第四章 (4)
商売人としての兄の顔を、初めてエルミナは目の当たりにしていた。
普段は家の中で寡黙に考え込んだり、かと思えば突然、有無をいわせず無茶な指示を与えたり、エルミナからすると「何を考えているのか分からない」長兄だった。
しかし、家の外の顔はまったく違うものだった。
妙に愛想がいい。
本人は「商売用だ」と言うが、そういう違和感をあまり感じなかった。会話の駆け引きを楽しんでいるようにさえ思えた。
「ねえ、シャロ兄、品評会ってなに?」
“黄昏の宴”を出てから、疑問に思ったことを聞いてみると、シャーロは「なんだと思う?」と逆に問いかけてきた。
「ワインの味の競争、かな。一等をとると、お金がもらえるとか」
「ほぼ、正解だな」
兄の説明では、ワインは国内どころか外国でも広く愛飲されており、その品質を様々な角度から批評するという風習が、各地で根付いているそうだ。
「小さなものは、町や村単位でも品評会があるし、大きくなると、ハルムーニのような極東地域全体のものや、さらには国全体の品評会もある。その規模が大きくなればなるほど、権威が強くなっていく」
「けんいって?」
「偉そうなひとが、いっぱい参加するってこと。国の品評会になると、王さま自らが審査員になって、試飲するらしいよ。そこで入賞したワインは、爆発的に売れる」
「すごいじゃん!」
「だから、さっきの店の眼鏡をかけたひと――ルイさんは、品評会なんかに出て欲しくなかったんだよ。もし入賞でもしたら、今の値段じゃうちのワインを買えなくなるからね」
儲け話があるならば、睡眠時間を削ってまで働くほどお金が大好きな兄なのに、どうして品評会とやらに参加しないのだろう。
口に出さなくとも表情で見抜かれたようで、兄は苦笑気味に説明してくれた。
「ハルムーニの品評会に出るには、試飲用のワインを一ダース――つまり、十二本分用意する必要がある。これはもう戻って来ない。売るわけではないからお金も入ってこない。さらに、参加費を払う必要がある。こちらも戻ってこない」
「……」
いきなり大きな壁にぶつかったような気がする。
「でも、参加できないわけじゃないんだ」
「そうなの?」
自分たちはユニエの森に自生している野葡萄を収穫してワインを作っている。だから、同じ野葡萄の種から苗を育て、日当たりのよい場所に植えて育てれば、収穫量が増えるはずだとシャーロは言う。
「どうして、そうしないのさ?」
ヤギや鶏にしても、きちんと育ててミルクや卵を得ている。動物よりも植物のほうが、育てるのは簡単だと思うのだが。
「たとえば、そうだな。家族全員で頑張って、ワインをいっぱい作ったとしよう」
石畳の道を歩きながら、シャーロは想像する未来を語った。
「品評会に参加するためには、葡萄の産地や畑の名前を報告して、ワインの名前にする必要があるんだ。俺たちでいえば、“極東地域=チムニ村=ユニエの森”っていう名前かな」
「……」
名前が長すぎるような気がする。
「参加費は、今の状態でも払うことができるから問題ない」
「うん、うん」
「で、予選を勝ち抜き、運よく入賞できたとする」
「ワインがいっぱい売れる!」
「そう。そして有名になったワインは、ひとり歩きをする」
「……?」
急に抽象的な話になった。
眉を潜めてどういうことかと考え込んだが、まったく答えが出てこないので、素直に聞くことにした。
「世の中にはワインの愛飲家が多い。中には、一本の酒瓶に家を建てられるくらいの値段をつけた物好きもいるくらいだ。“三代暮らせるだけの金が貯まったら、とりあえずワインを買え”なんていう諺すらある」
つまり、権威のある品評会に入賞したワインは、世間の注目を集めることになるのだ。
「これは酒屋のお客さんに聞いた話だけど、中には生産者のところに直接押しかけて、ワインを買い付けようとする商売人もいるらしいよ」
「うちに来るってこと?」
「そんなことになったら、チムニ村は大騒ぎだ。どうして報告しなかったんだ。どうやってワインを作るんだ。村の富を、自分たちだけで独占するのかってね」
ユニエの森は教会が管理している土地らしい。近くに住む村人たちとはいえ、勝手に森の恵みを収穫することはできないことになっている。それが許されているのは、教会に所属するひとたちで、成人するまでの自分たちも当てはまるとのこと。教会の中で生活できるのも、同じ理由だ。
しかし、ユニエの森についての監視や罰則の規定などないし、教会もその機能を失って久しいので、実態としては村人たちの森になっている。
孤児院の子どもたちが森の恵みを独占し、なおかつ大きな収益を上げたとなれば、当然のことながら村人たち――特にタミル夫人は面白くないだろう。
「だから、今の段階では、あまり派手な活動はできないのさ。ワインの名前に生産地を入れずに“彼の森”としているのも、同じ理由だよ。自分の土地を持っていて、そこで葡萄を栽培できたらいいんだけど」
「じゃあ、土地を買えばいいんだ」
「たまにエルは、核心をつくね」
冗談とも本気ともつかぬ顔で、シャーロは「ユニエの森は、いくらくらいするのかなぁ」と呟いた。
その後、二人は酒屋を一軒、レストランを二軒訪問し、“黄昏の宴”と同じように店主や店員にワインの試飲をしてもらった。
相手によって、兄が表情や話方を変えているらしいことを、エルミナは発見した。
古びた酒屋の暗がりにいた木彫りの彫像のような老人などには、ほとんど話しかけることもなく、相手も「ん」とか「いつだ」とかいう最小限の言葉のみ。
これで商売が成り立つのだろうか。
「あの老人――ギシさんは、業界じゃ有名人でね。店の規模は小さいけれど、ギシさんに認められて、その店と取引きをしているってだけで、箔がつくんだよ」
「はくがつく?」
「“森緑屋”が、いい店だって思われること」
それから二人で適当な料理屋に入り、昼食をとった。
ちなみにメグは“玉ねぎ娘”でお留守番である。店長のミサキに許可をもらって、休憩室で勉強かお絵かきをしているはずだ。今ごろはリーザの料理を食べているのかもしれない。
食事のあと、“白馬車”に乗って東区へと向かった。
坂道を歩いてたどり着いた先は、立派なお屋敷だった。土地の広さはそれほどでもないが、建物は三階建てで、窓の数も多い。
玄関の隣についていた呼び鈴を鳴らすと、ひとりの女性が迎えてくれた。
艶のある長い金髪を頭の上で高く結わえている。年齢はよく分からないが、三十歳くらいだろうか。美人だが、どこか冷たそうな雰囲気を漂わせる大人の女性だった。
「“森緑屋”のシャーロと申します。春の自由市場のときに、会長にお会いしまして。そのときにご注文いただきました商品をお持ちしました」
そう言ってシャーロは、“瑪瑙商会”の会長の名刺を渡した。
「少々お待ちください」
女性にしてはやや低めの、響きのよい声である。
しばらくすると金髪の女性が再びやってきて、「準備がありますので、もう少しお時間をいただきたい」と言ってきた。
「シャーロさま。“瑪瑙商会”の本店の場所をご存知でしょうか?」
「北区の環状道路沿いですね」
「はい。大変申し訳ございませんが、こちらから指定する時間に、本店のほうにお越しいただけますでしょうか。そこで会長も、お待ち申し上げております」
「承知しました」
屋敷を出ると、再び“白馬車”に乗り込んで、今度は北区へと向かう。
“瑪瑙商会”の本店は、白馬車の停留所のすぐ近くにあったので、すぐに見つけることができた。ただ、時間が合わないので、近所をぶらついて暇をつぶすことにする。
シャーロが向かった先は、大通りから少し離れた位置にある巨大な建物だった。周囲はレンガ壁と鉄格子に囲まれている。石造りの三階建てで、先ほどの屋敷と同じくらいの高さだが、まるで広さが違った。敷地内には大きな広場があり、そこで子どもたちが走り回っているようだ。
「ここは、学校だよ」
話には聞いたことがあった。大きな街には学校という施設があり、たくさんの子どもたちがいっしょに勉強をしたり、運動をしたりするそうだ。
「通っている生徒は、約六百人」
「……!」
「学年は、一回生から六回生まであって、各学年ごとに教室――勉強する大きな部屋が、三つずつある。エルと同い年の子どもが、百人くらい通っている計算になるな」
驚き呆れて、言葉も出ない。
この学校という建物の中に、チムニ村のひとたちの二倍以上の子どもがいるというのか。
巨大な門の前には、見覚えのある神像が立っていた。ユニエの森の教会の礼拝堂にあるものと同じ形だ。
この国にある学校は教会が運営していて、修道士や修道女が先生の資格をとることが多いのだという。四年前に亡くなったモズ神父も、そうだったらしい。
シャーロとエルミナはゆっくりとした足取りで学校を一周して、再び元の位置に戻ってきた。
「シャロ兄、なんでこんなところに来たの?」
確かに立派な学校だとは思うが、自分たちには関係ないと思う。勉強は兄や姉に教わってきたし、これからもそうなるだろう。興味がないといえば嘘になるが、参考になるとは思えなかった。
「確認のためだよ」
「……え?」
「自分の目標の、確認のため」
兄は鉄格子の先をまっすぐに見つめていた。
視線の先は、運動をしている子どもたちを漠然と捕らえていたが、どこか別のものを見つめているように、エルミナには思えた。
「それともうひとつ。商談の前に、気合を入れるためさ」
一瞬で興味を失ったかのように、兄はあっさりと学校に背を向けて歩き出した。
時間を調整した後、再び環状道路に戻り、“瑪瑙商会”の本店に入る。
一階のフロア全体が売り場になっていて、そこには包丁や鍋などの調理器具が所狭しと並べられていた。
ちらりと値札を確認したが、どれもこれもが目玉が飛び出るほど高い。桁がひとつ違うのではないかと疑ったくらいだ。
シャーロは売り子の女性に自分の名刺を見せて、用件を伝えた。
「“森緑屋”のシャーロさまでございますね。ご用件は承っております」
話はついているようで、すぐに二階の応接室へと案内された。
細かな柄のついた高級そうなティーカップが出されて、そのまま時間が経過していく。
一向にひとが来る気配がない。
エルミナは部屋のいたるところに飾ってある表彰状や盾を観察したかったが、シャーロに「おとなしくしているように」と命令されて、しかたなくソファーに座っていた。
いったいどれだけの時間が経過しただろうか。
ふいに部屋の扉がノックされて、老人と先ほど屋敷で会った金髪の女性が入ってきた。
「待たせたの、“森緑屋”のシャーロ君」
シャーロに従ってエルミナも立ち上がったが、老人は目を丸くしたようだ。
「ふむ、そちらのお嬢さんは?」
「うちの従業員です」
当たり前のように紹介されたので、エルミナは胸を張った。
「ほっほっほ。面白いのう、君は」
老人もソファーに座るかと思ったが、シャーロの足元に置かれた背負袋を確認すると、好々爺の笑みでこう言った。
「別室を用意したから、そこで紹介してもらるかの?」
「分かりました」
「では、ご案内いたします」
金髪の女性が先導する。
廊下を歩きながら、老人が何気ない仕草で女性のお尻を触ろうとしたが、「クソ会長、子どもの前です」と手を振り払われて、「ほっほっほ」と笑い声を上げた。
いったいこの老人は、何者なのだろうか。
階段をひとつ上がり、今度は応接室よりも大きい部屋に入る。
そこには細長い机と椅子がいくつもあって、十人以上の大人たちが集まっていた。
スーツ姿のものもいれば、作業着姿のものもいる。年齢にもばらつきがあるようだ。
共通するのは、全員が不機嫌そうに座っていること。
「みなも、待たせたのう」
「また会長の気まぐれですか」
「こっちだって仕事があるんだ。いきなり呼び出すとか、勘弁してくれよ」
「はて、新しい従業員の紹介ですかな?」
ざわつく部屋の中で、老人だけが涼しげな顔をしている。
隣にいた兄が、かすれるような小さな声で「じじい」と呟いた――ような気がした。表情はまったく変わっていないので、気のせいかもしれない。
「今日はの、ここにいる若者に素晴らしい商品の説明をしてもらおうと思う。わしが自由市場で偶然見つけたやつでな。これがなかなかに面白い」
ざわつきが、さらに大きくなったような気がした。
「ではシャーロ君、頼むぞ」
「かしこまりました」
すぐ近くの席から「ガキじゃないか」という小声が飛んできたが、シャーロは気にする様子もなく、背負袋から“怠け箱”を取り出すと、一番前の机に置いた。
そして“蝋燭ランプ”をエルミナに渡す。
「まず、火をつけてくれ」
「うん!」
これだけの注目を一身に浴びることなど、滅多にない。理由は分からないが、エルミナはわくわくしていた。
小さな木箱の中から“油豆”の搾りかすを出して、“蝋燭ランプ”の頭頂部にある小皿の上に載せる。
そして“怠け箱”の台座にセットし、ハンドルを回す。
三回転から四回転。
カッ――チッチッチッチ。
一日五百回。これまで何千回と繰り返してきた行為だ。
小皿の上に火種がついたことを確認すると、エルミナは“蝋燭ランプ”を取り外して、息を吹きかけた。
最初はそっと。
それから、息を切らずに一気に強くする。
「――え?」
“蝋燭ランプ”の先に炎が生まれた瞬間、誰かが間の抜けたような声を出した。
エルミナは、こちらを注視している大人たちを見返した。
いつの間にか部屋の中は静まり返り、誰もが意表を突かれたような顔をしていた。
またもや嬉しくなってにこりと笑い、エルミナはシャーロの元へ駆け寄った。
「はい、シャロ兄」
「上出来だ」
部屋の中に、再びざわめき声が戻った。
しかしそれは、先ほどまでの不満げなものではなく、目の前で起きた出来事に驚嘆し、確認を求めるような声だった。
老人も金髪の女性も、目を丸くしている。
ざわざわと、落ち着きのない声が大きく膨らんでいく。
エルミナは気づかなかったが、それは単に火がついたことに対する驚きだけではなった。年端もいかない少女が、その細い腕と小さな手で、いとも簡単に火をつけたことに対する驚きが、多分に含まれていたのである。
“蝋燭ランプ”を受け取ると、シャーロはちょっとだけ自慢げに、エルミナだけに聞こえるような声で呟いた。
「言っただろう? エルが“切り札”だって」
それから表情を改めると、シャーロは部屋全体の注目を集めるかのように、声を張り上げた。
「それでは――ただいまより“森緑屋”の新商品、“怠け箱”の説明を始めさせていただきます。説明のあとに、実際にみなさまにもお使いいただき、ご質問や感想などをいただきたいと思います」




