第五章 (4)
まだ落葉の時期には早いが、森の中には過去に降り積もった木の葉が大量に堆積している。歩くと足の踝あたりまで埋まるほどだが、短い足をちょこちょこ動かして、子犬のハルは縦横無尽に駆け回っていた。
リードを引いているのはダンである。
狙う獲物は二種類のキノコ。
格子茸と香露茸。双方ともに、地面を掘って収穫する。
格子茸は目の細かな蜂の巣のような形状で、歯ごたえがよく、味が染み込みやすい性質がある。一方の香露茸は小さな球状で、表面に小さな無数の突起があり、独特の香りがする。
どちらも高級食材だが、特に香露茸は希少価値が高く、別名として、このキノコをこよなく愛した古の美食王“ビスト”の名前がつけられていた。
「でも俺は、格子茸のほうが好きだな。量が多くて腹が膨れる。天日干しすれば保存もきくし、味もよくなる。香露茸は商売用だよ」
以前そんなことをシャーロが口にしていたが、ダンとしても概ね同感である。
「バフッ……ゲフ」
中年男が咳き込むような声を出して、ハルが長い鼻先を落ち葉に突っ込んだ。
桃色の毛並みを撫でてから、ダンは腰をかがめて地面を掘る。柔らかい腐葉土なので、手袋の他に道具は必要ない。
拳ふたつ分ほど掘り下げると、黒曜石のような塊が顔を出した。
――香露茸だ。
「よくやったな、ハル」
ダンはハルにご褒美の干し肉をやる。
水で柔らかくして塩気を抜いたもので、ハルは興奮したように頭を振りながら、奥歯で器用に肉を噛みまくる。ハルにしてみれば、ろくに味のしない高級キノコなど、干し肉の足元にも及ばないのだろう。
「さすが、あんちゃんが選んだ犬だよ、お前は」
「ブッシッシ」
全面的に長兄を信頼しきっているダンは、シャーロが値段だけでハルを選んだことを知らない。ずっしりと重くなった腰籠をぽんとたたいてから、珍しく浮かれたように、ダンは口笛を吹いた。
今日は久しぶりにリーザが帰ってくる日。夏の自由市場で留守番をしていたダンにとっては、実に半年ぶりの再会となる。
みんなでご馳走を作る予定なので、早めに切り上げて教会に戻ると、別行動で木の実を拾っていたマルコ、エルミナ、メグの三人がちょうど帰宅したところだった。
「――あ、ハルぅ!」
幼い声に、桃色の子犬が即座に反応する。ダンがリードを放すと、土と落ち葉まみれの体で猛突進。
「ハル、おつかれさまー」
「ゴフッ」
最近覚えたねぎらいの言葉をかけて、ハルを抱き上げたメグがくるくると回る。
その隣でマルコがため息をひとつ。
おそらく、洗濯の苦労を思いやったのだろう。
「ダン兄、ハルはどうだった?」
こちらに駆け寄ってきて、興味津々といった感じで質問したのはエルミナである。
夏の間、ハルには探し物の特訓をさせており、その成果が気になるようだ。本当はエルミナ自身がハルを連れてキノコ狩りをしたかったようだが、残念ながらこのやんちゃな妹には森で迷子になった前科がある。安全性と効率を鑑みて、今回は別行動となったのだ。
無言のまま、ダンは腰につけていた小さめの籠を差し出した。
中にぎっしり詰っているのは、黒色の高級キノコ。
「わ、なにこれ。全部ビストじゃん!」
それは、たった一日で去年の収穫量に匹敵するほどの大成果だった。
当初の予定通り、シャーロとリーザが帰宅したのは夕暮れ前である。
リーザが馬車から降りるや否や、真っ先にメグが抱きついたが、前回のように大泣きはしなかった。会えなかった寂しさよりも、会えたことの喜びが勝ったのだろう。
約半年振りに帰宅したリーザは、たくましくなったダンに目を見張り、ハルの姿にも驚いた。自由市場で購入したときには、痩せていて、毛色もわるく、みすぼらしい姿をしていたからだ。
久しぶりに家族全員がそろったことで、ユニエの森の教会は、何か大切なものが満たされたような、そんな懐かしい空気に包まれた。
しかし一方で、帰ってきた二人、特に姉の様子がこれまでと違うことに、他の家族はすぐに気づいた。
シャーロが同じ部屋にいないとき、リーザは誰かを探すように視線をさ迷わせるし、シャーロが戻ってくると、わざわざ駆け寄って話をする。
その距離が、やけに近い。
誰もが――メグですら、「リザお姉ちゃん、へん」と思ったが、もともと仲のよかった二人である。この時点は兄と姉に何があったのだろうという、漠然とした疑問しか抱かなかった。
夕食のメニューは、肉屋のハマサで購入した鹿肉と、森で採れたキノコのミルクシチュー。家族のお祝いのときによく作る料理で、リーザが残したレシピを元に調理されている。具材の大きさや形が不ぞろいだが、それもご愛嬌だ。
「お帰り、リーザ」
食卓に全員がそろったところでシャーロが口火を切ると、他の面々も口々に「お帰りなさい」を伝えた。
「半年間、慣れない街で働いて、大変だったと思う。本当にお疲れさま」
「おつかれさまー」
スプーンを握り締めながら、得意げに労いの言葉をかけるメグ。
「ありがとう、メグ」
シャーロは“玉ねぎ娘”の店長にお休みをもらったこと、秋の自由市場までひと月の間、リーザがこの家で暮らすことを伝えた。
事前に知ってはいたものの、家族たちの表情は明るい。
そして、賑やかな夕食が始まった。
半年もの隔たりがあるのだから、話題にはこと欠かない。
ハルムーニの街こと、“玉ねぎ娘”のこと、ユニエの森のこと、鍛冶屋での仕事のこと、新しく家族となった双子のロバ、ピグとマムのこと……。
夕食後には、ハルの特訓の成果で盛り上がる。
「まさか、ここまで活躍するとは思わなかったな」
籠の中の香露茸を摘みながら、シャーロはリビングの片隅に視線をやった。
お気に入りのバスケットの中で、桃色の毛並みを持つ子犬が眠っている。本日の大活躍で、肉のたっぷり入ったシチューを与えられ、実に満足そうな寝顔だ。
春の自由市場で店頭価格の八割引きで購入されたこの犬は、たった一日で自分の値段以上の稼ぎをたたき出したのである。
「まだ森の南の一角しか回ってないから、探せばもっと見つかると思う」
「採り尽くさないように注意しないとな。ある程度収穫量を決めて、森全体からまんべんなく収穫しよう」
注意事項をダンに伝えてから、シャーロは香露茸を籠の中に戻す。
それからお茶をひと口飲み、家族全員に向かって重要な報告を始めた。
まずは、これだけでもおおごとだが――“怠け箱”の追加注文の件。
その数、五百台。
驚愕のあまり顔色を失うマルコ。両腕を組んだダンが難しそうな顔をしたが、これは膨大な作業量を予測してのものであろう。
「あんちゃん、納期はどれくらい?」
「できる限り早く」
作業場で製品を組み立て、完成させたものから馬車に積み込んで納品する。
一度や二度では運びきれないだろう。
「言うまでもないことだけど、この仕事は、これまでの“森緑屋”の取引きの中でも、最大のものとなる。絶対に失敗は許されない」
エルミナやメグも含めた家族全員が、緊張した面持ちで頷いた。
「今回は前金をもらっているから、部品代の心配はいらない。人手も足りるはずだ。追加注文を見越して、チムニ村のひとたちに声をかけているからね」
「村のひとを呼ぶのは、部品が納品されてから?」
「いや」
マルコの問いにシャーロは首を振った。
単純な作業要員として集めたわけではない。条件さえ許せば、将来“森緑屋”を発展させていくための従業員として、招き入れるつもりだった。せっかく同じ村の住人なのだから、実作業に入る前に信頼関係を築きたいとシャーロは考えていた。
「まずは、工作道具の使い方を覚えてもらう」
“怠け箱”を構成しているのは、鉄の歯車やハンドルだけではない。木の板を加工したり、釘で打ちつけたり、角をとるためにヤスリで削る作業が発生する。商品として売り物にするのだから、素人作業ではいただけない。
「練習用として、テーブルや椅子なんかを作ってもらおうと思ってる」
「昔の設計図はあるけど」
ダンはやや困惑したようである。
「そんなの作っても、置き場所がない。売り物にするの?」
「いや、別の場所で使う予定だよ」
いったん話を打ち切って、シャーロは次の報告へと移った。
「実は、リーザを迎えに行ったときに、ハルムーニの北区にある中古の家を購入したんだ」
ついでに野菜でも買ったかのような口調である。
修理や調査が必要だが、馬小屋と井戸と大きな倉庫があり、家族全員が泊まれる部屋数を兼ね備えている。新しく作った家具は、この家で使う。
「“森緑屋”のハルムーニ支店だよ。支店長は、マルコ」
「え、ええ!」
マルコの伊達眼鏡がずり落ちる。
「これまでは、自由市場の日から逆算して商品を準備して、出発の日まで決めていたけれど、これだとさすがにリスクが大きいからね。たとえば馬車が故障したり、事故を起したら、すべての準備が無駄になってしまう。でも、ハルムーニに拠点を置いて、そこに順次商品を運び込んでいけば、ある程度余裕をもって商売ができるし、滞在費や馬小屋の賃貸料も節約できる」
動揺しながらも、理解を示すようにマルコが頷いたが、シャーロの目的はそれだけではなかった。
「自由市場の売上げも大切だけど、店の経営を安定させるためには、もっとお得意さまを増やす必要がある。それにはやはり、街に拠点がないとね」
“怠け箱”の納品が完了しだい、新たなる顧客の獲得を狙う。その重要な役割を、支店長であるマルコに任せるという。
「で、でも、シャーロ兄さん。ぼくなんかが営業なんて……」
「できないか?」
マルコの心と身体には、この家の――シャーロが決めた鉄の掟が染み付いている。やってもいないのに、できないなどと口にすることは許されなかった。
「百回挑戦して、百回失敗しても構わない。大切なのは、挫けず、諦めず、そして考え続けることだ。なぜ失敗したのか、どうすれば成功するのか。朝も、昼も、夜も、とにかく考え続けること。そうすれば、いつかは成功するはずだよ」
それは、シャーロがたびたび口にする商売のコツでもあった。
ユニエの森を出てハルムーニの料理屋で働くリーザ。鍛冶屋に弟子入りしたダン。続いてマルコに大きな役割が課せられるのは、自然な流れともいえた。
兄や姉に比べて、自分が才能に乏しいことを、マルコは自覚していた。しかし、家族のために頑張りたいという気持ちなら、負けはしない。
「や、やってみる」
大きな不安を抱えながらも、マルコはこくりと頷いた。
ここでシャーロはお茶をひと口。
隣のリーザがお茶を注ぐ。
「マルコの他に、エルとメグも引越しだよ」
何やら難しい話をしているなと上の空だったエルミナが、突然のことにぎょっとした。
「――え、なに? いま、なんて言ったの?」
「エルとメグもこの家を出て、リーザと一緒にハルムーニで暮らす」
驚きのあまり思考停止してしまったエルミナの代わりに、メグが反応した。「リーザと一緒に暮らす」という言葉が、小さな身体の中を瞬時に駆け巡ったのだ。
「リザお姉ちゃんと、いっしょ?」
「そうだよ」
エルミナもメグも子どもとはいえ、女の子である。数年後を見越して、年上の女性がそばにいる必要性をシャーロは感じていた。
実はリーザが初潮を迎えたときに、相談相手がおらず、苦労した経験があったのだ。二人で経験豊かと思われる村の女性を尋ねて回り、女性の身体の仕組みについて学んだわけだが、今思えば、男が立ち入るべき領分ではなかったのだろう。
一瞬、喜びの表情を浮かべたメグだったが、不安そうに俯いてしまう。
「ハルは? ハルも、いっしょ?」
リーザがいなくなった寂しさを埋めてくれたのは、子犬のハルである。メグが新しい生活に適応するまでの不安も、和らげてくれるだろう。食費については街のほうが高くつくが、ビストの売上げに比べれば微々たるもの。そこまで考えて、シャーロは決断した。
「ハルも一緒だよ。キノコ探しの季節には、ユニエの森に戻ってもらうけれどね」
再び考え込むメグ。
「シャロお兄ちゃんと、ダンお兄ちゃんは?」
「俺たちは、この家に残る」
きっぱりと断言されて、メグは複雑そうに眉根を寄せた。その心情を分析するならば、嬉しさと悲しさと戸惑いで、三等分といったところか。
一方のエルミナは、テーブルの上で頬杖をつき、何かを悟ったかのように、半眼でシャーロを見上げていた。
「察しがいいな、エル」
シャーロは苦笑しつつ、再びお茶をひと口。
まだ半分も減っていないが、いそいそとリーザがお茶を注ぐ。
「来年の春から、エルとメグは学校に通うことになる」
学校。それは、この村で暮らす住人たちの間では、馴染みの薄い言葉であった。ある程度の人口規模のある街以外では、子どもの数が足りず、学校という施設は存在しない。
「エルの場合、中途入学――学年の途中から学校に入ることになるから、筆記のテストがある。頑張って合格するように」
「え、ええっ!」
思いがけない試練の到来に、エルミナがうろたえた。
「あ、あのさ、シャロ兄」
「なんだ?」
「その、テストってやつ、もし合格できなかったらどうなるの?」
「そんなことは、想定していない」
まるで真実を見通しているかのように、シャーロは赤髪の妹を見つめた。
「――うっ」
「真面目に勉強をしていたなら合格するはずだ。真面目に勉強していなくても、まだ時間はある。死ぬ気で復習すれば、ぎりぎり間に合うだろう。とにかく合格するように」
「……あい」
「ねえ、メグは? メグもがっこで、てすと、してみたい!」
「メグは、そうだな。簡単なお話くらいはあると思うけれど、テストはないかな?」
「む~」
「学校に通ったら、いっぱいテストを受けられるさ」
ともあれ、新しい生活に慣れる時間も必要になってくる。マルコ、エルミナ、メグの三人がハルムーニへ引っ越すのは、秋の自由市場の後、適当な時期を見計らって、ということになった。
「これが、今後の俺たちの布陣だよ。村のひとたちと協力して、俺とダンが商品を作り、ハルムーニ支店に運ぶ。そしてマルコが売り捌く。リーザは“玉ねぎ娘”で働いて、エルとメグはとにかく勉強を頑張る」
いつもながらの独断専行。
しかし今回は、エルミナすら反発できない。
自分が当事者となったということもあるが、兄が決めたことだから覆せないという、一種の諦めにも似た心境であった。
「たとえ別々の場所に住んでいたとしても、俺たちは家族だよ。決して会えないわけじゃないし、いつかきっと、みんなで暮らせる日がくると思う。だからそれまでは、ひとりひとりが、自分の持ち場で頑張っていこう」
全員が頷いて、心がひとつになったところで、この日最後の報告に移った。
もちろん、シャーロとリーザの結婚の件である。
これもまた淡々とした口調で告げられて、ダン、マルコ、エルミナは、油断していたところをさらに驚かされたように、絶句した。
大きな目をぱちくりさせて、メグが大好きな姉を見上げる。
「けっこんって……お姫さま?」
童話の中で、王子と結ばれる姫の話を記憶していたのだろう。メグの問いにどう答えるべきか迷ったリーザだったが、結局、頬を赤らめながらこくりと頷いた。
しばらく沈黙が続き、いい加減シャーロが口を開こうとしたとき、がたんと大きな音を立ててダンが立ち上がった。
「シャーロあんちゃん、リーザ姉ちゃん、おめでとう!」
突然の勢いとあまりの大声に、みんながびっくりしてしまう。
「絶対に、幸せになってくれよ!」
どちらかといえば感情表現が苦手なダンが、顔や耳まで真っ赤にして、まるで自分のことのように喜び、大きな身体を震わせている。
「ありがとう、ダン」
かすかに涙を浮かべながらリーザが礼を口にすると、マルコとエルミナも急き立てられるかのように立ち上がって、そろって祝福の言葉を伝えた。メグなどはまるで本物のお姫さまを目にしたかのように、興奮している。
緊張が一気に解き放たれせいか、感極まって口元を押さえてしまったリーザに、エルミナとメグが駆け寄った。
春の自由市場の直前、シャーロに想いを伝えるよう促したのは、エルミナだ。
「リザ姉、よかったね」
何故だか自分まで泣きたくなって、姉の身体に顔を押しつけた。




