SS1~2
【SS1】本編終了後、約七ヶ月後のお話です。
地図上で無理やり表現するならば、その位置は、王都とハルムーニとを直線で結び、その中間点からやや南方に下がった辺り。
広大な森の中だった。
道なき道を進んでいた見習い隊士たちの分隊は、背中の荷物を降ろし、靴を脱ぎ、ベルトすら緩め、思い思いの姿で休憩していた。
「……なあ、王子。こんなことしてていいのか?」
分隊の中のひとりが、落ち着かない様子で問いかけた。
「王子がそうしろってんだから、大丈夫だろ?」
答えたのは、問いかけられた者ではなく、この分隊の副隊長をまかされている男だった。二十歳前の若者だが、他の者たちよりもあきらかに体格がよい。
「そうそう」
「これまでだって、そうしてきたんだから」
「下手に考えるだけ無駄。お前バカだし」
口々に同意する面々。
「だ、だってよぉ」
最初に問いかけた男は、不安そうな顔で主張する。
「せっかく順調に来て、あとちょっとでゴールだってのに、こんな所でのんびり休憩してさ。他の隊に先を越されたら、どーすんだよ? ほらあいつ――バランとかさ、やけに対抗心燃やしてたじゃねぇか」
やれやれと弛緩した空気が漂う中、大きな木の根元で眠るように目を閉じていた黒髪の分隊長が、そのままの姿勢で説明した。
「確かに、少しでも早く到着した方が、得点は高いだろうな」
抑揚のない、淡々とした口調である。
「だ、だろう? だからさ、王子――」
「でもな、ザツ。早く着けばいいってものじゃない」
目を閉じたまま、言葉を続ける。
「部隊が合流するときには、指定された通りの時間に、指定された場所にいること――つまり、早さよりも正確さが大切なんだ」
「ま、まあ、そうだけどよ」
「それに、体力の限界まで酷使して早く到着したした部隊よりも、余力を残したまま時間通りに到着した部隊の方が、得点が高いかもしれない」
「どうしてそんなことが分かるんだ、王子」
口元に微笑を浮かべて聞いたのは、副隊長のヒューである。
「――勘か?」
黒髪の分隊長は目を開けると、小さな吐息をつく。
「いや、ここに来てからの訓練内容を総括して、そう思った。最初の三ヶ月は、身体と精神を鍛えるしごきが多かったけれど、限界を超えないように調整されていたし、無茶な訓練のあとには必ず休暇が用意されていた。部隊訓練に入ってからは、体力や気合だけじゃクリアできない課題も多かっただろう?」
「まあ、な」
「かなり考えられた訓練内容だよ。おそらく現場を知っていて――でも、それだけじゃないひとが、携わっている」
他の見習い隊士たちが、きょとんとしたように見つめ合う。
「これは想像だけど、採点の方法も単純ではないはずだ。でなきゃ、指導教官があれほど熱心に書き込みをするはずがないさ」
見習い隊士たちの視線が、やや離れた位置にいる中年男の手元に集まった。
薄い板の上に貼り付けられた紙に細々と文字を書き込んでいた指導教官は、はっとしたように手を止めると、苦虫を噛み潰したような顔になった。それからひとつ咳払いをすると、ぎろりとひと睨みして、若者たちの視線を追い払った。
この場にいるのは、十名ほどの見習い隊士で構成された“第一分隊”であり、かなり若い世代――十代後半から二十代前半で構成されていた。
彼らは約七ヶ月間に渡る基礎訓練の仕上げとして課せられた、実技試験の最中だった。
その内容は――指定された日時までに、各分隊に渡された地図の指定された地点にたどり着くこと。
試験に合格できなった場合は、さらなる訓練と追試が課せられる。
すでに五日が経過しているが、その間、ひとりの脱落者も出さず、一度も迷うことなく、“第一分隊”はゴール地点のすぐ近くまできていた。
随行している中年の指導教官は、終始不機嫌そうにしていた。
“第一分隊”は、最短ルートをたどってきたわけではない。
だが、この可愛げのない分隊は、せっかく用意された“険しい道”をすべて避けながら、結果的に最短時間で、この位置までたどり着いたのである。
おまけに今、だらしない格好で休憩までしている。
さらに付け加えるならば、この小生意気な分隊長は、こちらの採点内容にまで言及し、大変遺憾ながら、その予想はある程度的を得ていたのだ。
分隊長の名は、シャーロという。
あまりにも偉そうに、ごく当然のように同期に命令を下すことから、いつの間にか“王子”という呼び名がついたらしい。
経験則からして、分隊長に向いているのはむしろ副隊長のヒューの方だと、指導教官は考えていた。
堂々たる体格、無尽蔵の体力、そして並外れた精神力。
どれひとつとして、シャーロが勝てるものはない、はずであった。
それなのに、ふた月ほど前に結成された“第一分隊”の見習い隊士たちは、自分たちの隊長として、当然のようにシャーロを選択したのである。
ヒューを含めた満場一致で、だ。
その後の部隊訓練での活躍からして、てっきりヒューが仕切っているのではないかと勘ぐったものだが、今回随行して、その考えが間違っていたことを指導教官は知った。
分隊が、極めて高い精度で統率されている。
力を誇示しているわけではない。
先ほどのザツという見習い隊士のように、不満も出る。
しかし、ひとたびシャーロが発言すると、次々と皆が納得し、建設的な意見が増え、それが集約されて分隊の方針になってしまうのだ。
個人的な成績では中の上くらいの見習い隊士であったが、これは認識を改める必要がありそうだと、指導教官は考えていた。
「――王子!」
がさがさと木々の間を駆け抜けながら、ひとりの見習い隊士がやってきた。
「おつかれ、パス」
上半身を起して、シャーロが労う。
「もうすぐ森が切れる。――その先に、ゴールらしき旗があったよ」
その報告に、分隊の仲間から歓声が上がった。
「途中に障害物は?」
シャーロの問いに、パスはやや難しい顔になる。
「うん、川があった。荷物がなかったから渡れたけれど、ちょっと危なかった。水は冷たいし、流れは急だし……」
「そうか。オルガとココの報告を待とう。休んでくれ」
しばらくして、さらに二人の見習い隊士――オルガとココが、異なる方角から戻ってきた。それぞれの報告がまとめられ、最終的なルートが決定される。
心の中で、指導教官は唸り声を上げた。
誰に教えられたわけでもなく、この分隊は斥候を使っているのだ。
しかも、斥候を務める者の負担を軽減するために、その荷物は――鎧や剣すらも――他の見習い隊士たちに分散させるという徹底ぶりである。
「よし、みんな。聞いての通りだ。ここで最後の食事をして、それから出発しよう。何があるか分からないから、水は残しておくように」
シャーロの決定に、“第一分隊”の面々は了承の声を上げた。
その後、多少回り道をしながらも、“第一分隊”は無事に森を抜け、ゴールらしき旗を視認できる位置にたどり着いた。
しかしここで、思いがけないことが起こる。
別のルートをたどってきた“第二分隊”が、ほぼ同時に森の中から現れたのだ。
分隊長の名は、バラン。個人成績はヒューと競るほど優秀だが、自分よりも他人に厳しい傾向があるという評価を受けていた。シャーロに対し、特別な対抗意識を抱いており、ことあるごとに対立している。
あくまでも一方的に、ではあるが……。
“第二分隊”も状況に気付いたようだ。バランが大声で号令を発し、分隊の移動スピードが急激に上がった。
「お、王子、このままだと負けちまうぞ。こっちも走ろう」
たまらず駆け寄ってくるザツを、シャーロはじっと見つめ返す。
「――うっ」
「言っただろう? 早ければいいというものじゃない。あいつらを見ろ。隊列が乱れてバラバラだ。ついていけない仲間もいる」
「で、でもよぉ」
「王子に意見なんて、十年早いぞ、ザツ」
「そうだ、さっさと隊列に戻れ!」
「この、バカザツが!」
「……ううっ、わ、わかったよ。んな怒るなって」
すごすごと引き下がるザツ。
シャーロの隣を歩いていたヒューが苦笑しつつ、意見を述べる。
「確かに、お前のいうことももっともだが、バランに負けるのは気にくわないな。噂じゃ、この実技試験で得点一位の分隊には、ご褒美として“特別休暇”が出るらしいぞ。逃がす手はないんじゃないか?」
「あそこが、ゴールだという保障はない」
「……なに?」
一定のリズムで歩を刻みながら、シャーロはぼそりと呟いた。
「少し、ずれている」
旗までの距離は、“第一分隊”の方が近かったはずだが、“第二分隊”が逆転し、悲鳴にも近い声を上げながらなだれ込んだ。強引に川を渡ったのだろう。服や鎧は濡れており、寒さで皆、震えていた。
「へっ、クソ王子が。ざまぁねえな」
地面に尻をつき、ぜえぜえと荒い息をつきながら“第二分隊”の隊長バランが、シャーロに向かって勝ち誇った。
「やってやったぜ。最後の最後で、逆転だ」
仰向けに地面に倒れこみ、空に向かって両手を突き出す。
「ざまぁみやがれ! 俺たちの――勝ちだっ!」
その満足そうな顔を、彼らの分隊に随行していた若い指導教官が覗き込んだ。
「よく頑張ったね、バラン君」
「……は、はい!」
「さあ、もうひと頑張りだ」
「……え?」
“第二分隊”に随行していた若い指導教官は、バランに説明した。
この旗は、いわゆるゴール地点を示すものではない。
その証拠に、地図に記された目的地の場所とは、かなりずれている。
目算でも明らかにわかるほどに、ずれている。
「本当の目的地は、あそこだ!」
指導教官が指差す先に、新たなる旗が、今――立てられた。
かなりの距離だったが、目視できることからも、今の状態の“第二分隊”でも、少し休憩をとれば、たどり着くことは可能だろう。
しかし――
「ここからは、制限時間があるよ」
「……」
バランと“第二分隊”のメンバーは、呆然とした様子で、指導教官の言葉を聞いていた。
普段であれば、毎日走っている距離。
普段と同じ速度で走れば、問題のない制限時間。
しかし、今の状態では――
「全員。残りの水を飲め」
隣にいる“第一分隊”の隊長からの命令が出た。
「あっぶねー」
「ったく、性格わりーなぁ」
「いやぁ、さすがは王子さま。まじ惚れますわ」
「バラン君、かわいそう。空に向かって拳を突き上げるとかさ」
「あれだけのドヤ顔、二度と見られねぇぞ」
はやし立てるような笑い声が沸き起こったが、副隊長のヒューが注意を促し、それから隊列が組まれた。
「ようし、最後まで気を抜くなよ」
などと言いつつ、ヒューはにやついている。
「では王子、お願いします」
「……」
黒髪の分隊長は副隊長をじろりと睨みつけ、何かを言おうとしたが――結局、大きなため息をついてから、新たな目標地点である旗を見据えた。
「速度は三。号令はザツ。いいな」
「おうよ!」
――数ある分隊の中で唯一、制限時間内にゴールにたどり着いた“第一部隊”は、二日間の特別休暇が与えられたという。
【SS2】本編第二章終了直後のお話です。
十五歳の少女と同居することになって、五日が過ぎた。
その間レイは、仕事以外のことではあまり会話をかわしていなかった。
無駄口が嫌いだという性格もあるが、自分がこの年ごろの少女たちにどう思われるのか、痛いほど身にしみていたからである。
レイは長身で手足も長い。料理をするときに邪魔になるので、髪を短くしている。瞳の色は灰色。狼っぽいらしい。言葉遣いも態度も女らしくない。
そして男以上に女にもてる。
特に、年下の少女たちには。
これまでの経験上、懐かれても困るというのがレイの正直な心境だった。
二年ほど前、この店に来たばかりのころ。まるで王子でも見るかのように目をきらきらさせながらまとわりついてきたとあるウェイトレスの少女に対して、レイもまた王子のように接していたことがあった。
その子はすぐに店を辞めてしまった。
家の事情でもあったのだろうかと残念に思っていたのだが、その後、レイが親しく接するウェイトレスたちは長続きせず、次々と店を辞めていった。
そしてレイは、店長のミサキに注意を受けることになった。
「ようするに、王子さまは誰のものにもなってはいけないわけ」
「どういうこと?」
「女が集まると、いろいろとややこしいのよ」
店を辞めていった少女たちは、他のウェイトレスたちのやっかみを買い、いじめのようなものを受けていたらしい。
このときレイは、自分の中ですっと何かが冷めていくような感覚を受けた。
女ばかりの職場は確かに華やかだが、鮮烈な感情をより合わせたような、見えない糸が絡み合っている。縫い目を乱すような糸は、すぐにほつれてしまうのだ。
特定の子を贔屓にしてはいけない――
それは、レイの中の鉄則であった。
レイが働いている“玉ねぎ娘”には、最大で四十二人の客が入る。可愛らしいもの好きの店長は、自分好みの少女たちを採用しては、自分好みの制服を着せて喜んでいた。これでものかというくらいフリルを使った、ごてごてした服だ。
この先進的な取り組みは、商売的には成功した。
商店会が発行している季刊誌に取り上げられると、“玉ねぎ娘”は瞬く間に人気店になってしまったのである。
しかしこうなると、自分ひとりで調理場を回すことは難しくなってくる。
数を捌くためには、ひとつの鍋で一度に大人数の料理を作らなくてはならない。メニューの選択肢は限られてくるし、盛り付けなどもおざなりになってしまう。
体力的なこと以上に、料理人としての矜持が、レイを悩ませていたのだ。
料理人募集の広告は常に出していたのだが、ここでもミサキは自分の趣味を優先させた。
女性の料理人以外は雇わないという。
「ちょっとサキさん、いい加減にしてよ」
ミサキの伝手で数人の主婦を雇ったことはあったが、まるで使えなかった。
家庭料理と店の料理とでは性質が違う。毎回味が変わるようでは困るし、もたもたしていては注文が溜まる一方だ。
素早く正確に、考えるよりも先に手を動かさなくてはならない。
料理を作る楽しみは食べてくれる人の笑顔だと、とある主婦は断言した。
そもそも、調理場から客の顔など見えない。戻ってきた皿の状態を見て、自分の料理の出来栄えを客観的に判断しなくてはならない。金という対価を払っているわけだから、客も見え透いたお世辞など言ってはくれない。
その主婦はすぐに店を辞めてしまった。
「料理人は、無口で器用な男を雇ってよ」
しかし今度もミサキが雇ったのは女性だった。
よりにもよって、十五歳の女の子だという。
名前はリーザ。亜麻色の髪と空色の瞳を持つ、見るからに純朴そうな少女だった。ほっそりとした身体つきで、抱きしめると折れてしまいそう。
勘弁してくれと、心の中でレイは嘆いた。
「ちょっとレイ、いきなりなにをやらせる気?」
「包丁の握り方から教えるとか、私はごめんだからね。ちょっとしたテストだよ」
レイは水芋を少女に渡して、皮をむかせることにした。
水芋とはその名の通り、水分を多量に含んだ芋である。やわらかい身は少し力を入れただけですぐに崩れてしまう。保存できる期間も短く、家庭ではあまり使われない食材だ。
素人では絶対にうまくむくことはできない。
「その程度で料理人になろうとしたの? 才能ないから、あきらめたほうがいいよ」
そう言って突き放すつもりだった。
それでも少女は、この店で働きたいと主張できるだろうか。
レイは技術力ではなく、覚悟をはかろうとしていたのだ。
しかし――
「できました」
「……」
きれいに皮をむいた水芋を差し出して、少女はにこりと微笑んだのである。
レイは皮をつまみ上げて観察した。
切り方や身の残し方には、料理人としての性格が出る。
丁寧で、むらがない。余計な力が入っておらず、自分のリズムを保てているという証拠だ。
これで文句をつけたら、ただの意地悪になってしまう。
「はっきりいうけど、この仕事は、きついよ?」
「はい!」
負け惜しみのように念を押すと、少女は嬉しそうに微笑んだ。
自分の技術を見せつけて得意げになっている様子でもない。かといって謙遜しているふうでもない。
この店で働けることを、純粋に喜んでいるのだ。
「もう好きにしなよ。私は知らん」
ふてくされたような顔をして、レイは休憩室のソファーに寝そべった。
それから七日後。春の自由市場の最終日の夜に、リーザは“玉ねぎ娘”にやってきた。
家族との別れがつらかったのだろうか。熱に浮かされたような顔をしていたので、内心レイは心配したものだ。
しかし、その心配は杞憂に終わり、翌日からリーザはてきぱきと働き出した。
見習い料理人の仕事といえば、皿洗いと調理場の掃除と相場は決まっているのだが、あまり意味がないのではないかとレイは考えていた。
雑務に時間を使うよりも、知識と技術の習得が先決である。
努めて事務的な口調で、手本を見せながら、レイはリーザの指導を開始した。
ミサキから「初日から、ちょっと飛ばしすぎじゃないの」と心配されたくらいだから、やや気負いすぎていたのかもしれない。
「なんで料理人になろうと思ったの?」
「生活するためです」
微妙な理由だとレイは思った。
料理人に必要な要素をふたつ挙げるならば、絶対的な自信と、病的なまでの想像力と答えるだろう。
迷いのない包丁裁きと、炎の扱い。失敗を恐れて怖がっていては、よい料理など作れはしない。
対照的に、鍋の中の状態はどうなっているのか、肉の火の通り具合はどうだろうかと、神経質に想像しながら加減を調整する必要もある。
大胆かつ、繊細に――
言葉の矛盾をひとつの料理として体現するためには、自信を得るための努力と、想像する才能が伴わなくてはならない、はず。
しかしリーザの様子を見ていると、別の要素を持っているような気がした。
「家で料理とかしてたの?」
「はい。わたしの担当は、家事全般と妹たちの世話でした」
奇妙な表現を使う。
果たしてこの少女は、自分の片腕としてやっていけるのか。
料理人としての素養があるのか。
そんなことを考えているうちに、五日が過ぎた。
「あの、レイさん。朝ですよ」
レイは朝に弱い。早く寝ようが遅く寝ようが関係なく、朝は起きられない。無理やり起こされると、とたんに機嫌がわるくなる。
「……」
酸っぱいものでも口にしたかのような、しかめっ面。さすがに怒鳴ったりはしなかったが、レイは狼のような唸り声を上げた。
「休みなんだし、もうちょっと寝かせてよ」
リーザは不思議そうに小首を傾げた。
朝なのに何故起きないのだろうか、という顔だ。
「あの、朝食を作ったんです」
「あとで食べる」
「わかりました」
レイは二度寝することにした。
昼前になってようやくベッドから出たレイは、食堂兼休憩室に鍋とメモが残されているのを発見した。
「店長がいらっしゃいました。街を案内していただけるそうなので、出かけてきます。スープは温めてください。リーザ」
そういえば、あの子がこの店に来て初めての定休日だった。
ミサキのことだから、「寝ぼすけ王子さまは放っておきましょう」とでも言って、さっさとリーザを連れ出したのだろう。
失敗したとレイは思った。
自分が気をきかせて、昨日の夜あたりに案内を申し出るべきだった。
ため息をつきながら、戸棚からパンを取り出す。
鍋に直接スプーンを突っ込んで、冷めたスープを飲む。
「……」
まず――くはない。
香草? 調味料?
「んん?」
店のスープの作り方は教えているところだが、これは違う。おそらくリーザが家で家族のために作っていたスープなのだろう。
典型的な郷土料理、のような気もするが。
「なに使ってるんだ?」
スプーンの中に浮いている、葉っぱのようなもの。
じっと観察して、匂いを嗅ぎ、食べてみたが、食材がさっぱり分からない。
これがまずければ、変な材料を使うなと注意して終わりなのだが、独特の風味があって美味しいような気もする。温めれば香りも際立つのだろう。
だらだらと休日を過ごしつつも、レイはその食材のことが気になっていた。
ミサキとリーザが帰ってきたのは、夕方である。
「今日は店長に、南区の市場を案内してもらったんです」
ミサキとリーザは両手に買い物袋を抱えていた。
「今朝はわるかったね、リーザ」
「こちらこそ、ごめんなさい。勝手に調理場と食材を使ってしまって」
ミサキがからかうように笑った。
「いいのよ。どうせこの子、朝はパンと水だけだし」
「自分の料理だけだと作る気がしないだけ。リーザがいるなら、ちゃんと作るさ」
売り言葉に買い言葉で、レイはできもしないことを口にした。
ミサキが帰ると、ふたりで夕食の準備に取りかかる。
料理を教える立場にあることから、夕食はレイの指示でリーザが作る取り決めになっていた。だから、リーザはレイの隣で指示を待っていた。
「あ~、その」
どうしても朝のスープが気になっていたレイは、さりげない口調で要求した。
「今日は、リーザの家の料理が食べてみたい」
「わたしの家の、ですか」
「そう。できる?」
「できますけど。お店に出せるような料理は作れませんよ」
「新しい料理の参考になるかもしれないしさ。いい?」
そう言って、無理やり作らせることにした。
「今日は鶏肉を買いましたので、焼き鳥と、あとは野菜のスープ」
リーザは不安そうに聞いてきた。
「で、いいですか?」
「任せた」
プロとして見るならば、リーザの技術はまだまだである。
丁寧ではあるが、包丁さばきは遅いし、正確でもない。
それなのに、仕事は遅くない。
食材や道具類の整理、食器の準備、生ごみの処理。料理の盛り付けが完了すると同時に、片づけが終わっている。
まるで熟練の主婦のように、無駄がなかった。
子どものころ母親に感じていた万能感。十五歳の少女にこのような気持ちを抱くとは、不思議なものである。
しかし、それよりも……。
「なに、これ?」
焼き鳥に塗られたペースト状のもの。
異国の根野菜をすり潰し、香辛料を混ぜたものらしい。
スープの中の具。
酒のつまみなどで食べる、木の実らしい。
独特の香り。
庭に生えていた野草らしい。
「妹たちが大好きな料理なんです」
いや、そういうことじゃなくて。
思わず指摘しそうになったが、料理を批評するのは食べてからだ。
恐る恐る鶏肉を口に入れてみると、じんわりと口の中に染み渡る味だった。派手さはないが、食べ飽きない味。誰にも真似できない家庭の味だった。妹たちが大好きだというが、分かるような気がする。自分でもたまに食べたくなる、と思う。
スープはやや薄めだ。味付けよりも身体のことを考えているのだろう。具が木の実というのは珍しいが、食感がおもしろかった。そして香草の代わりに入っている野草。少し癖がるが、これはこれでありのような気がする。
料理を味わいながら、レイはリーザの様子を観察した。
まっすぐに背筋を伸ばして、少女は静かに食事をしていた。
ナイフとフォークの持ち方。口への運び方。皿の上の状態。
母親は子どもに手本を示すために、きれいな食べ方を心がけるという。
決して急がず、音を立てず、しとやかに。
最初は意識的かもしれないが、やがてそれは自然な仕草となる。
少女の姿は、まさに――
「……」
ふと目が合って、にこりと微笑まれた。
慌てたように、レイは視線を逸らした。
「あの、お口に合いませんでしたか?」
「いや、そうじゃないんだ、その……」
もごもごとした口調で、レイは「うまかったよ」と言った。
なんだろうか。久しく感じることのなかったこの感覚。
胸が、ざわつく。
少し緊張するような、それでいてくすぐったいような。まるで弱々しい子どものころに戻ってしまったかのような。
リーザは食後のお茶をいれると、自分は調理場の後片付けを始めた。軽やかな鼻歌が漏れ聞こえてくる。
彼女が来てから、やたらとお茶を飲む機会が増えたような気がする。頼まなくても出てくるものだから、つい飲んでしまうのだ。
テーブルの上には小さな鉢植えの花があった。昨日までなかったものだ。今日、市場で買ってきたのだろう。こころなしかこの部屋も整理されているようだ。
そういえば、住人が増えたというのに、寝室は逆に広くなったような気がする。
シーツからは日干しした匂いがしたし、クローゼットの中の服も、きちんと折りたたまれていた。
「そういえば、レイさん」
調理場からリーザがひょいと顔を出した。
「石鹸と歯磨剤がきれてたので、買っておきました。タオルかけも壊れているので、修理したいのですが、いいですか?」
「あ、うん。店とか、わかるの?」
「店長にお聞きしました」
すっかり忘れかけていた何かが、戻りかけているような気がした。
あるいはそれは、家庭的な生活の匂いだったのかもしれない。
寝室に入ると、ベッドの上に寝転がって、レイはぼんやりと思考した。
この五日間、自分はリーザに料理の技術や知識を教え込み、自分の片腕として働いてもらうことばかり考えていた。
彼女のことを、何も知ろうとはしなかった。
遅まきながらレイは、リーザに対する印象を考えていたのである。
ちらりと横目で観察する。
亜麻色の髪は緩やかな曲線を描きつつ、肩のあたりでまとまっている。瞳の色は柔和な空色。睫毛が長い。鼻と口は小さく、卵型の小顔にバランスよくまとまっていた。首も肩も華奢。それでも枯れ枝のように見えないのは、意外と胸があり、腰回りが細いからだろう。
性格は素直で、裏表がない。
笑顔が自然で、仕草も軽やかだ。
端的に表現するならば、純真で可憐。
だが、それだけではなかった。
謎の包容力、とでもいおうか。なんとなく逆らい難いような、母親に言いくるめられているような、そんな感覚を受けることもある。
掃除も洗濯もさりげなくこなしているし、自分の知らない料理まで出してくる。
主婦としては、万能なのではないか。
これらを総括すると――
完全無欠の、美少女?
レイはベッドから起き上がった。
窓際にある机と椅子。毎晩リーザはそこで物書きをしているようだった。
「リーザ?」
少女の反応はなかった。
真新しいペンを構えながら、ぼうっとしている。
心なしか頬と耳が赤い。
「なに書いてるの?」
肩越しに覗いてみると、「初めてのキ」という文字で終わっていた。
「あ……」
空色の瞳がレイを捉えて、数瞬後。少女は劇的な反応を見せた。
立派な革表紙の本を抱えながら、悲鳴を上げたのである。
これにはレイも驚いてしまった。
「み、見ました?」
「いや、ぜんぜん。まったく読めなかった」
ここは嘘をついたほうが無難だろう。
「ごめん、リーザ。わるかった」
素直に謝ると、リーザが慌てたように立ち上がる。
「い、いえ。こちらこそ、大声出してごめんなさい、レイさん」
本を胸に抱えながら、落ち着きなく視線をさ迷わせ、それから真っ赤になって俯くリーザは、どこからどう見ても年相応の少女である。
完全無欠なんかじゃなかった。
もし自分に妹がいたら、こんな感じなのだろうか。
「レイでいい」
「……え?」
「さん付けは嫌だから、そうして」
肩の力を抜いたように笑って、レイは手を差し出した。
「今さらだけど、これからよろしく」




