといだったから。
自分は無力であることを、あらためてカルナリアは痛感した。
「お前は子供だ、仕方がない。とにかく食うことだ。その、大きな葉に包まれているのが肉だ。もういいだろう、入れろ」
鍋は沸騰し始め、先に入れておいた野菜が煮えてきたのか、いい匂いが立ちのぼってきていた。
カルナリアは生まれて初めて、調理する前の肉というものを見た。
どうやら鳥の肉であるらしい。色々な鳥料理を思い出し、このヌメッとしたものがあれになるのかと感心した。
熱湯が跳ねないように気をつけつつ、これもあらかじめ食べやすい大きさに切ってくれてある肉片を、少しずつ木匙で鍋に滑りこませてゆく。
「火が通ったら、これを溶かして、味をつける」
木、いや中が空洞で節のある硬い草――竹の筒だった。
栓を開けると、茶褐色の、どろりとしたものが詰められている。
穀物をすりつぶしたものに塩を混ぜ発酵させたものを基本に、野菜や香草など色々なものを混ぜこんで作る「醤」。
王宮から庶民まで広く作られ、使われていて、材料や製造者の工夫によって千差万別、無数の種類がある。
これはカルナリアも知っていた。王宮の料理でも使われることはあったし、逃げる途中、庶民の食事がどうしても口に合わないエリーレアは、持参していたアルーラン家特製のそれをパンに薄く塗ったものを食べて飢えをしのいでいたものだった。
恐らくこの怪人の手製のものだろうそれを木匙でかきだし、鍋に溶かしいれてゆく。
甘みを帯びた、魅惑的な香りが立ちのぼり始めた。
思えば昨夜から何も食べていない。心身とも回復した育ち盛りの体、空っぽの胃が、王女らしからぬ健康的な音を立てた。
「よし、その葉を入れろ。すぐに煮えるから、入れたらもうそれによそって、食べていいぞ」
緑鮮やかな草を入れる。
すぐにくたっとなって、すでにたっぷり広がっている香りに野生的な香りが重なって、さらに腹を刺激してきた。
大匙で、椀に鍋の中身を移す。
これも初めてのことで、こぼしそうで怖かった。先ほどの水と違って今は煮えている。失敗は火傷につながる。すぐに治してもらえる魔法薬はもうない。
懸命によそったお椀から、湯気が立ちのぼる。
カルナリアは何とかやりとげた成果を、ぼろぼろの前に差し出した。
この家の主は彼女だ。ならば、自分の宮で主たる自分にされていたことを、立場を置き換えてみれば、こうするのが正解のはず。
失敗すれば、色々「手本」を見せてくれていたレントや、ひたすら自分を守ろうとし続けてくれていたエリーの思いを台無しにしてしまい、あの吊されていた町長のようにされてしまうかもしれない。カルナリアは呼吸もままならないほどの緊張の中にあった。
――だが。
「お前の分だ」
ぼろぼろは、それを受け取らないし、自分用の食器を出してくることもしなかった。
「え…………私だけですか? そんな……」
王女なら何の不思議もないので、受け入れてしまいそうになるが、今のカルナリアは自分が奴隷の身分であるということを心得ている。
それなら――ありえない。
奴隷に、先に食べさせるなど。
「お前が来たのは突然だからな。私が食べるものは別に用意してある。これは二人分のようだが、今のお前なら余裕だろう。食べておけ。このところまともな食事をしていないのだろう、十二歳にしては細いぞ」
「はい――え?」
濃厚な湯気と香りが立ちのぼる椀を前に、カルナリアは固まった。
十二歳と告げたおぼえはない。
子供たちには十歳と言った。
ランダルは、「少女狩り」から察しているかもしれないが、ぼろぼろにはそんなことは言わなかった。
しかし、なぜわかったと問うのはだめだ。かまをかけたのかもしれない。自爆してはならない。
カルナリアは表情を乱さないように――これはうかつに本心を悟らせてはならない貴族の振るまい方である――不思議そうに訊ねた。
「わたし、十歳ですよ?」
「ふむ?」
と、ぼろぼろは不思議そうに言った。
ここまで、けだるげに指示を出すか、めんどくさいとつぶやくばかりだったこの怪人の、初めて示した感情だった。
「十二歳の体だと思ったのだが」
突然、手が出てきた。
左右両方。
大人の女性の手だった。
カルナリアはぽかんと見入った。
長くつややかな指。
美しい爪。珠の肌。
魔法的には素晴らしい宝が無数に存在するこの小屋の中ではあるが、見た目としてはどれもこれも素朴、質素。最も美しいのは恐らくエリーレアの財布の中にある金貨だろう――と、思っていたのに。
金貨ごときをはるかに上回る、芸術品、それも極上の造形物、天上に住まう女神の御手はかくもあらんという、麗美をきわめたものがそこにあった。
突然の「美」に直撃されたカルナリアの思考は止まる。
その女神の手が、空中で、何かを揉みしだくようにうごめいた。
美しさに似合わぬ、淫らがましい手つき。
自分の体に薬を塗り、揉みこんだ時の動きだ……!
と、止まった頭ではなく体が理解した。
「!」
頭の理解も追いついてきた。
この手で、このように自分の体をまさぐって、それで十二歳と判別した、と。
このような動きで全身をぬるぬるにされ、揉みほぐされ――あのみっともない状態にされてしまったのだ。
「~~~~~!!!」
顔から火が出る、という比喩表現だけは知っていたが、実際にその状態になってみると、ひどいものだった。
「…………十歳、です…………」
せっかく風呂をつかったというのにまたしても全身ぐしょ濡れになりながら、それだけ言った。
「そうか。こちらは、まだまだか」
修行不足とつぶやくと、麗しき女神の手は消えてしまった。
ぼろぼろの中に帰っていったのだ。
途端に、屋内を満たしていた神々しいものが消え失せた。
目をしばたたく。今のは夢か。きっとそうだ。ぼろぼろは正体不明の怪人で、その中に女神がいるなどというのはありえない。
「とにかく、食え。せっかくの村長の心遣いだ、一番美味いところで食べてやるべきだろう」
「…………はい」
めちゃくちゃな精神状態で、とても食事という気分ではなかったが。
命令されたので、ひとさじ、椀の中身を口へ運ぶ。
「!!」
今度は味覚が、一気に舞い上がった。
新鮮な野菜。滋味あふれる肉。美味い。美味い!
ちょうどいい火加減。塩加減。醤の深い味わい。
空腹と怪我と心傷で想像以上に衰弱していた肉体に、優しい味が流れこんできて、生命の根底が反応する。励起する。力が満ち始める。
「…………!」
手が、持つ匙が、勝手に動く。
次々と口へ運んでくる。シャクッとした根菜。肉の弾力、それをかみ切る快感、広がるうまみ。あごが動く、喉が動く、飲みこむ悦楽、腹に満ちる幸福。
スゥッ、スゥッと、汁もたてつづけに飲んでしまう。滋養に満ちた野菜の甘さに肉の脂が重なって、こたえられない美味。口へ運ぶ動きを止められない。
熱い。ハフハフと下品な音をたててしまう。汗が噴き出てくる。
汗と共に涙があふれた。
感情が乱高下しすぎて、王女であるはずの自分が、まるで制御できない。
あの二人を失った、目の前で命が消えていった、体から血が流れ出た、ぬくもりが失われていった、全ての光が消えた……喪失感に飲みこまれた次の日に、こんなに勢いよく食べている。
二人を埋葬し、永遠の別れを告げたその夜に、美味しさに夢中になってしまっている。
美味しい、でも悲しい。
悲しいけれど、美味しい。
悲しみにひとかけらの嘘もないのに、食べてしまう。
恥ずかしく情けないけれども、ひとくち食べるごとに全身が喜んでしまう。
「うっ、うっ、ううううっ!」
嗚咽を漏らしながら、おかわりする。
自分の手で鍋からたっぷり椀に肉や野菜をよそう。
「これをかけるのもいいぞ」
ぼろぼろが、何かを差し出してきた。
小さな容器。乾燥させた植物の種か何かをすりつぶした、黒い粉。
言われたままに椀に振りかけると、鼻の奥に響く、刺激的な香りが立ちのぼった。
「!」
記憶が呼び起こされた。
この香りをカルナリアは知っていた。
王宮での食事。ずいぶん前の、異国の使節を迎えての晩餐会。
異国の料理だという、緑がかったとろりとしたスープからこの匂いがした。この黒い粉末がわずかに振りかけられていた。美味しかった。おかわりを求めて、やんわりとたしなめられた。その頃の年齢ではよくわかっておらず、周囲のみなが笑っているので自分も嬉しくなって笑い返したものだった。
父王と、正妃である第一王妃ヘルミリアと、自分とすぐ上の兄ランバロの母である第三王妃フェルミレナが並んでいた。自分の生母の方が若く美しいことをカルナリアはひそかに喜んだものだった。
長兄ガルディス、次兄レイマール、二姉ルペルカ、珍しいことに病弱な三姉アリアーノの姿もあった。これまで二回しか会ったことのない、とてもきれいだけどそのまま消え失せてしまいそうな雰囲気のお姉さま。「儚げ」という表現はこのひとのためにあるものなのだと理解した。
よく見知った護衛騎士たちが壁際に立ち、侍女たちがそれぞれの主のかたわらにつき。
みな、笑っていた。
語りあい、笑いあい、あらゆるものを楽しみ、あらゆる相手と共にあることを喜んでいた。
…………もう二度と戻らない、幸せの記憶が、こんなところで。
カルナリアは味の幸せと香りの幸せに浸りつつ、狂おしいほどの懐かしさと切なさに、さらにぼろぼろと涙をこぼした。
「……これも、食え」
砕いた穀物を水で練って、棒に巻きつけてから火で焙った円筒状のものを、ぼろぼろが差し出してきた。多分彼女の夕飯なのだろう。問答無用で鍋に入れられた。
それが煮えて柔らかく崩れ、できあがった雑炊は、軽く焦げ目をつけたことにもよるのだろう、味わったことのないすばらしい心地よさで喉を撫でてゆき、胃に溜まり、深い満足感をカルナリアに与えてくれた。
そのことにもまた涙があふれた。
自分の感情が制御できないどころか、さらにひどくなる。
おいしいものを口にしたからこそ、おいしいと感じたからこそ、こんな状況なのに幸せを感じてしまったからこそ。
幸せをおぼえてしまうことへの罪悪感が心をさいなむ、押しひしぐ、切り刻む。
記憶も、声も、何もかも、めちゃくちゃになる。
泣きわめいたような。暴れたような。色々叫んだような。うずくまったような。
「よし、よし。色々あったんだろう。休め」
周囲から光が消えた。
あらゆるものが見えなくなった闇の中で、血のにおいを伴う恐怖の記憶に襲われたが。
やわらかく、温かいものに包まれた。
自分よりも大きな、豊かな、女性の体だった。
ものごころついてからは誰もしてくれなくなった、添い寝と、抱擁。
それが許されるのは幼児の頃だけで、お披露目の儀をすませた後ではもうそんなものを求めてはいけないと教育されたはずの心身が、完全に裏切って、全力ですがりついた。
相手にしがみつき、やわらかなふくらみに顔を埋め、力強く打つ心臓の拍動を聞いた。
人の、素肌。
強い音、強い脈。
強い命、そのもの。
その音と振動のもたらす安心感が、あらゆる懸念を追い払い、あらゆる思念を溶かす。
カルナリアは底なしの深い眠りに落ちていった。
地獄そのものの夜を経て朝を迎えてからの、当人にとって激動の一日がようやく終わった。
眠りの後は新しい一日が始まる。王女、いや奴隷少女は、この奇怪な主人に何をさせられるのか。
次回、第21話「奴隷売買」。




