第五章 (9)
“森緑屋”ハルムーニ支店は、その敷地内に大きな倉庫と馬小屋があり、土地が限られている城塞都市の中では、かなり珍しい部類に入る物件だ。
レンガ造りの本宅と倉庫は、そのままの状態でも利用可能だが、木製の馬小屋は屋根に一部が腐っていた。ユニエの森から運んできた資材を使って、シャーロとダンが修繕作業を開始する。
井戸の泥さらいと下水の調査については、専用の業者に頼むことにしたが、すぐに来てくれるわけではない。秋の自由市場の終了に合わせて、予約することにした。
家具類については、ベッドを三台組み立てて寝泊りができるようにし、いくつかのテーブルと椅子を配置するにとどまった。今後は、書類棚やクローゼット、仕事机なども必要になってくるだろう。
リビングに併設されている調理場は何もない状態。包丁や鍋などの調理器具は、リーザの意見を取り入れながら購入する予定である。
とりあえずは雨風が凌げる程度の仮住まいだ。本格的に生活するには、時間をかけて様々な生活用品をそろえる必要があるだろう。
「ここで、みんなが暮らすんだね」
「ああ。でも、何かあったとき、すぐに駆けつけられるとは限らない。しっかりと準備しないとな」
シャーロとダンが住むことになるかは未定だが、この家で生活する家族のために、全力で修繕し、掃除をする。
予定以上の作業をこなしてユニエの森に戻ると、秋の自由市場の準備はほぼ完了しており、“怠け箱”の組み立て作業も順調に進んでいた。
一日五台として、単純計算で、ひと月で約百五十台。
サナ、モモ、クミの三人が“工作組”に合流すれば、さらに生産能力は上がるだろう。
今の“森緑屋”には、自由市場の準備と“怠け箱”の生産を、同時に行えるだけの力を備えつつあった。
また、今後の展開しだいではあるが、ハルムーニ支店が機能してくれば、自由市場に頼らずとも、商売が成り立つかもしれない。
「“森緑屋”は、小売りより卸売りを目指すべきだと思う。そのためには、商品力と、営業力をつける必要がある。今後、数年をかけて……」
これまで一歩一歩、着実に進んできた道のり。
まさに大空に向かって羽ばたこうとする、起点となる時期。
だが、しかし――
家族に向かって語ったシャーロの構想を、その根底を覆すような出来事が、突然、なんの前触れもなく襲いかかった。
それは秋の自由市場へ出発する直前。小雨がぱらつく昼前のことであった。
道がぬかるむと、馬車の車輪が滑って事故が起こりやすくなる。明日の天気を気にしながら、シャーロは作業室でひとり、“怠け箱”の調整作業をこなしていた。
ふいに、玄関のほうからひとの声が聞こえた、ような気がした。
何か固いものが床に落ちる音。
そして、エルミナの叫び声――間違いない。
急いで向かうと、そこには村長の息子、ヤドニがいた。
ヤドニはリーザの手を強引につかんでおり、エルミナとメグが必死に引き離そうとしていた。
「なにをしている!」
一瞬の迷いもなく間に割って入り、手をひねり上げると、酔っ払った村長の息子は力なく床の上に倒れ込んだ。
顔が赤く、目つきが座っている。床の上には酒瓶が転がっていた。かなり泥酔しているらしい。
騒ぎを聞きつけて、倉庫のほうからマルコもやってきた。
「なにを、していた?」
冷たい声で詰問すると、ヤドニは呼吸を荒げながら「へっ」と、力なく笑った。
「リーザ、だいじょうぶか?」
「は、はい」
「エルとメグを、リビングに――」
妹たちをかばうように立ちふさがるシャーロに対して、ヤドニは敵意をむき出しにして叫んだ。
「この、くそガキがっ! いっぱしに家長気取りか!」
いっぱしもなにも家長そのものなのだが、この状況では説明しても無駄だろう。
「出て行け。そして二度と、この家には近寄よるな」
「うるせぇ、指図すんじゃねぇ! この俺を誰だと思ってる」
「誰なんだ? 言ってみろ」
村長の息子。二十歳を過ぎて親の威光にすがることに対して、少しは羞恥心を感じたらしい。言いかけた言葉を飲み込むと、ヤドニはよろよろと立ち上がった。
「……シャーロ。そのすかした顔も、これで見納めだ。お前はもう、おしまいなんだよ! くそが、ざまぁみやがれ!」
勝ち誇ったように吐き捨ててから、ヤドニは懐から取り出した封筒を床の上に叩きつけた。そして、マルコを押しのけながら玄関を出て、おぼつかない動作で愛馬にまたがった。嫌がる馬に鞭を入れ、猛スピードで駆け出す。
無事に家に戻れるかどうかは分からないが、途中で落馬したとしても自業自得だろう。
「シャーロ兄さん……」
「怪我はないかい?」
「はい」
「ヤドニに、なにを言われた?」
状況を確認すると、リーザは「分かりません」と答えた。
玄関の扉が叩かれたので出迎えると、そこには酔っ払ったヤドニがいた。酒瓶を手にしたまま、彼はろれつの回らない口調で、何やら呟きをもらしたという。どうにか聞き取れた言葉は「結婚するのか?」のひと言。
エルミナ曰く「リザ姉のやきもち爆発事件」から、すでに半月が過ぎ、シャーロとリーザの婚約の噂は村中に広まっていた。
とにかく聞かれたので、素直に「そうです」と答えると、突然ヤドニは態度を豹変させ、つかみかかってきたのである。
リーザとしては、よく分からないと表現するしかない状況だった。
「あいつは、ただの酔っ払いだ。リーザが気にすることはない。エルとメグも、だいじょうぶか?」
二人とも衝撃を受けたようだが、神妙な面持ちで頷く。
シャーロは床の上に残された封筒を手に取った。
かなり上質な紙が使われているようだ。封緘印が押されているが、そのデザインは地方軍のもの。
頭の中で不吉な予測を思い描き、シャーロはため息をついた。
「……手段を、選ばないひとだな」
封筒を空けると、その中身はシャーロに対する地方軍への“召集令状”だった。
実際に目にしたことはなくても、その存在は広く知られていた。
たった一枚の紙切れで、ひとの運命を――その生死さえも左右する、死神の告知。
「シャーロ兄さん……」
肩越しに表題を確認したのか、リーザの手がシャーロの服をつかみ、震える。
「一度、リビングに戻ろう。話は、それからだ」
しかし、あまりにも重い、そして厳然たる事実を前に、気休めの言葉など意味をなさない。とにかくリーザの気持ちを落ち着かせてから、雨の中、シャーロは徒歩で村長宅へと向かった。
寄り道でもしているのか、ヤドニはまだ帰宅していないようだ。戸口に出てきた村長に断わって、屋敷の中に入る。
そこは、薄暗く冷たい部屋だった。
漂ってくるのは、濃密なワインの匂い。
屋根を叩く雨音が、やけに耳につく。
「……いらっしゃい、シャーロ君」
出窓に半身を預けるようにして、タミル夫人が気だるそうに外の景色を眺めていた。
目元がくぼみ、疲れが表情に出ている。
片手にはワイングラス。近くにある小さな丸テーブルには、ワインの酒瓶が三本。
いったいどれだけの酒の量を、どれだけの期間飲み続けているのか。味見程度にしか酒を口にしないシャーロには判断ができなかったが、肉体的にも精神的にも不健康な状態であることは確かだろう。
「なにを、聞きたいのかしら?」
「ことの顛末を」
「……知りたいだけ?」
シャーロは肯定した。
そう。単純に彼は、状況を確認したかったのである。
非常時を除いて、この国では強制的な徴兵は行われていない。本人の意思表示がない限り、突然“召集令状”が届くということはないはずなのだ。
もちろん、希望した覚えもない。
夏の自由市場のときに大規模な遠征の噂は耳にしたが、徴兵の話はなかった。平民が新米兵士になるまでには、少なくとも一年はかかる。遠征に間に合うはずもないだろう。
酒臭い息を吐いて、タミル夫人は語りだした。
「もともと、この村で志願兵を募るようにというお達しが来たのは、春先のことよ。もちろん無視したけれど」
人口も産業も少ない村である。次の世代の担い手が軍に志願して、村を出てしまうような状況を、村を管理する立場の者が望むはずもなかった。
「そして、夏の初めくらいかしら。大規模遠征の噂がぽつぽつと出始めたわ」
夏の自由市場――ハルムーニの南門前通りでも、黒い軍服をきた軍人の姿をあちこちで見かけた。
仕切人のヘズミの話では、北部地方で遠征が行われる予定であり、そのための補充要員として、東部地方の兵士が集められているらしいとのことだった。
「ここは、王都から遠く離れた辺境の村ですからね。噂が届くのも時間がかかる。だから、夏の時点で、すでに遠征は行われていた――そう考えることも、できなくて?」
「遠征の結果、東部地方の兵士たちが大量に北部地方へ送られる事態が起こった、ということですか?」
「別に、情勢を見切ったわけではないわ。これが届いたから分かっただけよ」
タミル夫人は引き出しから一枚の羊皮紙を出し、まるでゴミでも扱うかのように床に投げ捨てた。
拾って確認すると、それは国王からの“命令状”だった。
軍備を拡充し、国防の安定を図るため、各村においては、地方軍への隊士を推薦すべしとある。その人数は人口によって決まっており、チムニ村からは一名。また、この命令状の内容ついては、推薦者が決定するまでは外部に漏らすことを固く禁ず、とあった。
「ハルムーニで行われた“村長会”で配られたものよ。およそ人口五百に対してひとり。ハルムーニだと百人近くになるわね。今ごろきっと大騒ぎだわ」
「つまり、北部地方の大遠征は失敗し、地方軍は多くの隊士を失った。国はその補充にやっきになっている?」
「会議では、戦況は拮抗していると説明していたらしいけれど、まあ嘘よね。子どもだって分かるわ」
タミル夫人は机の上のワイン瓶を手に取り、グラスにたっぷりと注ぎ込んだ。
「国の情勢はともかく、わたくしは天啓だと思ったわ。“村長会”はあの――」
嫌なことを思い出したように、鼻の頭をしかめる。
「“調停会議”のあと、すぐに開催されたのだから」
ただの偶然だろうが、それを運命と読み替えるひともいるのだろう。
どちらにしろ、推薦する責任と権限は村長にある。すでに推薦状は国に送られ、その結果として“召集令状”が届いた。
「……正直、あなたのことが、怖いのよ」
タミル夫人は独白した。
「これまでは森の中でこそこそやっていた子どもたちが、今は村人たちを、しかも比較的若い女性たちを引き込んで、大きなことをしようとしている。いずれわたくしにとって、やっかいな勢力になるわ」
特に今は、村に対するタミル夫人の影響力は、著しく弱まっている。不満分子を抑えきれない状況に陥ったとき、突然、破綻が訪れるかもしれない。
「次期村長に、ヤドニちゃんはふさわしくない。そんな声がちらほらと出始めているわ。そして、他にふさわしい人物が台頭したとき、その雑音は勢いを増し、拡散されて、大きな力となるでしょう。わたくしの手に負えないほどに」
今ならば、まだ間に合う。たとえひびの入った牙でも、その容赦のなさを見せつけることによって、果断なる実行力を示すことによって、まばらなざわめきを抑えつけることができる。
「賢いシャーロ君。もし、あなたがわたくしの子どもだったなら、このような思いをすることもなかったでしょうね。ともに力を合わせ、チムニ村の発展にすべてを注ぐことができたのかもしれない。でも、あなたはわたくしの子どもではない。だから、ヤドニちゃんのために、戦場に行ってもらう。できるならば――」
タミル夫人は、おそらく本心からの言葉を口にした。
「遠い地の果てで、死んでくれると助かるわ」
村長夫人としての仮面を完全に脱ぎ捨て、己の業をむき出しにしている。
権力者特有の強迫観念か。それとも、子供を守ろうとする過剰な母性本能化か。
いや、ただの依存だとシャーロは結論づけた。
大人になった子供を自立させず、守ろうとする行為そのものが生きる目的として成立している。他の要素がまざっている可能性もあるが、相手の心情を分析するよりも他に、シャーロには確認すべきことがあった。
「俺ひとりで、おさめてくれますか?」
「……」
「これで、終わりにしましょう。今後、他の家族には手を出さないでください」
ワイングラスには口をつけず、タミル夫人はそのままテーブルの上に置いた。
「できないと言ったら?」
「対処します。全力で――」
現状では、エルミナ、メグの住民登録をハルムーニに移し、ダンとマルコはチムニ村のままとする予定だった。ユニエの森の教会はあくまでも孤児院であり、シャーロたちのものではない。全員の住民記録を異動させた瞬間、本拠地そのものが喪失する可能性があるからだ。
特にダンは鍛冶師として修行中であり、身動きが取れない。
タミル夫人の答えは「分からない」だった。
聞きたいことは聞けた。踵を返したシャーロを、タミル夫人が呼び止めた。
「ねえ、シャーロ君。ひょんなことから、奇妙な“設計図”が手に入ったのだけれど。返して欲しい?」
「いえ、必要ありません」
「そう」
振り返りもせずシャーロが出て行ったあと、タミル夫人はくすりと笑った。
次いでくつくつと喉を鳴らし、最後は大口を開けて笑い出す。
「やっぱり――たいした子よ、あなたわっ!」
突然笑いをおさめると、タミル夫人はテーブルの上のワイングラス払いのけ、血のような液体を絨毯の上にぶちまけた。




