第五章 (2)
通常、ユニエの森を朝に出て、三日目の夕方ごろにハルムーニに着くところ、今回シャーロは馬車の速度を調整して、四日目の昼前に到着した。
新しく購入したロバを慣れさせるためである。若いロバは気まぐれで、人間の子どものように好奇心旺盛だ。
西門のすぐ外にある馬小屋に馬車とロバを預けて、徒歩にて“玉ねぎ娘”へと向かう。
到着予定時刻には幅があり指定もできなかったが、店の前でリーザは待っくれていた。
こちらの姿を確認するや否や、全力で駆け寄ってくる。
ごく自然な形でリーザを抱きとめて、互いに見つめ合い、それから顔を近づけたところで……妹の様子がおかしいことに気づいた。
真っ赤になったまま、かちかちに固まっている。
緊張しているというよりは、羞恥心で思考停止状態に陥ってしまった様子。
不思議に思いつつも、かまわず唇を重ねようとした瞬間、近くの茂みががさりと音を立てて、三人の男女が転がり出てきた。
「――ったぁ、押さないでよ!」
「い、いい場面で」
「うわぁあああっ!」
奇声を発しながら突進してきたのは、二十代半ばと思しき小太りの男。シャーロは反射的にリーザをかばう。
さらに、二人の少女が駆け寄ってきた。
ひとりは金髪に巨大な桃色のリボンをつけ、フリルを重ねた服を身につけている。もうひとりは黒を基調とした男装で、上着もズボンもあえて破れ目を作っているようだ。髪型はさらに奇抜で、片方の側面を大胆に刈り上げている。
その派手な装いから、この二人がリーザの手紙にあった服飾士の卵、ミリィとマスなのだろうと、シャーロは推測した。
「ごめんねぇ、リーザ。このひとが……」
「これが、例の婚約者か。ふ~む」
「ど、どきたまえ、君たち。僕は、この男に言わなければならないことが――」
小太りの男が一歩前に進み出たが、シャーロの腕につかまりながら瞳を潤ませているリーザを見て、再び「うわぁあああっ」と絶望の声を上げた。
もはや収拾のつかない状況の中、軽やかな鈴の音とともに“玉ねぎ娘”の入口の扉が開いて、三十台後半の女性が顔を出した。
「あら、いらっしゃい、シャーロ君」
そう言って店長のミサキは、いたずらをしかけた少年のような笑みを浮かべたのである。
「……応援隊?」
「そ、“リーザちゃん応援隊”」
“玉ねぎ娘”の店内。夜の営業開始前の準備時間である。
テーブルにはシャーロ、リーザ、ミサキ、そしてレイの四人。好奇心を抑えきれないウェイトレスたちが、休憩室からこっそり顔を出したり、引っ込めたりしている。
ちなみにミリィとマスは、当初の目的を達成したことで満足そうに帰っていった。
二十代半ばの小太りの男は、ミサキにこっぴどくしかられて、泣きながら退散した。
「あの太った男のひと、“リーザちゃん応援隊”の隊長さんなのよ」
料理人としてリーザが加入してから、“玉ねぎ娘”の売上げは飛躍的に伸びた。ミサキとしても嬉しい悲鳴だったのだが、困ったことに客層まで変わってきたのである。
もともと可愛らしいウェイトレスと制服で客を釣ろうという方針はあったものの、度を越してリーザに熱を上げる信者が急増したのだ。
「ほら、あそこのカウンター見て」
ため息混じりにミサキが指し示した場所には、複数の張り紙があった。「花束・プレゼントお断り」「特定の従業員を指名することはできません」「料理人に声をかけないでください」等々。
申し訳なさそうに、そして恥かしそうにリーザが俯く。
「いつの間にか“リーザちゃん応援隊”とかいう謎の組織ができちゃって、隊長さんが統率してくれてたんだけど、店の雰囲気にも悪影響が出てきたから、この際、解散させることにしたの」
利用するだけ利用して、都合がわるくなったら切り捨てる。あまりにもむごい話だが、経営者としては正しい判断なのだろう。
リーザの許可を得て、彼女に婚約者がいることを隊長に告げたのだが、彼は信じなかった。逆に、自分たちを遠ざけるための嘘ではないかと疑った。
そこで、今回の舞台が企画されたのである。
「もの影からこっそり見るだけだって約束したのに。まったく、あの隊長さんったら」
「そもそも、サキさんが調子に乗りすぎたのが原因だよ」
「――うっ」
レイの指摘に、ミサキは言葉を詰まらせた。
「ここ数ヶ月、店の中はずっと異様な状態だったし、ウェイトレスたちも怖がっていた。今回の件でまた騒がしくなるかもしれないけれど、しばらくはリーザもいないしね。ひと月もすれば、きっと落ち着くさ」
どうやらリーザの長期離脱を見越しての策略でもあったらしい。
ともあれ、シャーロとリーザは休暇の礼を述べて、“玉ねぎ娘”をあとにした。
「すぐに、ユニエの森に帰るんですか?」
「いや、今日は大切な仕事がいくつかあるんだ。少し付き合ってもらうよ」
「はいっ」
元気よく返事をして、リーザはシャーロの腕を抱きかかえた。
最初に向かったのは、中央区の大聖堂の隣にある教会の事務所である。比較的地味なレンガ造りの建物で、詰め襟のついた神服姿の修道士たちが、事務室内で静かに仕事をしていた。
ここでシャーロが求めたのは、ユニエの森の“収穫権”である。
教会が管理する山や森などで、木の実や果実、キノコなどを収穫、販売するための権利で、一年単位で、面積に応じた一定の金額を支払うことで手に入れることができる。
この”収穫権”を、シャーロは“森緑屋”名義で購入した。
普段自分たちは、当たり前のようにユニエの森から恵みを得ているが、それを販売して利益を上げようとすると、問題が出てくる可能性がある。
「それに、これを他の誰かに購入されると、俺たちは商売ができなくなるからね」
誰に対しての予防策なのか、シャーロは口にしなかった。
昼食をとり、次に向かったのは、北区の“瑪瑙商会”本店。夏の自由市場のときに百台の“怠け箱”を販売したのだが、その後のご用伺いである。
すぐに二階の応接室に通されて、営業部門の責任者という中年の男が応対してくれた。
「いや、待っていましたよ、“森緑屋”さん!」
いかにも叩き上げといった感じの、精力的な男である。
“怠け箱”については、まだ一般家庭には販売されておらず、“瑪瑙商会”と取引きのある料理店などへ、調査のために置かせてもらっている状況とのこと。
「改善要望を集めようとしたのですが、それよりも早く売って欲しいというお客さんが増えちゃいましてね。正直、引き伸ばすのも限界で、困っていたところです」
とりあえず前回と同じ仕様で、追加注文を受ける。
「それから、商品名については、こちらで考えさせてもらってよろしいですか? さすがに“怠け箱”だと、購入を躊躇されるお客さまもいらっしゃると思いますので」
「おっしゃる通りですね」
シャーロはふたつ返事で許可を出した。
百台を製作するだけでも大変な作業であることは、リーザも分かっていた。シャーロやダンが睡眠時間を削ってまで作業をしていたことを聞いていたからだ。追加注文でまた忙しくなるのではないかと心配したが、シャーロには対策があるという。
「……チムニ村のひとを、雇う?」
「うん。八百屋のカルラさんとか、サナとか、村の女性に手伝ってもらう予定だよ。追加注文を見越して、十人くらいに声をかけてる」
“怠け箱”を組み立てた後の調整は、シャーロかダンが行う必要があるが、それ以外の工程は任せることができる。
「……どうして、女性ばかりなんですか?」
心に引っかかるものを感じたのか、少し冷ややかにリーザが聞くと、シャーロは生真面目な顔で断言した。
「チムニ村には、ろくな男がいない」
「……」
「そのお陰というのは変かもしれないけれど、仕事ができる女性は多い。このまま埋もれさせておくのは惜しいよ。“怠け箱”の製作だけじゃなくて、今後は“森緑屋”の運営にも関わってもらおうと思ってる。家族の手だけじゃ、そろそろ限界だからね」
その後、徒歩で向かった先は、北区の路地をいくつか抜けたところにある一軒の空き家だった。
春の自由市場のときに、二人で訪れた場所である。
リーザの記憶では正門の鉄格子に鎖がかけられていたはずだが、今は取り外されており、門扉も開いていた。玄関先の雑草はきれいに引き抜かれている。窓が開け放たれており、物音が聞こえた。
家の中に誰かがいるらしい。
「……売れちゃったん、でしょうか?」
動揺したように呟くリーザに、シャーロは少し得意そうに報告した。
「うん。俺が買った。“森緑屋”のハルムーニ支店だよ」
「――え!」
「持ち主の方とは手紙でやり取りをして、今日お伺いすることを伝えてあるんだ」
「うぉーい、こっちこっち!」
間延びした声に視線を向けると、窓から乗り出すようにして老人が両手を振っていた。
「シャーロさんだね? そろそろ来るころだと思っとったよ」
「あらあら、ずいぶんお若いカップルですこと」
隣から顔を出したのは、穏やかな笑みを湛えた老婆である。
玄関からリビングらしき部屋に入ると、飾り気のない部屋に大きなテーブルと椅子だけが配置されていた。
年代物の家具のようだが、デザインは洗練されている。
「わしは昔、家具職人をしておってね。このテーブルや椅子も、わしが三十年以上前に作ったものだ。さ、おかけなさい」
老人の勧めに従ってテーブルにつくと、お茶を入れたポットとティーカップを老婆が運んできた。
「あ、お手伝いします」
恐縮したようにリーザが立ち上がる。
「気を遣わなくてもいいから、座ってらっしゃいな。ちょうど掃除が終わったから、ひと休みしようと思っていたところなの」
老夫婦の動作や呼吸はゆったりとしていて、室内に特別な時間が流れているような錯覚を、リーザは受けた。もう四十年以上連れ添っているという話を聞いて、感嘆とも羨望ともつかぬ吐息を漏らす。
老人は妻の入れたお茶の香りを楽しみながら、自分たちの事情を説明した。
息子たちが家を出てから、この広い家も使わない部屋が増え、不便になってきた。そこで七年ほど前に、息子夫婦のいる東区の小さな家に夫婦二人で引っ越すことにした。東部地方を巻き込んだ戦争がきっかけだったらしい。
「この家もすぐに売るつもりだったが、なんとなく手放し難くてね。“売り屋”の看板も立てておらなんだが、よく見つけなさったね」
シャーロは神妙な面持ちで、自分たちが商売を営んでいること、馬小屋と倉庫があり家族全員が住めそうな家を探していたことを伝えた。
「裏手には井戸もある。泥さらいをすればまた使えるはずだよ」
シャーロとリーザは互いに視線を交わし、頷き合った。
「ところで、お二人はどういったご関係なのかしら?」
瞳を輝かせながら、老婆が興味津々といった様子で聞いてくる。
特に逡巡することもなく、シャーロが婚約していることを伝えると、老婆は両手の平を合わせて、さらに瞳を輝かせた。
「あらあら、まあまあ、なんてこと!」
隣の老人が感慨深げに過去を語る。
「君たちよりは年をとっていたが、わしらも結婚を機にこの家を建てて、移り住んだんだ。当時は無鉄砲で、大きな借金をこさえたものだが、がむしゃらに仕事をしているうちに、いつの間にか返済することができたよ」
それから老夫婦は、敷地内を案内してくれた。
馬小屋は二頭の馬をつなぐことができる広さがあるが、屋根が雨漏りするらしい。
井戸には蓋がされており、釣瓶は壊れかけている。
倉庫については問題なさそうだ。家具で使う木材などを保管していた場所なので、風通しのよい造りになっているとのこと。
本宅は二階建てで、リビングを入れて部屋が六つ。風呂場や脱衣所もある。調理場は広々としており、特にリーザが喜んだ。
最後に案内されたのは、二階の廊下の突き当たりにある部屋で、自慢の寝室だという。
「ほら、ここには大きな天窓があるだろう? 天気のよい夜には、きれいな月の光が差し込んでくる。ベッドはもちろんわしの特製でな。いまだに軋み音ひとつ立てん。部屋の扉も分厚く作ってあるから、なんの心配もいらんぞ!」
家具はベッドだけだが、真新しいシーツと布団が敷かれていた。
老夫婦は「どんなもんだ」という顔で、シャーロとリーザを見つめてくる。リーザなどは誰とも目を合わせることができず、真っ赤になって俯いてしまった。
「この家に残された家具は、どれもこれも思い入れのあるものばかりだよ」
老人はしみじみと、ベッドの木枠を撫でた。
「無理にとはいわんが、もしよかったら、使い続けてはくれんかね?」
「はい」
迷うことなく、シャーロが頷く。
「ずっと、大切に使わせていただきます」
「……おお」
その言葉にやや声を詰らせながら、老人は鍵束を差し出した。
「久しぶりにここにきて、ようやく分かったよ。ひとが住まず朽ち果てた家や、使われなくなって埃を被った家具ほど、悲しいものはない。君たちがここにいてくれる限り、この家や家具たちは生き続けるだろう。それは、思い出に鍵をかけるよりも、ずっと幸せなことだ」
「あなた……」
老婆が寄り添い、しばし沈黙と心情を共有する。
思い出の家を何度も振り返りながら立ち去っていく老夫婦の姿を、しっかりと手をつなぎながら、シャーロとリーザはいつまでも見送っていた。




