第六章 (7)
無機質な石造りの空間は、静謐な空気で満たされていた。
巨大な吹き抜け構造の聖堂内。その中の一点を、数百もの人々が注視している。
正式な招待客は二十名ほどだが、その周囲を百名以上の教会の関係者と街の名士たちが取り囲んでいる、二階の観覧席には礼服すら身につけていない市民たちで埋め尽くされていた。
ハルムーニの中央区、大聖堂。
ここを個人的な式典の会場として利用するには、莫大な寄進が必要とされる。
たが、金を出せばよいというわけではない。
この地を治める貴族か、あるいは地元への貢献度の高い名士か。とにかく、教会に深い繋がりを持つ人物でなければ、まず門前払いとなる。たとえ許可されたとしても、安全面を考慮して、関係者以外立ち入り禁止となるのが通例だ。
しかし、本日はどういうわけか、この格式高い大聖堂で無名であるはずの一市民の結婚式が執り行われることになり、しかも観覧席については開放されることになった。
しかも、遥か遠方より枢機卿――大司教の叙階を受けた聖職者の中で、特に選ばれた者――がわざわざやってきて、式を執り行うという。
いったい大聖堂での結婚式とはどういったものなのだろうかと、もの見高い人々が殺到した。彼らは二階席で沈黙を守りつつ、はち切れんばかりの興奮と好奇心で、階下の様子を見守っている。
一方の正式な招待客たちは、ごく一部の子どもたちを除いて動揺を隠せない様子だった。居心地がわるそうにしながらも、圧倒的な雰囲気に飲まれたまま、直立している。
すべての注目を集める祭壇の前には、白い大司教冠と紫色の聖礼服を身につけた枢機卿と、ひと組の若いカップルがいた。
新郎は十七歳。身につけているのは黒色の礼服。ある程度年齢を選ぶ服装だが、黒色の髪と瞳、そして落ち着き払った表情や態度が実にさまになっていた。
新婦はさらに若く、あとひと月で十六歳になる。亜麻色の髪と空色の瞳をもつ可憐な少女で、そのウエディングドレスは少し変わっていた。
通常、このような式典に用いられる衣装はかなり豪華で、刺繍や飾りに凝るものだ。色も赤や紺といった色味の強いものが好まれる傾向にある。
しかし、新婦が身につけているドレスは純白で、ゆったりとした膨らみを持たせるはずの肩の部分がなく、白い肌がむき出しになっていた。袖もなく、代わりに肘まである薄いレースのグローブをつけている。胸の部分もシンプルで、縁のところにレースの飾りつけがあるのみ。スカートは後方に長く伸びる形状。さらに帯の部分が蝶の羽のような形状をしている。
頭にはティアラではなく、白い花飾り。
森の奥にひっそりと咲く白ユリのような、凛とした美しさ。
会場のいたるところで、感嘆とも羨望ともつかぬため息が漏れた。
このウェディングドレスが、新婦の友人であり、専門学校に通う服飾士の卵たちの作品であることを知るものは少ない。
「大地とひととを見守る我らが主よ。清らかなる光の下、あなたの祝福を望む男女がここにおります。聖なる契約の場を開くことを、お許しください」
朗々たる声で神への奏上を紡ぐのは、デュナ枢機卿である。
ひとのよさそうな中年の男性で、真面目な顔をしていても笑顔に見える。
「汝シャーロは、リーザを妻とし、今このときより、我らが主のもとに召されるそのときまで、夫として愛と忠実を尽くすことを誓いますか?」
「……誓います」
「汝リーザは、シャーロを夫とし、今このときより、我らが主のもとに召されるそのときまで、妻として愛と忠実を尽くすことを誓いますか?」
「……はい。誓います」
デュナはにこりと笑い、右手を軽く振って司教を呼び寄せる。
街の者がよく知り、尊敬を集めている大聖堂の責任者だ。
恭しく、一歩一歩確かめるように、司教はふたつの結婚指輪を運んできた。
「それでは、途切れることのない輪を交換することで、誓いの証とします」
シャーロはシンプルな銀の指輪をつかみ、リーザの手を取る。
「……」
けぶるような睫が、わずかに震える。
淀みのない動作で左手の薬指に指輪をはめられると、薄く紅を引いた唇が少し強く結ばれた。
涙を堪えているのだ。
シャーロにも指輪がはめられたことを確認してから、デュナは儀式の作法を追加した。
「では、夫より妻に、最初の仕事を。愛の接吻を捧げなさい」
「……!」
事前の説明なしに、いきなりである。
結婚式は指輪の交換をもって終了するのが通例である。神の御前で口づけをするなど、聞いたこともない。
シャーロがちらりと横目で確認すると、中年の枢機卿はいたずらをしかけた少年のように、片目を閉じた。
周囲の人々の戸惑う気配が祭壇まで伝わってくる。
同じく動揺したリーザをまっすぐに見つめて、シャーロは安心させるように微笑む。
そのとき、高い位置にあるいくつかの丸窓から光が差し込んだ。
雲が流れ、太陽が顔を出したのだろう。
単なる自然現象ではるが、この建物は光が祭壇に集まるように設計さている。
しかも計ったようなタイミング。
それはあたかも、神の祝福が具現化したかのような情景だった。
人々は息を飲み、感動に打ち震える。
いくつ筋もの白い光に照らされる中、リーザがわずかに顎を上げる。シャーロの唇が重なると、透明な雫が白い頬を流れ落ちた。
「――我らが主よ、照覧あれ!」
両手を大きく左右に広げ、デュナは宣言した。
「今ここに、新たなる夫婦が誕生いたしました。この先、幾多の試練の雨が降りかかろうとも、互いの愛を屋根とし、無事に乗り越えんことを。そして、聖なる契約が全うされることを願い、聖歌を捧げましょう」
祭壇の脇にいた二十名ほどの聖歌隊が、静かに、そして力強い歌を紡ぎ出す。
その歌声は出席者全体に広がっていく。
シャーロとリーザは手を取り合い、大聖堂の祭壇前から出入口へと、暗褐色の絨毯の上を歩いていく。
「おめでとう!」
吹き抜けの二階席から、声がかけられた。
シャーロたちのことを何も知らない、一市民の声だ。
二人は立ち止まり、周囲を見渡した。
別の方角から、甲高い口笛の音。
「奥さんを大切にしろよ!」
「お幸せに!」
大きな拍手。口笛や、はやしたてるような声。決して上品とはいえないが、素朴な心情が伝わってくる。
シャーロとリーザがそろってお辞儀すると、初々しい夫婦の前途を祝福するかのように、よりいっそう大きな歓声が沸き起こった。
……結婚式を遡ること、数日前。
教会の事務所にて初めて対面したデュナは、夕日が沈んだ直後の空のような、紫色の神服を身につけていた。
シャーロは慎重に言葉を選んだ。
「デュナ猊下、でいらっしゃいますか?」
「そうだよ、始めまして。ああ、かしこまらなくてもいいから。普通にデュナさんって呼んでくれるかな。そっちのほうが、僕も肩の力を抜けるしね」
シャーロが驚いたのは、予想していたよりも気安く、そしてあまりにも位階が高かったからである。
結婚の儀を執り行うことができる聖職者は、神父である。正確には神父以上の位階なのだが、まさか枢機卿とは思わなかった。
現在、この国には十人の枢機卿がいる。彼らは教会の最高責任者である教皇の、次期後継者候補でもある。しかも、デュナは四十代半ばくらいに見えた。ひょっとすると、最年少の枢機卿なのかもしれない。
さすがに姿勢を正しながらソファーに腰をかけると、デュナは突然テーブルに手をついて、頭を下げた。
「――すまない、シャーロ君、リーザ君!」
顔を上げると、額に浮かんだ脂汗をハンカチで押さえつつ、中年の枢機卿はしどろもどろに説明した。
曰く、自分は君たちの結婚式に参加し、祝福の祈りを捧げるために、この街までやってきた。
数日間は宿泊することになるので、その旨を手紙にしたため、ハルムーニの事務所に届けたところ、責任者である司教が気を回しすぎた。
何しろ枢機卿がわざわざやってきてまで執り行う結婚式である。対象となるカップルがただ者であるはずがない。
司教は強引に大聖堂の予定を空け、聖職員全員に予行演習までさせてから、準備万端の状態でデュナ枢機卿を迎えたのであった。
「街の有力者にまで連絡がいってるらしくてね。是非とも参加……というか、見学したいって。ああ、困った困った。どうしたらいいと思う?」
シャーロとリーザは顔を見合わせた。
「その、正直に話すわけにはいかないのですか?」
至極まっとうな意見をシャーロは口にしたのだが、デュナは「とんでもない!」と目を丸くした。
「そんなことをしたら、ここの責任者が処罰されちゃうよ。大切な典礼をすっとばして予約しちゃったみたいだし、すでに告知されちゃってるし、僕も恥をかくし……」
最後に本音らしい言葉を漏らして、デュナは何かを期待するような子どものような眼差しでシャーロを見つめた。
実に分かりやすい表情である。
「つまり――」
やや憮然とした表情で、シャーロが頷く。
「大聖堂で、式を執り行うのですね?」
「その通り! さすがはシャーロ君だ。手紙の中でモズ先生がおっしゃっていたよ。とても飲み込みが早いってね」
懸案事項が片付くと、デュナはシャーロとリーザに次々と質問した。
情緒豊かな、子どものような人物である。
モズ神父の話を聞いては声を詰らせ、“森緑屋”が発展してく話に目を輝かせる。最後にはシャーロがリーザに送ったプロポーズの言葉まで知りたがったが、シャーロはお茶を濁した。隣でリーザが真っ赤になっていたからである。
「とにかく、君たちは何も心配しなくていいよ。僕も見習い時代に、モズ先生の教えを受けた身だからね。いわば君たちの兄弟子みたいなものさ。当日はばっちり決めてあげるから、期待していてね」
参加者が少ないと寂しいからという理由で、デュナは二階観覧席の一般開放を決めた。確かに街の有力者や教会の関係者が大半を占める結婚式など、息苦しいだけだろう。
それから、大聖堂前の掲示板にも告知文が張り出されたことで、シャーロとリーザの結婚式は、ハルムーニの一大イベントになってしまったのである。
厳粛な式典の裏側でそんなどたばた劇が起こっていたことなど、招待客たちは知る由もなかった。




