第六章 約束の涙 (1)
「ふんっ。なんや、けったいなことになっとるみたいやな」
パキがぼやきまじりの呟きを漏らした。
夏の自由市場では、黒い軍服姿の隊士たちが大通りを闊歩し、関係者や客たちに大迷惑をかけていたが、まだしも活気はあった。
季節が変わり、人々の装いも変わり、自由市場の雰囲気もまた変わりつつある。
きっかけは、北部地方から疎開してきた一団が、ハルムーニへたどり着いたことにあった。
春先から初夏にかけて実施された大遠征は、失敗。地方軍は多数の死傷者を出して撤退したという。
敵国の反撃を恐れた国境沿いの住民は、我先にと逃げ出した。
動き出しが早かったのは、情報の入手の早い権力者や、富豪たちである。
比較的安全だと思われる東部地方で拠点を構えると、彼らは自分たちが体験した出来事と、悲観的な今後の予想について、地元住民に吹聴して回ったのだ。
さらに、ハルムーニにおいても近々強制的な徴兵が行われるという噂が流れ、住民の不安は膨れ上がり、今なお落ち着いてはいない。
「ようするに、浮かれとる場合やないっちゅうわけや。軍や行政から正式な発表が出んから、自由市場も中止にはならんかったけどな。ま、徴兵にとられたやつは、気の毒なこっちゃ」
「――おい」
“森緑屋”の支柱に遠慮なく背中を預けていたパキに、シャーロが声をかけた。
「商売のじゃまだ。自分の店に戻れ」
「相変わらず、つれないやっちゃな」
からからと笑って、パキは片手を上げる。
「ま、わいも暇やないからな。今度また、とっておきの“秘策”を教えたるわ。リーザちゃんも、またな」
「……はい」
「また、遊びにくるわ」
やや活気を失ったとはいえ、秋の自由市場の初日である。
森の恵みを中心とした商品は安定した売上げを稼げるし、夏の間に収穫した“カラシバ薬茶”もある程度の知名度を得たようで、飛ぶように売れた。
新商品としては、じめじめした日陰を好む植物“グンシ”の茎をすりつぶし、油で固めた“グンシ軟膏”がある。
チムニ村では馴染みのもの。ハルムーニの薬局でも見つけることはできるが、知名度は低く、値段のわりに量が少ない。
そこでシャーロは、大量に“グンシ軟膏”を作り、宣伝に努め、値段を下げて期間内に売りつくすことにしたのだ。さらに、器を持参すれば量り売りできるようにもした。
“グンシ軟膏”は、おもに手荒れを防ぐためのもの。調理場に立つ者ならば、毎日でも使いたいところだが、ちょっとした贅沢品でもある。容器代を差し引くことで、さらに価格を下げようとしたわけだが、七日間という期間内に器のみを持参してくる客は少ない。
これは、次回以降への布石でもあった。
全体的な売上げは、春の自由市場と比べて、微減といったところ。
仕切人への報告を終えると、軽く食事をとってから、公浴場へ行き、とりあえず寝泊りができる状態になった支店に向かう。
倉庫から補充する商品を片手荷車に積み込んで、明日の準備は完了。英気を養うために、早めに休むことにする。
個室は、やはりありがたい。
他人と相部屋で眠るという行為は、特に意識をしなくても疲れるものだ。中年男のいびきや歯軋りに悩まされることもないし、こちらも気を遣う必要はない。
ベッドも広くて柔らかい。
柔らかいのは、ベッドだけではないのだが……。
「シャーロ兄さん、気持ちいいですか?」
「うん」
二人でベッドの上に座り、シャーロはリーザに――肩をもんでもらっていた。
疲れているのはお互いさまなのだが、リーザがやるといってきかなかったのだ。
「他にも、なにかして欲しかったら言ってください」
「……」
自由市場のときから、いや、ユニエの森を出発してから、リーザの様子はおかしかった。
無言のまま甘えてきたり、考え事をして黙り込んだり、今のように張り切ってみたり。不安定な精神状態そのままに、行動がちぐはぐだ。
シャーロ自身、いまだ自分の心情を整理しきれていないのだから、仕方のないことだろう。
戦争という強大な事象によって引き裂かれる恋人たち。演劇であれば手垢にまみれた題材なのだろうが、自分たちの悲運を嘆き悲しみ、涙を流して終わるわけにはいかない。
残された家族のために、現実的な対応も必要になってくる。
しかし今は、何よりも優先すべきことがあった。
「そばに、いて」
「……」
「できる限り――」
肩を揉む手が止まる。
リーザの額が背中に押し付けられ、わずかに震えが伝わってきた。
ゆっくりと身体の向きを変えて、シャーロはリーザと向かい合った。
子どもをあやすように頭を撫でる。てっきり泣いていると思ったのだが、顔を上げたリーザは、強い意志を秘めた、ほんの少しだけわがままな上目遣いだった。
「わたし、結婚しますから」
「……え?」
「シャーロ兄さんが帰ってきてからとか、嫌ですから」
意表を突かれたものの、すぐにシャーロはその心情を理解した。
徴兵された地方軍の隊士は、いつ、そして無事に戻ってこれるかどうかさえ分からない身だ。相手のことを考えるならば、その務めを終えて帰ってくるまで、結婚を延期、あるいは婚約をいったん解消する選択肢もあるだろう。
実際、シャーロはそのことについて検討していた。
だがそれは、自分の“死”が前提となる考え方だ。
危険に対する安全策ともいえる。
絶対に無事に帰ってくる。だから、“妻”として待つ。
それは、リーザの決意表明なのだろう。
「分かった。結婚しよう」
「はい」
「式の日取りも、決めようか」
安心というにはほど遠いかもしれないが、リーザは力を抜くようにほっと息をついて、シャーロの胸に顔をうずめた。
「ごめんなさい。わがままを言って」
守るべき妹、そして愛するこの少女に対して、自分は何も与えることはできないのだろうか。
震える肩と背中を抱きながら、シャーロは思考をめぐらせる。
いや、与えるという考え方は、どうにも上から目線だ。自分たちはパートナーになるのだから、互いに支え合い、ともに幸福を得なくてはならない。
そのとき、シャーロの頭の中に、とある考えが浮かんだ。
慎重に検討したところ、特に問題があるとは思えなかった。
「子ども、作ろうか?」
「……え?」
思わず顔を上げたリーザが、きょとんとする。
「入隊時には一時金が支給されるからね。軍人とはいえ、一応、国仕えになるわけだから、給金も保障される。エルとメグの学費も払えるだろうし、もしリーザが“玉ねぎ娘”を休むことになったとしても、生活は成り立つと思う」
それに、自分にもしものことがあった場合、扶養家族に対しては“遺族年金”が支給されるはず。
もちろん、国が成り立っていることが前提条件ではあるが、地方軍が敗れたとしても、この国には王立軍や貴族軍がある。現時点では、国の存亡まで計算に入れる必要はないだろう。
もうひとつ、別の側面もあった。
自分の“血”を残すことが、生物としての生きる目的という考え方だ。
相手が心から望むのであれば、多少の無責任は覚悟の上でこと運んだとしても、許される範囲なのではないだろうか。
「子ども……赤ちゃん」
言葉の意味を理解し、想像の世界から戻ってくると、リーザは瞬間的に顔を真っ赤にした。
しかし、視線はそらさない。
大きく開いた目を潤ませながら、空色の瞳に恥じらいと戸惑い、そして期待を込めて、リーザはこくりと頷いた。
負の思考から正の思考へと転じたとき、ひとは希望と喜びを見出すことができる。意外と単純なもので、幸福や不幸などという状態は、考え方ひとつなのかもしれない。
まるで風邪をひいたかのように熱を帯びた、それでいて滑らかな少女の頬を、シャーロの指が撫でる。
されるがままになりながら、リーザがわずかに顎を上げて目を閉じる。
何度目かの――もう数は忘れてしまったが――口づけ。
今日の疲れも明日が早いことも頭の片隅に押しやって、今この瞬間の気持ちと感覚だけを確かめ合う。
「んっ、シャーロ、兄さん……」
もつれながらベッドに倒れ込むと、呼吸を乱しながら、リーザが見つめてくる。
空色の瞳には悲しみと喜びが溶け合っていたが、それらの感情を閉じ込めてしまうほどの、強い決意の光が宿っていた。
「永久に、愛してます」




