第五章 (3)
食材も調理器具もないので、夕食は外で簡単に済ませる。
それから二人で共同浴場へ行き、そろって購入したばかりの家に戻った。
ランプひとつと、ベッドだけの寝室。すでに日は落ちて、互いの他は薄暗くてよく見えない。
テーブルも椅子もないので、ベッドに並んで腰をかける。
しばらくはユニエの森やハルムーニでの出来事などを話していたが、ふいに沈黙が舞い降りて――その瞬間、リーザは真っ赤になって俯いてしまった。
はちきれそうな想いを胸に抱えながら待っていると、シャーロから一通の手紙を渡された。
「モズ神父の知り合いのひとからなんだけど、覚えているかい?」
「春の自由市場で、シャーロ兄さんが手紙を出した方ですね」
「うん。夏の自由市場のときにも、近況報告の手紙を出したんだ。俺とリーザのことを書いてね」
手紙を開くと、そこには親愛の情が込められた文章が書き綴られていた。
名前をデュナといい、モズ神父の教え子だったという。
ユニエの森に残された六人の子どもたちの安否を気遣っており、これまで何も手助けができなかったことに対して、忸怩たる思いを抱えていたようだ。
シャーロとリーザの関係を手放しで喜んでおり、ぜひ一度直接お会いして、祝福の祈りを捧げたいという。
つまり、結婚式の立会人になりたいということだ。
手紙の内容に驚いて、リーザはシャーロを見上げた。
「半年も待たせて、ごめん」
兄は優しく微笑んでいる。
「この家で、みんなで暮らせるようになったら、結婚しよう」
「――」
思わず呼吸が止まる。
言葉の意味が浸透すると、溜まりに溜まっていた想いが、堰を切ったように溢れ出した。
ユニエの森を離れ、大切な家族と別れることになった春の自由市場。黄昏色の空の下、兄への告白。
それは今振り返っても、思わず両手で顔を覆ってしまうくらい恥かしい出来事だったが、後悔したことは一度もなかった。逆によくやってくれたと、過去の自分に感謝しているくらいだ。
しかし、幼く拙い、身勝手な願いではなかったかと、不安に思う心は残った。
家族に対する兄の愛情は本物である。
どのような手段を使っても、家族の生活を守ろうとする強い意志と覚悟を、これまでシャーロは何度も示してきた。
だからこそリーザは、不安な考えを消し去ることができなかった。
ひょっとすると兄は、“妹”である自分を傷つけたくないがために、婚約を受け入れてくれたのではないか。
そんなことはないと否定しつつも、確信を持つことができなかった。
この半年の間に会うことができたのは、たったの一週間程度。
二人きりになれたのは、今日が初めてだ。
愛を育む時間などなく、自身の想いを吐露できるのは、日記の中だけ。
行き場のない心は千々に乱れ、胸の奥底に降り積もっていく。
そんな状態が、半年近く続いたのである。
いつの間にかリーザは、シャーロの胸にしがみつきながら、自分のこれまでの心情をぶつけていた。
寂しかったこと。
不安だったこと。
信じていたこと。
そして、ずっと前から好きだったこと。
幼子のように泣いてしまったが、恥かしさはなかった。
自分たちは、結婚するのだから。あの老夫婦のように、何年も、何十年も、お互いの時間を共有し合う間柄になるのだから。
涙で濡れた瞳で見上げると、そこはもう息のかかるほどの距離。
シャーロの手がそっと頬に触れてくる。
涙を拭うその指先が、かすかに震えている。
「……なさけ、ないな」
拳をくっと握り締めてから、かすれるような声で、しかしはっきりと、シャーロは自分の想いを口にした。
それは、ただひとつの言葉。
兄らしい、飾りつけのない端的な表現。
リーザがもっとも聞きたかったもの。
「……ふっ」
堪えきれず、嗚咽とともに涙が溢れてくる。
互いの心が重なり、もはや言葉はいらないとばかりに、唇を重ねる。
最初は軽く、そして少しずつ深く――確かめ合う。
熱い吐息をつきながら、消え入りそうな声でリーザは懇願した。
「ラ、ランプを……消して、ください」
「……うん」
今宵は満月。人工の灯りが無くなると、天窓から透明な光が降り注いでくる。
ベッドの上は、さながら神聖なる舞台のよう。
さすがに月明かりを消すことはできなかった。
……翌日の朝。
これまでの関係を一変させた二人は、軽く朝食をとってから、ユニエの森へ出発することにした。
“開門の鐘”と同時に開店した軽食屋には、他に客がおらず、落ち着いた雰囲気である。
ほわほわした空気が渦巻いている、とあるテーブルだけを除いて。
普通対面になって座るところ、リーザはシャーロの隣、肩が触れ合うほどの距離にいた。
やや窮屈そうだが、シャーロは好きにさせている。
「お客さま、朝のメニューでございます」
若い男性の店員が慇懃無礼な仕草で、手持ちの小さな黒板を見せてくる。
朝のメニューは一種類だけ。
さらりと二人分の朝食を注文するシャーロの姿を、なんて決断力があるのだろうという感じで、リーザがうっとり見つめている。
「かしこまりました。少々お待ちください」
石膏を固めたような笑みを貼り付けて、店員は一礼した。
これでも遠慮していたのか、店員が立ち去ると、リーザはさらに指一本分の距離を詰めて、太ももを密着させた。
「ミリィとマス――昨日紹介したわたしの友だちなんですが、お裁縫の学校に通ってるんです」
「あの、好奇心旺盛な子たちか」
もの影からシャーロとリーザの再会を観察し、小太りの隊長とともに飛び出してきた二人の少女は、最初こそ恐縮したように挨拶したものの、それから先を争うようにシャーロを質問攻めにした。
リーザに対する本気度について。
そして、今後の二人の展開について。
いくら妹の友人とはいえ、他人に話せるような内容ではない。
「その、二人が……」
膝の上に両手を置いて、リーザはきゅっとスカートを掴む。
「ドレスを、作ってくれるって」
なんのためのドレスなのか、シャーロは聞かなかった。
おそらくは製作期間と納期の関係で、ようするに式の日取りが知りたいのだろう。
「ですから、その……」
視線を落としてもじもじしている妹を少し面白そうに見つめながら、シャーロは亜麻色の髪を一筋すくって、指先の間で滑らせた。
「秋の自由市場のあと、あの家の大掃除をして、足りない家具をそろえる。井戸や下水は業者に頼まないといけない。同時に、ユニエの森では“怠け箱”の追加注文にも対応する。秋から冬にかけては大忙しだよ」
家族が住む新しい家の準備は、心がうきうきする。でも同時に、個人的にはちょっと残念。複雑な心情が綯い交ぜになって、リーザの表情は忙しい。
「でも、そんなことを言っていたら、きりがないからね」
顎先に指を当てて、少し考え込む。
冬から春先にかけて――と、シャーロは目算を立てた。
いつまでもデュナを待たせるわけにはいかないという事情もあった。
「場所は、ハルムーニになると思う」
「ユニエの森の教会ではないんですか?」
「うん。手紙によると、デュナさんはかなり忙しいひとみたいなんだ。あまり長旅を強いるわけにはいかないよ」
それに、聖職者がわざわざ足を運ぶとなれば、もの見高いチムニ村の人々は大騒ぎするだろう。自身の面子を保つため、タミル夫人がよからぬことを画策するかもしれない。
最悪、村長主催の結婚式になってしまう可能性すらあるのだ。
「細かいことは、これから二人で話し合って、少しずつ決めていこうか」
「は、はい!」
この提案はリーザの心を鷲づかみにしたようである。頬を上気させ、何かを期待するかのような眼差しを向けてくる。
包容力と母性に富んで、頑張り屋のリーザ。弟や妹たちからすると、優しくて頼りがいのある存在なのだろうが、二人きりになると、実はかなりの甘えん坊であることを、シャーロは発見した。
あるいはこちらが彼女の本質であり、普段の様子は厳しい生活環境から形成された、後天的な姿なのかもしれない。
おそらく今、この場で彼女の唇を奪ったとしても、怒ったりはしないだろう。
いやむしろ、そういった展開を望んでいるのだろうか。
ほわほわした空気を漂わせながら見つめ合っていると、先ほどの若い男性の店員がつかつかと戻ってきた。
「……こちらが、朝食セットになります」
トレイがやや大きめの音を立てる。
焼いたパンとバター、ゆで卵、そしてホットミルク。
値段は良心的なもの。
「わたし、卵の殻をむきますね」
リーザは慣れた手つきでゆで卵の殻をむき、塩をかける。
「はいどうぞ、シャーロ兄さん」
「あ、ああ」
ほっそりとした指で卵を掴んだまま、シャーロの口元に差し出してくる。
別のテーブルを拭いている店員の背中が強張る様子を、シャーロは視界の片隅に確認したが、この状況ではどうすることもできない。おとなしく食べることにする。
「おいしいですか?」
「うん」
正直、普通である。
ただの塩をかけたゆで卵だ。
ミルクで喉を潤しているうちに、今度はパンにバターを塗ってくれる。
「はい、シャーロ兄さん」
パンも食べやすい大きさに千切って、差し出してくる。
自分はただ、漫然と口を動かしているだけでよいのだろうか。
パンを咀嚼しながらシャーロは自問した。
このままだと自分の食事だけが進んでしまい、リーザのパンが冷めてしまう。非常に効率がわるく、時間のかかってしまう行為だと思うのだが……。
「シャーロ兄さん」
「うん?」
「ユニエの森に帰るまでは、二人きりですね」
そのとき、店員が姿を消した調理場のほうから、どんと壁を叩くような音が聞こえてきた。
わずかに首を傾げつつ、リーザは天使のように微笑んでいる。
幸か不幸か、最愛の妹は何も気づいていないようだった。




