第六章 (9)
「この欄の隣には、奥さまのお名前を記入してください」
「は、はい!」
中央区にある市庁舎内。
婚姻届を記入していたときに、職員が事務的に口にした言葉。
奥さま――思わずどきりとして、リーザは借り物のペンを取り落としてしまった。
「ご主人の住所はチムニ村ですので、こちらでは“住民登録外”という形になります」
あまり聞かない言葉だったが、特に問題になることはないらしい。
二人で並んで、書類に名前や住所などの必要事項を記入していく。
紙を押さえる左手には、真新しい指輪。
ひとときも離したくないけれど、銀製なので手入れが必要になるそうだ。毎日磨いたほうがいいのかしらと聞くと、シャーロは数ヶ月に一回でいいかなと言った。
少しくらい色がついたほうが“感じ”が出るらしい。
カウンターの職員に婚姻届を提出すると、はれて書類上も夫婦になった。
嬉しさは込み上げてきたが、あまり実感が沸かなかった。
やはり結婚式での指輪交換と誓いの口づけが、鮮烈過ぎたからだろう。
こうして左手の薬指を撫で、目を閉じれば、すぐにでもあのときの光景が……。
「リーザ?」
「は、はいっ」
「早くしないと、日が暮れるよ」
いつの間にか通路の途中で立ち止まっていたらしい。
心の中でしっかりしなくちゃと呟いて、リーザはシャーロの元に駆け寄った。
今日は本当に大変な一日だった。
午前中に大聖堂で結婚式。午後からは“玉ねぎ娘”で二次会。
そして婚姻届を出すために、シャーロとリーザは途中で“玉ねぎ娘”を抜け出して、市庁舎に出向いたのである。
もっとも、二次会のほうは酔っ払ったミサキとデュナのせいでぐだぐだになっていた。未成年も多いことだし、すぐにお開きになるだろう。
日暮れまでには、北区の支店に帰ることになっている。
「ずいぶん、寒くなったなぁ」
「もう冬ですね」
ひと月もすれば、雪が降り始めることだろう。
市庁舎から出ると、やや強めの風に煽られた。周囲に高い城壁があるので、あまり風通しのよくない街だが、ときおり複雑な軌道を描く風が舞い上がることがある。
シャーロの手が伸びてきて、リーザの首の後ろを回る。
そして、反対側の肩から抱き寄せられた。
「……」
肩にかかっている手。何故か自分のものよりも、相手の指輪を見ているほうが嬉しいような気がする。
リーザはシャーロに頭をもたれかけた。
「夕食は、どうしようか?」
「今日はお昼が少し遅かったから、軽いものでいいかもしれません」
「食材は足りる?」
現在、ハルムーニ支店には、六人家族が全員そろい、お客が四人も来ている。
合計十人もの素材となると、少し心もとないかもしれない。
「南区で買い物をして帰ろうか」
「はい」
南区は食材等が集まる市場街といわれている。ちなみに、北区は工房が多い工業街。東区は住宅街。王都へと続く門のある西区は流通街。そして中央区は、主要な公共施設が集まる行政街だ。
明確な区分けがあるわけではないのだが、ハルムーニに半年以上住んでいれば、ごく自然と納得してしまう。
“黒馬車”を呼び止めようとしたシャーロに、リーザは提案した。
「あの、まだ時間もありますし。歩いて行きませんか?」
「寒くない?」
「……だからです」
小声で答えたので、シャーロには聞こえなかったようだ。
寒いほうが、こうやって寄り添うことができる。それに、みんなにはわるいけれど、今日は少しでも一緒にいたかった。
南区はリーザにとっても馴染みのある区域である。自由市場が開かれる場所でもあり、週に二回、レイと一緒に“玉ねぎ娘”の食材の買出しもしている。
帽子をかぶった八百屋のおじさんが声をかけてきた。
「お、リーザちゃん。いらっしゃ――な、なんだい、隣にいる男は!」
「ええと……」
なんと答えたらよいのだろうか。
兄、ではない。主人、旦那さま、最愛のひと――?
真っ赤になって迷っているうちに、シャーロが礼儀正しく挨拶した。
「リーザの夫の、シャーロです」
「お、おっと?」
「実は、今日結婚したばかりでして。いつも妻がお世話になっています」
「きょ、今日って、まさか、あの噂は本当なのか?」
「噂とは?」
「中央区の大聖堂で、リーザちゃんが結婚式を挙げたっていう、根も葉もない噂が……」
「事実です」
端的なシャーロの回答に、八百屋のおじさんはがっくりと肩を落とし、それからしばらくして、いつもの調子を取り戻したようだ。
苦々しい表情が少しずつ和らいで、最後には祝福の言葉とともに、お祝い品として野菜を束ごと包んでくれた。
その間ずっと、リーザは胸を高鳴らせていた。
妻がお世話になっています――なんてすてきな言葉なのだろうか。この出来事は日記に書き記す必要があると、心に決める。
その後、店を覗くたびに、みなが驚いたようにシャーロのことを指摘し、同じような会話が繰り返された。
リーザは感動しっぱなしだったが、シャーロは辟易したようだ。
「ちょっとだけ、離れて歩こうか」
「……え」
腕にひっついていると、自分たちというよりも、相手の心情的によろしくないらしい。
少しだけ落ち込んだが、頂き物が増えて、シャーロの両手が塞がってきたこともあり、しかたがないと割り切る。
ほとんどお金を払うことなく、食材がそろってしまった。
あとは北区の支店に帰るだけ。荷物があるので“黒馬車”を探すことにする。
南門の前で、リーザは我知らず立ち止まっていた。
防寒対策で厚着した中年の女性が、スタンド型の店の中で眠っている。その先には、外壁に取り付けられた鉄製の扉があった。
「……リーザ?」
「あ、ごめんなさい」
今日はぼんやりとしてばかりである。
妻になった初日だというのに、夫――に負担ばかりかけている。
慌てたように駆け寄ったリーザだが、何故かシャーロはリーザが来た道を戻って、中年の女性を起した。
「すいません。二人分でお願いします」
「んあ? こんな寒い日に、外壁に登るのかい?」
「お願いします」
「物好きだねぇ。日が暮れたら店じまいだよ」
愛想のない答えに礼を述べて、シャーロはリーザに声をかけた。
「ほら、行くよ?」
二人にとって思い出の場所。
「で、でも。荷物が」
今日ほど訪れるのにふさわしい日はない。
「ゆっくり登ればだいじょうぶだよ」
一瞬だけ、そう思ったのだ。
「は、はい」
シャーロの両手には紙袋。リーザもひとつ胸に抱えている。果物や野菜がいっぱい詰っていて、視界はわるいが、足元に気をつけながら慎重に螺旋階段を登り、無事に外壁の頂上にたどり着いた。
自分たち以外には、誰もいない。風が強く、気温は低い。長時間はいられないだろう。
紙袋を壁際に置くと、シャーロは身体をほぐすように伸びをする。
そして、南側に広がる景色を眺めた。
どこか懐かしそうに、そしてどこか寂しそうに。
それは、リーザが初めて見る横顔だった。
いつも冷静沈着シャーロだが、よくよく観察すると、表情に微妙な変化があることをリーザは知っていた。それは、瞬間的な眉毛の角度だったり、目尻の動きだったりするのだが、言葉で表現するのは難しい。
ただ、困難な問題に直面したとき、エルミナのいたずらに呆れたとき、商売がうまくいって機嫌がよかったとき、リーザはシャーロの心情をなんとなく察することができた。
しかし、寂しそうだと感じたことは今までなかった。
遠くへ、行ってしまう――
そのことを意識した瞬間、リーザはシャーロに抱きついていた。
もうすぐ、そして確実にシャーロは旅立ってしまう。一番大切なひとが、いなくなってしまう。
いつ戻ってくるのかは分からない。
無事に戻ってこれるかすら分からない。
厳然たる事実を認識し、改めて怯える。
だから、自分の存在が忘れられないように、リーザは強く、強く抱きしめた。
「……帰ってくるよ」
多くの言葉を尽くしても、説得力を持たせることはできない。
そのことを一番よく分かっているのは、シャーロだろう。
言葉を交わすこともなく、愛の口づけを交わすわけでもなく、ただ互いの存在を刻みつけるかのように、二人はいつまでも抱き合っていた。




