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第二章 黄昏の壁上で (1)

 東部地方の中核都市、ハルムーニ。

 強固な外壁に囲まれたこの街は、七年前の戦争で戦火に巻き込まれたものの、停戦後、短期間で驚異的な復興を遂げ、現在では美しいレンガ造りの街並みを取り戻していた。

 人口は約五万三千。これは正式に住民登録されている“壁内側”の数である。実際には“壁外側”にも数多くの人々が住んでおり、総人口は十万を越えるともいわれていた。

 街の景観は近隣でも類を見ないほどに美しい。

 中央部には街の象徴でもある領主館や市庁舎をはじめ、大聖堂、両替所、郵便集配所、劇場、図書館など、大型の公共施設が立ち並ぶ。同心円状に広がる道路はすべて石畳で舗装されており、季節ごとに葉の色を変える街路樹が彩りを添えている。用水路や小さな公園もいたるところに配置されており、城塞都市にもかかわらず、水も緑も豊かだ。

 極東地域を治める貴族が、王都に負けない美しい街造りに心血を注いだ結果、このような街並みが完成したといわれている。

 完璧主義かつ潔癖症だった貴族とその子孫は、治安維持にも目を光らせており、国内でも一、二を争うほど厳しい法令が定められていた。

 治安がよくなれば、人々は安心して暮らせる。

 人々の心が開放的になれば、自然と……。





「――ねぇキミ、なにしてるの?」


 街の主要通りの一角にぽつんと立っていたリーザに声をかけてきたのは、彼女がまったく知らない男だった。


「誰かと待ち合わせかなぁ。……うわっ、キミ、めちゃかわいいね。ビバラッキー!」


 ランプ灯の支柱に片手をつき、男は一瞬だけ片目を閉じた。

 ハルムーニにきてリーザがまず驚いたのが、道ゆく人々や馬車の多さと、その華やかさである。リーザの感覚ではそれぞれがかなりの速度で、無秩序に動き回っていた。

 紙風船のようにスカートを膨らませた女性が静々と歩いている。

 折り目正しいスーツ姿の紳士が泰然とした様子で“黒馬車”に乗っている。

 目の前に現れた男は、チェック柄の山高帽をやや斜めにかぶり、派手な模様のついたステッキを小脇に挟んでいた。

 それは最近ハルムーニの若者たちの間で流行している服装だったのだが、リーザには理解し難いものであり、さすが都会にはいろいろなひとがいるのねと、感心してしまう。


「実はオレ、キミみたいな清楚な感じのコ、めちゃ好みなんだ。うん、シンプルでナチュラルないい服だね」


 洗いざらしのワンピースを褒られて、リーザはきょとんとする。


「あ、あの……」

「ああ、オレ? オレは“ピエロ”。道化師の“ピエロ”さ。この界隈かいわいではみんなにそう呼ばれてる。ねえキミ、もし時間があるんだったらさ、ちょっとだけ付き合わない? 感じのいい店知ってるんだ。もちろんオレのおごりで!」


 困ってしまった。

 自分は兄の用事が済むまで待っているだけで、暇を持て余しているわけではない。それに、理由もなく初対面のひとにごちそうしてもらうわけにはいかない。

 そのことをリーザは丁寧に説明したのだが、“ピエロ”と名乗った男はなかなか理解してくれなかった。こちらの都合などお構いなしに、何度も誘ってくる。

 すっかり困り果てていたところに、近くの店の扉が開いてシャーロが現れた。

 冷静沈着な十六歳の少年は、リーザの様子を一瞥し、その状況を把握したようだ。


「要件は済んだ。次にいくよ」

「あ、はい」


 リーザはひと安心して、シャーロのもとに駆け寄っていく。


「あ、おい――ちょっと待てよ!」


 突然現れた少年に獲物を攫われたことに腹を立てたのか、男は二人の正面に回り込むと、その行く手を遮った。

 派手なステッキで肩をたたきながら、シャーロの頭の天辺からつま先までを、ざっと観察する。


「あんた、さえない格好してるな。服も靴も安物だし。どこで買ったんだ、そんなやぼったいの」


 鼻先をシャーロの胸に近づけて、にやりと笑う。


「それ、やぶれたところ、パッてしてんのか? 花の刺繍とか笑えるな。めちゃだせぇ。ああ、分かった。あんた“外住がいじゅう”だろう?」


 それは“壁外住人”の略称であり、ハルムーニに住民登録を持たない、いわゆる不法滞在者たちの総称でもあった。彼らは治安のわるい外壁の外側に居を構えており、“壁内住人”よりも生活水準が低い傾向にある。

 差別的な意味合いも込めて、男はこの言葉を使ったのだ。


「ねえキミ、こんな貧乏くさいやつ放っといてさ、オレと話をしようよ」

「よくしゃべる男だな」


 心底面倒くさそうに、シャーロはため息をついた。

 昔からシャーロは、無駄口を好まず、もっとも効率的かつ効果的な言動を選択しようとする癖がある。

 今回は、単純に事実をつきつけることにしたようだ。


「俺は、このの、兄だぞ」

「……へ?」

「誘いをかけるのは勝手だが、俺を通さずに、妹と付き合えると思わないほうがいい。あとは、そうだな。家族の用事のじゃまをするな」

「――あ」


 一方的に会話を打ち切ると、シャーロは男を置き去りにして、その場を離れていく。少し遅れてリーザも続いたが、向かってくる人々の波にぶつかってしまい、なかなか追いつくことができない。一瞬、兄の姿を見失ったが、手をつかまれてほっとする。


「……シャーロ兄さん」

「込み合ったところを歩くときは、少し前の方を見るといいよ」


 子どものように手を引かれながら、リーザは申し訳なさそうに俯く。


「ごめんなさい」

「別にあやまるようなことじゃないさ。それに――」


 シャーロは胸についた花の刺繍を、とんとんと指でたたいた。


「実は、けっこう気に入ってる。リーザが心配することはないから」


 端的な言葉だったが、リーザは心に暖かいものが流れるのを感じた。

 シャーロのシャツの胸の部分をつくろったのは、リーザだった。自分の行為により大切な兄がばかにされたことに対して、彼女は少なからずショックを受けていたのだ。


「……うん」


 リーザはシャーロの手をぎゅっと握り返した。


「しかし、さっそくやられたな」

「え?」

「馬車の中で教えただろう? あれが“ナンパ”ってやつだ」


 チムニ村からハルムーニの街まで、約三日間の行程。荷馬車にゆられている以外特にすることもないので、リーザはシャーロにハルムーニのことを教わっていた。

 街の人口や広さ、土地の歴史や成り立ち、主要な公共施設と観光名所、交通や流通の仕組み、“壁内側”と“壁外側”の違い、住人たちの気質や風習、郷土料理や特産品など、その説明は詳細で多岐に渡り、リーザはまだ見ぬハルムーニの様子を、荷馬車の上で思い浮かべられるほどであった。

 何故それほど詳しいのかとシャーロに聞くと、商売をするにはその街のことを知る必要があったからだという。ハルムーニで自由市場が開かれるたびに、市庁舎や図書館にある資料を見たり、客の話を聞いたりして、知識を蓄え、頭の中で整理したらしい。


「本当は、ナンパ男のあしらい方も教えられたらいいんだけど」


 少し考えてから、シャーロは冗談とも本気ともつかぬことを口にした。


「こればかりは経験が足りない。何度か挑戦してフラれ続けたら、少しはコツをつかめるかもしれないな」


 リーザは動揺を隠せなかった。


「わ、わたしはだいじょうぶだから。シャーロ兄さんがそこまでする必要はないわ」

「そうか」


 努力家で生真面目な兄は、言葉に出したことを本気で実現しようとする。好き嫌いではなく、好奇心から“ナンパ”に挑戦する可能性は否めない。


 ――うわっ、キミ、めちゃかわいいね。ビバラッキー!


 先ほどの男のような台詞を口にする兄の姿など、リーザは考えたくもなかった。

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