第四章 (10)
はたしてこれは、会議と呼べる代物なのだろうか。
頼れる兄から少し離れた位置で、緊張のあまりマルコは心臓をばくばくさせていた。
二十名以上もの参加者がいるのに、およそ議論と呼べるものを交わしているのは、シャーロとタミル夫人のみ。
穏やかな口調と表情ではあるが、その応酬の厳しさは背筋が寒くなるほどだ。
他の参加者たちもマルコと同様、完全に聴衆と化しており、まるで氷の塊を飲み込んでしまったかのように、誰も口を開けないでいた。
根本的な流れがつかめず、マルコの頭の中は混乱していた。
自分たち“森緑屋”は、“豊穣の大地屋”の活動に協力し、貢献したはずだ。
生産者との調整も、“商品目録”の作成も、接客も、市場での売上の計算も、すべて自分が行ったことだし、ヤドニが店のお金を持ち出したあと、尋常ならざる手段を用いて売上げを伸ばし、市場税やその他の費用を立て替えたのは、兄のシャーロだ。
百歩譲って、ヤドニの横領の事実を見逃すとしても、自分たちは感謝されるべき存在ではないのか。
それなのに何故、タミル夫人は兄に疑いの言葉を投げかけてくるのだろう。
どうして兄が“豊穣の大地屋”の売上げを横領したかのような、そんなもの言いができるのだろうか。
自由市場でヤドニに感じたときと同じような、冷たく暗い感覚がマルコを襲った。
このひとたちは、何を考えているのか分からない。
吐き気がするほどに、気持ちがわるい。
蝶の扇子をテーブルの上に置いて、タミル夫人は冷茶に口をつけた。
それから、頭の中を再構築したかのようにひとつ頷く。
「……そうよ。ヤドニちゃんたちの信頼を得るために、あえて治療に同行した可能性があるわ」
再び扇子を手に取ると、その先をシャーロに向けた。
「あなたはヤドニちゃんたちを診療所に連れて行った。ソウ先生はご自分の仕事に集中されていた。ということは、その間、店の売上げを自由にできたのは、マルコ君だけということになる。シャーロ君の指示さえあれば、どうにでもなる状況よ」
完全な言いがかり。しかし兄は反論せず、何事かを考え込むように俯いた。これは、効果的な反撃手段がないということなのだろうか。
マルコは自分の周囲にいる“豊穣の大地屋”のメンバーを見た。
ヤドニ、ゴウ、スジは緊張に顔を強張らせている。罪を犯したのだから当然だろう。先ほどからソウ先生の様子がおかしい。真実を知っているはずなのに、まるでタミル夫人の操り人形にでもなったかのように、肯定のみ繰り返している。
さらに視野を広げ、テーブル全体を見渡す。
常識的にはありえないほど強引な推測なのに、誰も指摘すらしない。
ここには、自分たちの仲間になってくれるひとが――いない?
シャーロが口を開こうとした瞬間、タミル夫人は扇子を振ってその行為を制止し、何故かマルコに視線を向けた。
「シャーロ君は、ちょっと口がうますぎる。みんなが惑わされる危険があるわ。ここは、もっと純粋に信頼できる子の話を聞きましょうか。マルコ君――立ちなさい」
「……え」
驚きでずり下がった伊達眼鏡を直して、マルコは反射的に立ち上がってしまった。
頭の中は真っ白。周囲の視線を一身に浴びることになり、心が怯んだ。
タミル夫人の真っ赤な唇が、毒を含む言葉を紡ぎ出す。
「三種類の資料が示す状況証拠と、ヤドニちゃん、ゴウ君、スジ君、そしてソウ先生の証言から、わたくしはひとつの仮説を導き出したわ」
蝶の扇子がゆらゆらと、まるでマルコを誘うように揺らめいた。
「“豊穣の大地屋”の売上金が喪失したのは、自由市場の最終日。そのとき、ヤドニちゃんたちは怪我をして身動きがとれない状況だった。あなたのお兄さんは診療所に付き添いをしたというけれど、実際はヤドニちゃんたちを監視していた。そして同時に、マルコ君――あなたに指示を出す。店の売上げを、奪うようにと」
「そ、そんなこと……」
反論しようとした瞬間、「シャーロ君にはっ!」と、鋭い声で遮断された。
「動機が、あったわ」
「ど、どうき?」
「あれは春の自由市場の後、商工会の寄り合いでのことよ。マルコ君も参加していたわよね。わたくしたちは、“森緑屋”に夏の自由市場の出店を辞退して“豊穣の大地屋”を推薦するように要請した。それは、村の発展ことを考えた末の苦渋の決断だったのだけれど、シャーロ君――あなたのお兄さんは、深い失望と怒りを感じているようだった。実際にその様子を見ていたひとたちも、この場にいるわ」
それは、ただの演技で――喉元まで出かかった言葉を辛うじて飲み込む。
何故だろう。理論は破綻しているはずなのに、強烈な説得力だけが伴っている。
「この場で、当事者全員の証言を発表すれば、すぐに証明できることよ」
「そ、そんな」
重苦しい塊が、マルコの両肩にのしかかった。全身から血の気が引き、思わず身体を震わせる。その様子をじっと見据えてから、タミル夫人は慈悲深い微笑を浮かべた。
「でも、これはあくまでも、わたくしの仮説」
「……え?」
「シャーロ君も、この村の大切な住人のひとりよ。いくら動機があったとはいえ、“豊穣の大地屋”の売上金を横領しただなんて、わたくしは本気で信じてはいないわ」
話が急転し、頭がついていかない。
「実際のところ、こういうことではなくて?」
タミル夫人はゆっくりと、言葉の意味をマルコに咀嚼させるかのように、説明した。
「ヤドニちゃんが怪我をして、シャーロ君が診療所に付き添った。そしてその間、“豊穣の大地屋”が手薄になったときに、“何者か”によって売上金が奪われた」
「な、何者かって、誰ですか?」
「さあ?」
無責任に首を傾げるタミル夫人。
「わたくしは全知全能ではないのだから、犯人の素性までは分からないわ。ハルムーニの“壁外住人”なのかもしれない。偶然大通りを歩いていた、手癖のわるい客なのかもしれない。でも、今わたくしが問題にしているのは、“誰か”ではなく、“何が”起きたのかということよ。マルコ君、もしあなたがちょっと目を離した隙に、何者かが“豊穣の大地屋”に入り込んだとしたら?」
「……」
「誤解しないで欲しいのだけれど、わたくしは、マルコ君の過失を責めているのではなくてよ。あなたはまだ十二歳。まだ子どもといえる年齢だし、四六時中店の中に気を配っていることはできないでしょう。誰もあなたを責めることはできない。これは、不幸な事故なのよ」
「……じ、こ?」
「そう。わるいのは、あくまでも売上金を奪った犯人だわ。名前も顔も分からない、ハルムーニの極悪人。だからこそシャーロ君は、あなたのために、“豊穣の大地屋”の損失を埋めるために、急きょ“怠け箱”を販売した。これならば辻褄が合う。わたくしを含め、ここにいる全員が納得する理由だわ。もし、真実がそうであるならば、マルコ君のことも――もちろん、シャーロ君のことも責めることはできない。今回の損失については、わたくしが責任を持って補填しましょう」
それは、悪魔の誘惑に他ならなかった。
兄がタミル夫人との全面的な対立を避けようとしていることを、マルコは知っている。そして自分が犠牲になれば、その意に沿うことになるのだ。
「タミル夫人――」
どこか遠くのほうから兄の声が聞こえたが、ヒステリックな叫び声にかき消された。
「少し、お黙りなさいっ! あなたの言葉が、マルコ君の意思を、彼が語る真実を歪めてしまう。これ以上口を挟むようならば、退室させるわよっ!」
時が止まったかのように、室内が静まり返った。ただひとりタミル夫人だけが、目を血走らせながら息を弾ませている。
「マルコ君、あなたの言葉はソウ先生が保障してくれるでしょう。さあ、勇気を持って、ここにいるみなさんに真実を告げなさい。それとも、店の売上金を奪ったのは、最初のわたくしの仮定通り、あなたのお兄さんの指図だったのかしら?」
「……」
ここ数年感じることのなかった冷たい孤独の中に、マルコは沈んでいた。
飽和状態になった思考の中でまず浮かんだのが、商売人としての“損得勘定”だ。
ここで身に覚えのない過失を認めてしまえば、兄へ向けられた疑惑を晴らすことができる。それだけではない。自分たちはタミル夫人に貸しを作ることになり、今後の商売もやりやすくなるだろう。
いつの間にかテーブルについていた両手。マルコはぼんやりと、自分の手を見つめた。
この手で商品を包み、お客さまに渡した。
お金を受け取って、お釣りを返した。
笑顔で「まいどありがとうございます!」と頭を下げると、お客さまは「こちらこそ、いいものを買えたよ」と、満足そうに笑ってくれた。
何百回となく繰り返した、しかしどれひとつとして同じもののないやりとり。
売上金は少しずつ、しかし確実に増えていく。
初日と二日目は思うように売れず、焦りを覚えた。
三日目以降は客足が伸びて、希望を持つことができた。
そして、六日目。目標を達成したときの開放感と達成感。
感動と、感謝。
最終日までの売上げのすべては、マルコが自らの手で商品を渡し、お客さまから直接受け取り、積み上げてきたものだ。
ぼくの不注意で、その大切なお金を、奪われた?
指が強張り、テーブルに爪が立つ。
――ばかに、するなっ!
冷たくなった心のさらに奥深くから、煮えたぎるような熱が染み出てきた。
視界がぼやけて、下唇がめくれ上がる。
ごめん。シャーロ兄さん、ごめなさい。
マルコは両目をぎゅっと閉じた。
「ぼ、ぼくはぁ……ふっ」
瞼から零れ落ちた大粒の涙が、ぼたりとテーブルを叩く。
涙は一滴では収まらず、次々と溢れてくる。
「なにも、わるいことは……して、ましぇん」
やっとのことでそれだけを口にすると、あとはくぐもったような嗚咽に変わる。
あまりの情けなさに、顔を上げることすらできない。
必死に呼吸だけを整えていると、突然、隣の椅子ががたんと音を立てた。
立ち上がったのは、ソウ先生である。
「――マ、マルコ君は、何ひとつとして、過ちを犯してはいない」
極度に表情を強張らせながら、中年の陶芸家は神に懺悔する咎人のように言葉を吐き出す。
「自由市場の期間中、この子はたったひとりで“豊穣の大地屋”を切り盛りしていた。我輩は……何も、手伝わなかった。しかし彼は、そのことを責めるどころか、作品が売れず苛立つ我輩を、励ましさえしてくれたのだ。そんな気の優しい子が、そんな気のきく子が、売上金を奪われるなどというミスを犯すはずがない。わるいのはすべて――」
「ソウ先生っ!」
扇子が激しくテーブルを叩き、反動でどこかに飛ばされる。
「ご、ご自分が何をおっしゃっているのか、分かっているのかしら? あなたの朽ちかけた家も、皿や壷を焼く窯も、なにもかも潰してしまうわよ!」
「……っ」
怒気に気圧され、ソウ先生は沈黙する。
タミル夫人は立ち上がって、子どもをあやすようにマルコに近寄ろうとした。
「ねえ、マルコ君、もう一度……」
「――いい加減に、してくれないかな」
抑揚のない冷たい声が割り込み、タミル夫人の足を止める。
それは、これまでマルコが一度たりとも耳にしたことのない、怒りに満ちた兄の声だった。




