5.thunder storm.―7
気づけば雨足は強まっていた。
雨音が炸裂し続ける中、声が龍二の足元から響いた。
「龍二!」
龍二が声に反応して視線を下げようとした時、龍二の視界に、下から投げられた一本のナイフが、浮かび上がって入ってきた。
宮古が自身の腹部から引き抜いたナイフだった。刃を汚していた鮮血は今の強い雨によって大分落とされていた。龍二の足元の宮古の腹部に空いた穴からは、血が吹き出し、雨と共に流れ始めた。傷跡をナイフの刃が塞いでいたのだ、それを引き抜けばどうなるのか、彼女だって分かっていただろう。分かっていて、そうしたのだ。
龍二は視線を下ろすのをやめ、投げられたナイフを確かにキャッチし、そのまま、一閃。龍二の持つナイフが描いた一線は女殺し屋の右手首を浅く切りつけた。浅く、だが、この瞬間の衝撃は大きい。女殺し屋は思わずナイフを手放してしまった。ナイフは雨を切り裂きながら跳び、転がり、落ちていった。しゃがんで取れる距離ではない。それに、今は猶予がない。
「っくそがぁあああああああああ!!」
龍二はそのままナイフを手放し、目の前の女殺し屋にタックルする様に飛び込んだ。龍二の突然のタックルに女殺し屋は対応しきれない。そのまま、龍二に押されるがまま、雨で激しく塗れた地面に仰向けに倒れる。女殺し屋からは落ちた衝撃による短い悲鳴が漏れる。そして、続いて龍二が強引に馬乗りになり、腹部が圧迫された事で漏れた悲鳴も続いた。
女殺し屋はすぐに反撃しようと、両手で地面を押すように踏ん張って、起き上がろうとするが、龍二の右の拳が鼻面を叩き、女は起き上がれなかった。その間に龍二は相手の両腕を膝で潰すようにして封じ、更に二回、右拳を彼女の顔に叩き込む。激しい打撃音が雨音を吹き飛ばした。
龍二の背後では宮古の苦しげな吐息が聞こえてくる。そして、足音もだ。
「宮古ちゃん!」
聞きなれた声と足音が重なった。シオンだ。肩にはスナイパーライフルを駆けていた。消音器がついたモノだ。つまり、先ほどの狙撃はシオンによるモノであるという事。龍二がどたばたと急に出て行ったのだ、シオンが何かあると思わないはずがなかった。
シオンは倒れた宮古を抱えて、腹の傷の様子を見る。見てすぐに、マズい、と思った。ただでさえ深く穿たれた傷だというのに、雨のせいで出血が止まりそうにない。シオンは大慌てで傷を手で抑え、必死に宮古の名前を呼んだ。意識がなくなれば、最期かもしれない、と思った。
その間にも龍二は女殺し屋を殴り続けた。最早、女殺し屋に戦意はなかった。殺されず、拷問をされるわけでもなく、ただ、抵抗を全く出来ない暴力を急所で受け続けているだけだった。いくら拷問に対する訓練を積んでいようが、ここまで感情を全面に押し出したただの暴力に耐えられるはずがなかった。そもそも、拷問と違い、女殺し屋が屈服した所がこの暴力の終わりではないのだ。これは、きっとシオンにも止められない。龍二の気が済むまで、終わらない攻撃なのだ。
二分程、龍二は女殺し屋の顔を全力で殴り続けた。呼吸は荒れていた。動悸も激しくなっていた。右の拳は血で汚れ、雨では落としきれない程に赤黒く染まっていた。そして、龍二の眼下の女殺し屋の顔は目も当てれない程に酷い有様になっていた。歯も半分以上折れ、辺りに散らばり、唇から頬から目から何から腫れ上がり、紫色に染まっている。見れば、右目は完全に潰れていたし、鼻も折れ、鼻血が溢れ出しているのがわかった。
「はぁ……はぁっ……、」
荒れた呼吸を落ち着かせるように何度か意図的な呼吸を吐き出した龍二は、高ぶった感情を出来るだけ抑えて現状把握をしようとした。が、途中ですぐに気づく。宮古が、危ない、と。
立ち上がり、苦しげな呼吸を吐き出しながら、龍二は言う。
「シオン、今すぐ礼を連れて帰れ! 出来るだけの処置をしろ!」
「神代龍二……宮古ちゃん、意識が……、」
シオンの声は震えていた。雨に打たれているからではない、とすぐにわかった。が、龍二もまだ諦めたくない。
「いいから早く!」
龍二がそう声を荒げると、シオンは「わかった」と動かない宮古の華奢な体を持ち上げ、すぐに走り出した。まだ時間はそんなに経過していない。一時的な失血による意識の喪失だと思った。が、いずれにせよ、早くしなければマズイ。
礼、生きろ、そう心中で吐き出した龍二は、足元で虫の息状態の女殺し屋を見下ろす。恐ろしい表情だった。足元から、僅かに視界を残した左目を出来るだけ開いて龍二を見上げた女殺し屋は、先ほどまでの自分の行動に後悔した。伝説なんて、と疑っていた。たかが人間だ。数で押せば勝てると思っていた。が、いい前例があるというのに、自分は負けないと思っていた。
最悪だった。
龍二はそんな女殺し屋の考えや心中を察する事はない。仮に察したとしても、行動は変わらない。右手を伸ばし、最早何の抵抗も出来ない女殺し屋の胸ぐらを掴み、無理矢理に立ち上がらせるように、引き上げる。女殺し屋の顔が近づくと、血なまぐさい臭いと雨のジメジメした感じが混ざった嫌な感覚が龍二を襲った。
龍二は何も言わず、彼女の顔を疎ましげな目で見た直後、本気の、一切の手加減のない頭突きを彼女の鼻の先に叩き込んだ。
「ッうううううあああああ」
激痛が女殺し屋の鼻から走り、全身に到達した。一瞬体が痙攣し、鼻から、口から血が溢れ出す。
女殺し屋の体は頭突きの衝撃で思いっきり後ろに倒れそうになるが、龍二が胸ぐらを掴んでいるため、倒れる事はない。離れた体を龍二は胸ぐらを引っ張って引き寄せ、顔を思いっきり近づけ、怒声を放つ。
「お前らクロコダイルは一体何を目的に動いてやがるッ!! 真夜中とは言えこんな一般人を巻き込む可能性がある場所で襲撃なんてかけやがって! ふっざけんな! 礼はな、もう一般人に戻れる所まできてたんだ! なのにしつこく迫りやがって……!」
叫んだ龍二は、再度彼女に頭突きを食らわした。そして今度は、胸ぐらを掴んでいた手を離す。女殺し屋の体は雨の中激しく後方に吹き飛び、シオンに狙撃されて倒れていた男殺し屋の死体の上にかぶさるようにして倒れた。当然、まだ、死んでいない。龍二が殺さない程度に調整しているのだ。
龍二は雨音をかき消す程の足音を響かせながら、起き上がろうともがく女殺し屋へと近づき、死にかけのゴキブリのように無駄にあがく彼女の動きを制するために足を彼女の顔に起き、足の裏を押し付け、うめき声をも支配して、やっと訊く。
「答えろ。クロコダイルの全てをだ」
「うぅ、うううおおお、あ、あぁあああうあ……」
女殺し屋は全身に走る激痛にもがき、両手両足をバタバタと暴れさせながらうめき声を絞り出していた。もしかしたら何か言っているのかもしれないが、龍二には関係なかった。
「良く聞けよ。答える気があるなら。右手を上げて三秒以上静止しろ。それ以外の行動をすれば引きずって俺の家につれていって、意識のあるまま指先から順番にバラしてやる」
そう吐き出して、足をどけ、女殺し屋の頬唾を吐きかけて龍二は一歩下がり、五からカウントを始めたが、女殺し屋はすぐに右手を上げ、うめき声を響かせた。
「それでいい……」
龍二は静かに呟いた。
そして、一旦その女殺し屋を放置し、振り返って女殺し屋が手放してしまったナイフを拾い上げ――正面に投げた。ほぼ動きが感じられないその投擲に、ナイフは答えた。真っ直ぐ、恐ろしい速度でナイフは刃の先で空気を切りながら一直線に、暗闇の中に突き刺さった。
「うっ」とうめき声が暗闇の中から聞こえてきた気がした。
その事実を確認せずに、龍二は暗闇に向かって叫んだ。
「いんのは分かってんだ。さっさと出てこいや。協会の犬」




