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第四章 (3)

 透き通るような赤紫色の液体を、底の深いグラスの中で転がす。

 鼻先を近づけて、すーと匂いを嗅ぐ。

 それからおもむろに液体を口に含むと、ごきゅっという豪快な音を立てて、一気に飲み干した。


「――んまいっ!」


 両目をぎゅっと閉じてワインの感想をひと言で表現したのは、四角い黒ぶち眼鏡をかけた女性、ルイである。んぬぅぅうと搾り出すような声を出しながら、グラスを高らかに差し出す。


「少年、もう一杯!」

「試飲用ですよ。一杯きりです」


 陶器製の酒瓶にコルク栓を詰めながら、シャーロは苦笑した。


「だいたいルイさんは、一度記憶した味を忘れないんでしょう?」

「少年はケチだね。商売人の鑑だ」

「褒めるかけなすか、どちらかにしてください」


 レストラン“黄昏の宴”の事務室内。来客用のソファーに腰をかけているのは、シャーロとエルミナ、そして店の仕入れを任されている帳簿係のルイだ。

 春の自由市場のときに約束した通り、ワインの試飲をしてもらうために、シャーロはこのレストランを訪れたのである。

 空になったグラスを名残惜しそうに見つめながら、ルイは独特の口調で呟く。


「まだ若いくせに、去年のものよりも味わいがある。あきらかに葡萄の出来がいい」

「ええ。粒がそろっていましたし、皮の色艶もよかったですよ。ちょっと日当たりをよくしてみたんですが、効果はあったみたいですね」

「どういうこと?」


 毎年シャーロたちは、ユニエの森で野葡萄を収穫し、ワインを作っている。しかし、灌木や草に覆われた場所に群生しているため、満足に日光を浴びることができないものが多かった。

 そこで去年、春と夏に草刈りをして、さらに蔦が伸びやすいように支え棒を立てて、半分自然、半分栽培の形で野葡萄を育てたのだ。


「まあ、野鳥なんかに食べられるので、収穫量は上がりませんでしたが」

「少年のところは、本当に変わってるね。このワインはまったくの偶然の産物だということが分かったよ。ところで、その収穫量っていうのはどれくらいかな?」

酒瓶ボトルで、三十本分です」


 シャーロの答えに、ルイの黒縁眼鏡がずりさがる。


「さんじゅう? 樽じゃなくて?」

「瓶です」

「ダースじゃなくて?」

「酒瓶で、三十本。間違いなくそれだけです」


 実際には、お世話になっているひとたち――パリィ親方やミサキなどに配る分もあるので、販売できる本数はさらに少なくなる。


「ハルムーニでお売りできるのは、二十本くらいですかね?」

「全部買う。少年、今すぐに出しなさい」

「ありませんよ」


 ワインの保管には気温や湿度の管理も重要になってくる。夏場の長期間の移動は品質を劣化させる恐れがあるため、今回は試飲用の一本のみ持ち込んだのだ。それも酒瓶に布を巻き、水をかけながら、温度が上がらないように細心の注意を払ってきた。この一本を持ち込むだけでも、相当苦労したのである。


「秋の自由市場のときには納品しますので、もう少しお待ちください」


 淡々と説明するシャーロを、ルイは眼鏡の奥からじろりと睨んだ。


「キミは商売人だからね。うち以外の店にも、同じ話をしているんだろう?」

「二、三軒は。生産者としては多くの方に自慢のワインの味を知ってもらいたいですからね。ちょっと前までは、品評会に出そうと考えたこともありましたが……」


 ルイは慌てたように首を振った。


「品評会だなんてとんでもない! あそこは権威主義者の巣窟だよ、キミ。ワインの味と香りを楽しむよりも、どれだけ美辞麗句を並べ立てるかに気を使っている、最低最悪のゲス野郎どもさ。これは予想だけど、賄賂だって横行しているはずだよ。彼らにとってワインは、ただのファッションに過ぎない。グラスを持った自分に酔い痴れているナルシスト――つまり、変態紳士なんだ。だから少年、品評会に出すなんてばかな考えはやめて、ボクの舌を信じなさい」


 珍しく長々と語り、ルイははっとしたように押し黙る。

 そのとき、廊下の奥から足音が近づいてきた。

 事務室内に入ってきたのは二十台後半くらいの青年で、燕尾服の正装だった。


「当店の給仕を務めております、ビムと申します」


 客人であるシャーロたちに一礼し、自己紹介をする。口元に接客用らしい笑みを浮かべていたが、テーブルの上の陶器製の瓶を見つけると、途端に動揺した。


「そ、それはまさか、今年の“の森”ですか?」

「ええ。今、試飲をしていただいたところです」

「ずるいじゃないですか、ルイさん!」

うるいのがきた」


 給仕のビムは、ルイを見下ろしながらまくし立てた。


「私は、この店のワイン倉庫を任されているんですよ。銘柄と味を記憶し、料理を引き立てる最高の一本を選び抜くのが仕事です。試飲だったら当然、私が行うべきでしょう。というか、なんで声をかけてくれないんですか!」

「忘れてた」


 頭を抱えてしまった青年は、どうやら“黄昏の宴”のソムリエらしい。テーブルのセットや接客なども行うが、ワインの管理と選択も重要な仕事のひとつである。


「ボクが味見をしておいたから、心配いらないよ。詳細はあとで教えてあげる」

「ルイさんは“うまい”か“まずい”かだけでしょ。そんなんじゃさっぱり分かりませんよ。舌と鼻はすごいのに、言葉足らずっていうか――いたっ」

「やっぱり煩いね、給仕君は」


 ソファーに腰をかけたまま、ルイはビムの太ももに拳を入れて黙らせた。

 どたばた騒ぎになったものの、給仕の青年は落ち着きを取り戻し、自分は“森緑屋”のワインの熱烈なファンだと告白した。


「いやまさか、生産者がこれほどお若い方とは思いませんでした。実は、お客さまに“彼の森”をお出しするたびに、どこのワインなのかを聞かれるんです。失礼ですが、葡萄の産地を教えていただくわけにはいきませんか?」


 シャーロは首を振って、きっぱり断った。


「うちは細々と家族経営している店ですから、あまり騒がれたくないんです。どこかの森の小さな醸造家。そういう紹介で、お願いできませんか?」

「なるほど。分かりました」


 それからシャーロは、陶器製の瓶をビムに差し出す。


「よろしければ、どうぞ」

「いいのですか!」


 水を得た魚のように元気になり、ビムは姿勢をぴんと正した。

 味見をする場所だけあって、この事務室には食器類もそろっている。ビムは戸棚から新しいグラスを取り出すと、やや高い位置からワインを注ぎ込んで、くるくると回した。


「素晴らしい。輝くような玉ねぎの皮の色。まだ咲き誇る前の、たおやかなすみれの香り」


 口に含んで頬をもごもごと動かす。


「豊かな土と、木の存在感。小鳥たちのさえずりと清水のせせらぎが聞こえてくるかのよう。柑橘類を搾ったさわやかな酸味と、心地よい木苺のような甘味が……」

「――ああ、むかつく!」


 何かの限界に達したかのように、ルイが立ち上がる。


「この変態給仕が! キミたちは言葉というものを愚弄ぐろうしているよ」

「い、いいがかりはやめてください」

「ワインは葡萄が発酵した味。余計な言葉を入れて、かき混ぜるんじゃない!」

「い、いたっ! ちょ、腹を殴るのはやめて」


 再びどたばた劇が始まったが、シャーロは我関せずといった様子で再び酒瓶にコルク栓をすると、隣のエルミナに渡して背負袋の中に仕舞わせた。

 とりあえず、今回の目的は達成である。去年よりもよい値段で売り込むことができるだろう。

 ねちねちと年上の給仕を虐め続けていたルイだったが、シャーロたちの帰り際に、ふいに思い出したかのように声をかけてきた。


「ああ、そうそう、シャーロ君。秋にはビストも取れるんだろう? ワインといっしょに持ってきてくれたまえよ」


 ビムが驚いたように目を見開く。彼女が他人ひとの名前を覚えるのが苦手だということを、よく知っていたからだ。


「ありがとうございます」


 シャーロははにこりと微笑んで、隣のエルミナとともに頭を下げた。

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