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第四章 おぼろ月を見上げて (1)

「――リザ姉っ!」

「リザお姉ちゃん!」


 真っ先に飛び出したのは、エルミナ。しかし、思い直したようにメグの手を取り、一緒になって飛び込んでくる。

 二人の妹を優しく抱きしめて、リーザは万感の思いで吐息をつく。


「エル、メグ。元気そうでよかった」

「リザ姉……」

「ふわぁあん、リザお姉ちゃぁん!」


 小さな手が、スカートを力いっぱい握ってくる。

 もう片方の腕に抱かれているのは、見覚えのある桃色の犬のぬいぐるみだ。

 少し短めの赤髪と柔らかな金髪を同時に撫でながら、リーザは幼い妹たちから伝わる感情を、全身で受け止めていた。

 夕暮れどき。“玉ねぎ娘”の入り口前。

 黄昏色の陽光がランプ灯の支柱を斜めに照らして、石畳の道路みちに長い影を落としている。“白馬車”が駆け抜けたあとは街の喧騒も途絶えて、激情を抑えるすべを知らない幼女の泣き声だけが、ひと際大きく響いていた。

 その声が店内にも届いたのだろう。鈴の音とともに、“定休日”の札がぶら下がった扉が開く。


「いらっしゃい、シャーロ君」

「よう、“森緑屋”」

「ごぶさたしています。ミサキさん、レイさん」


 涼やかな少年の声に、リーザの肩がぴくりと震える。

 気をきかせてくれたのか、エルが離れてメグの頭をぽんとたたいた。


「ほら、メグ。シャロ兄にも会わせてあげないと、だめだろう?」

「……む~」


 涙でぬれた顔をこすりながら、名残り惜しそうにメグが離れる。

 リーザが視線を上げると、すぐそばに兄が立っていた。

 癖のない黒い髪に、強い意志を宿す黒い瞳。そして、心持ち引き締まった口元。

 あの日と同じ、夕暮れの光を浴びている。

 すでに飽和状態になっていたリーザの心に、別の熱さが差し込んだ。


「リーザ」

「は、はい!」

「その……」


 珍しく言いよどむ。

 頭をかき、視線を落として、小さな息をひとつ。それから再び視線を戻すと、シャーロは意を決したように、ぽつりと呟いた。


「会いたかったよ」 


 その表情と仕草は、年相応の少年のもの。


「シャーロ兄さん!」

「――うわっ」


 たまらず、こちらから抱きついてしまった。

 マルコは“豊穣の大地屋”のお手伝い要員として、昨日の夜、すでにハルムーニ入りしているそうだ。今日は夏の自由市場の開催初日であり、残念ながらこちらには来れないらしい。

 まずは、お世話になっている二人に家族を紹介する。


「ほら、エル、メグ。お手紙に書いたでしょう? こちらが店長のミサキさんと、料理人のレイさんよ」

「はじめまして。エルミナです」

「メグです。五歳です!」


 そろってお辞儀する姉妹の姿に、レイは「ちゃんと仕込んでるなぁ」と感心したように頷き、ミサキは鼻息を荒くしてにじり寄った。


「ううっ、二人とも、将来有望だわ! うちなんかバカ息子ひとりだけなのに、なんてうらやましい! ああっ、創作意欲が、みなぎってきたわぁ」

「……サキさん、子どもたちが怯えるよ」


 互いに紹介が終わったところで、全員で“玉ねぎ娘”に入り、店のテーブルにつく。


「わあぁ」

「リザ姉、かっこいい」


 ミサキに促されて、リーザは仕事用の制服に着替えることになった。

 白を基調としたアレンジコックコート。膨らみの抑えられたフレアスカートに、フリルのついたカフェエプロン。そして首元にはスカーフ。コック帽のかわりに更紗さらさ模様で染められたバンダナを撒きつけているが、結び目の先が長く、まるでウサギの耳のように背中側に垂れ下がっていた。


「むっふっふ。うちは今、調理場に“王子さま”と“天使ちゃん”がそろって、史上最強なの。“リーザのランチ”の日なんか、もう大行列で、花束を持った――」

「て、店長!」


 リーザが慌てたように、ミサキの言葉を遮った。

 テーブルの上には、今のリーザが作ることができる店のメニューが並べられていた。豪華というわけではないが、どれもが心のこもった料理だ。

 久しぶりに姉の手料理を堪能したエルミナとメグは、このところ口に出していない「美味しい!」を連発し、シャーロを苦笑させた。

 三ヵ月半ぶりの家族との再会は、胸の奥深くに溜まっていた寂しさを一瞬で吹き飛ばして、懐かしい風を送り込んでくれたようだ。

 家族の食事を幸せそうに見守り、リーザはこれまで会えなかった時間を埋めるように、いろいろなことを聞いていく。

 鍛冶屋で働くことになり、どんどんたくましくなっていくダンのこと。自由市場の準備に奔走し、泣き出しそうになっているマルコのこと。エルが料理のお手伝いで、パンとシチューを同時に焦がしてしまったこと。メグが一所懸命にハルの世話を焼いていること。そして、ユニエの森からここまでの道中と、ハルムーニの街を見て感じたこと。

 その日にあった出来事を夕食のときに話すのは、ユニエの森の教会での、家族の習慣だったが、それが三ヵ月半に及ぶとなると、大変である。

 小さな身体をいっぱいに使ってお話しをするメグと、その服が料理につかないように世話を焼くエルミナ。その様子を見て、ミサキなどは常時口元がゆるみっぱなしだ。

 エルは、本当にお姉さんらしくなったわね。

 ごく短期間での子どもの成長に驚き、その喜びを噛み締めるリーザであった。

 楽しい夕食はあっという間に終わり、幼い二人の姉妹は、まるで元気の糸が切れてしまったかのように、あくびを漏らして目をこすりだした。

 何しろ初めての長旅を経験したばかりだ。

 今日は自分たちの部屋に泊まったらいいというレイの提案に甘えて、先にベッドで休ませることにした。


「二人とも、もう眠ったかい?」

「はい。ぐっすり」


 微笑みながら答えて、リーザはシャーロの隣に腰をかけた。

 対面にはミサキとレイ。がらりとした店内は、落ち着いた雰囲気を取り戻していた。お茶を飲みながら、今度は“玉ねぎ娘”でのリーザについての話になる。


「シャーロ君、とんでもないをよこしてくれたわね」


 このところの忙しさを思い返すように、ミサキが意地のわるい笑みを浮かべた。


「もともとうちの店――“玉娘たまむす”の客層は、レイ目当ての若い女性客と、かわいい制服を着たウェイトレス目当ての男性客が、ちょうどいいバランスをとってきたの。それが、リーザちゃんが加わったことで、一気に固定信者が押しかけるようになって、いまや三つ巴の戦国時代よ!」

「……」


 シャーロは何も言わずに、お茶をひと口。

 冷静沈着ふうではあるが、微妙な眉の角度から「これは、少し呆れている表情だ」と、リーザには分かった。

 やや憤慨したように、レイが抗議する。


「サキさん。前にも言ったけれど、リーザは今、修行中の身なんだ。見世物にするのはやめてくれよ」

「だってぇ、今が商売のチャンスじゃない。シャーロ君も商売人なんだから、私の気持ち、分かってくれるわよね?」

「身内のことは、別です」


 きっぱりと断言されて、ミサキは少し傷ついたように押し黙る。

 春の自由市場ではリーザを看板娘として遠慮なく働かせていたはずだが、どうやら他人に使われるのは面白くないらしい。そのことを察して、リーザは何故か嬉しくなった。


「それより、ちょっと聞いてもいいかな?」


 レイがシャーロに質問した。


「リーザは、誰に料理を教わった? 森の近くに住んでいたそうだから、野草とかに詳しいのは分かるけど。知識がちぐはぐなような気がする」

「と、いうと?」

「食材の下ごしらえとか、保存の仕方とか、今では文献に埋もれているような古い方法を知っているし、かと思えば、遠い地方の料理をアレンジして、さらりと出してくる。リーザは兄に教わったというけれど、そもそも君は、料理人ではないだろう?」


 腑に落ちたように、シャーロが頷いた。


「うちの家庭の事情は、ご存知ですか?」

「リーザから聞いた。戦争孤児なんだって?」

「それだけじゃありません。四年と少し前、俺たちは養育者まで失いました。残されたのは、俺を含めた六人の子どもだけ。食糧に関しては若干余裕がありましたが、それが尽きたら全員が飢え死にするかもしれない。そんな状態だったんです」


 淡々と語るシャーロに、さすがのレイも絶句する。

 リーザも当時のことを思い返していた。老神父が亡くなって、最初の一年間。生き抜くことに必死で、あまり実感していなかったが、あらためて説明されると、本当に危機的な状況だったことが分かる。


「まずは、森の中で食べられそうなものを探すことにしました」


 しかし、野草はえぐみがあるし、キノコは毒を持つものも多い。


「だから、村に住んでいる年配者たちの寄り合い――敬老会に無理やり参加して、食材の見分け方や、調理方法を聞きまくったんです。山菜やキノコ狩りにもついて回って、徹底的に教えてもらいました」


 老人たちは暇を持て余し、若者に自分の知識を伝えられることを喜ぶ傾向にある。 

 語弊があるかもしれないが、互いの利益が一致したわけだ。


「二年目の春からは、運よく自由市場に出られるようになりましたから、森でとれた食材などを商品にして、ようやく俺たちは、人並みの生活を手に入れることができたんです」


 当時、自由市場に出かけていたのは、十三歳のシャーロと十一歳のダンである。家に帰ってきた二人が、リビングのテーブルの上にずっしりとした売上げ袋を置いたとき、リーザは狐につままれたような気分になったものだ。


「ところで、自由市場に“出店者互助制度”というものがあるのは、ご存知ですか?」

「……いや、知らないな」


 レイは軽く目を閉じて、お茶に口をつける。


「自由市場に出す商品は、特殊なものを除いて、仕切人に売値を報告する義務があります。そして、値引きすることができる率も決まっているんです」

「へえ、そうなんだ」


 同じく店を経営しているミサキは、興味が沸いたようだ。


「一定の売上げを達成できなかった店は、次回の自由市場への参加資格を失いますからね。目標達成のための価格破壊を起させないための、運営側の措置です。店の裁量で実行できる値引率は、最大で五割。自由市場の最終日が“半額祭り”と呼ばれるのは、このためです」

「へへぇ~」


 しかし、出店している店同士が自分たちの商品を売買する場合には、さらなる値引きが許されていた。

 これが“出店者互助制度”である。


「つまり、お互いに助け合うわけね」


 ひとことでまとめたミサキに、シャーロが頷く。


「本来は売上げの微調整をするための制度ですが、帰りの輸送もありますからね。商品を売り切ってしまったほうが、店としても助かる場合もあります。自由市場が開かれるたびに、俺はこの制度を利用して、多くの食材を家に持ち帰りました。中には見たこともない怪しげなものもありましたが、店のひとに調理法方を聞いて、それをリーザに作ってもらったんです」


 それは、料理好きなリーザにとっても、楽しみのひとつだった。

 シャーロが持ち帰った食材がなくなると、身近な食材を代用にして同じような料理が作れないかと試行錯誤し、その後、家族の定番料理となったものもある。

 レイはリーザを見つめて、吐息をついた。


「なるほど。これで得心がいったよ。負うた子に教えられることが多くてね、不思議に思っていたんだ」

「そうなの?」

「この前、うちのメニューを一部改変しただろう? リーザのアイディアもかなり取り入れてる。ありがたいことに、私の料理の幅も少し広がったよ」


 ミサキは感激したのように、目をきらきらとさせながら、シャーロとリーザを交互に見つめた。


「シャーロ君、すてきな妹さんを連れてきてくれて、本当にありがとう。リーザちゃんも、慣れない都会暮らしと店の仕事で、大変だったでしょう。私も無茶は控えるから、今後ともよろしくね」

「い、いえ。そんな、わたしこそ……」


 ひたすら恐縮するリーザであったが、隣のシャーロは沈黙し、カップのお茶を飲み干してから、「そのことですが」と、話を切り出した。

 ひと呼吸置いて、言葉を続ける。


「実は、お二人にご報告することがあります」


 和やかな雰囲気に不明瞭な緊張感が走り、リーザの胸がどくんと音を立てた。

 この場で改めて報告することといったら、ひとつしかない。

 テーブルの下。シャーロの手が伸びて、リーザの手に重なる。

 どきどきしながら顔を向けると、兄は優しげな口調で「いいね?」と問いかけてきた。

 ぼっという音を立てるかのように、顔が熱を持つ。

 やっとの思いでリーザはこくりと頷き、二人でミサキとレイのほうに向き直った。

 そして、ひと呼吸。


「俺とリーザは、結婚します」


 回りくどい表現が好きではない兄の、それはリーザが予想した通りの言葉だった。

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