第三章 (5)
すんすんと、鼻を効かせてみる。
煮込まれているのは、葉野菜と玉ねぎと、おそらくベーコン。
甘くて柔らかないい香り。その中に、パンが焼ける香ばしい匂いも混じっている。
手間がかかるから焼かなくてもいいと言ってるのに、しかたがないな。
まな板をリズムよく叩く包丁の音。決して早くはないが、とても丁寧な包丁さばきだ。音が細かい。香草でも刻んでいるのだろうか。だとすれば、そろそろ朝食が完成する頃合いだろう。
布団から顔を出して、薄目を開けてみる。
部屋の中はまだ薄暗かったが、カーテンの隙間から漏れている光を見れば、おおよその時間帯が分かる。
“開門の鐘”が鳴る前。こんな時間に目が覚めるなんて、まさに奇跡だ。
窓の前にある棚には小さな鉢植えが飾られており、可愛らしい花をつけた草花が、朝の光を待ちわびているようだった。
ひと月前。鉢植えの中身は干からびた茶色の物体だったはず。
わるくないと思った。
包丁の音が止み、ぱたぱたと軽やかな足音が近づいてくる。
「レイ、起きて。朝ごはんですよ」
ちょっと意地悪をして寝たふりをしてみる。
しっかりものの同居人はカーテンを開けると、再び声をかけてきた。
「ほら、今日はとってもいい天気」
もう一度目を開けると、透明な朝の光を受けながら、亜麻色の髪と空色の瞳を持つ少女が幸せそうに微笑んでいた。
これは、反則だろう。
何故か気恥ずかしくなって、頭から布団を被り直し、身体ごと横を向いてしまう。
「まだ、眠い」
「今日は仕入れの日ですよ。ミサキさんがきちゃいます」
布団の上にかかるかすかな圧力。やさしく揺り動かされる。
思わず顔がにやけてしまった。
これが店長だったなら、遠慮なく布団をはぎ取られてベッドから叩き落されていたことだろう。
なんというか、頬をくすぐられるような、どこか照れくさいような……。
新婚生活というのは、こういう感じなのだろうか。
「――っ」
寝ぼけた頭に浮かんだその考えに、愕然とする。
まて、まて、まて――待て。
相手は五歳も年下の、十五歳の女の子だ。
というか、その前に――私も女だっ!
勢いおいよく布団を跳ね上げて起き上がると、同居人の少女は両手を上げて目を丸くしていた。
「お、おはよう、ございます」
寝癖のついた髪をかきながら、レイは盛大にため息をついた。
「……おはよう、リーザ」
この可憐な少女が“玉ねぎ娘”に来て同居することになってから、ひと月が過ぎた。
その間、レイの周囲の生活環境は、劇的に改善された。
部屋の中はいつも整理整頓され、窓際には草花が飾られている。床や棚の上には埃ひとつ落ちていない。クローゼットの中の服はすべて洗濯され、きれいに折りたたまれている。
店長のミサキなどには「この部屋、こんなに広かったのねぇ」と、感心される始末。最初のころは「少しくらい散らかっていたほうが落ち着くんだよ」と、負け惜しみを言っていたものだが、すぐに降参した。
干からびた茶色の物体よりも、みずみずしい草花のほうがいいに決まっている。
しかも、朝食の香りに誘われて、苦手な早起きまでできるようになった。
これはもう、ため息をつく他ないという状況である。
寝室を出ると、店の休憩室兼自分たちの食卓へと向かう。
中央には大きなテーブルと六脚の椅子があり、壁の隅にはレイが愛用しているソファーが配置されている。休憩室のさらに先が、店の調理場だ。
テーブルの上には、二人分の食器と陶器製のポット。ここにも小さな草花の鉢植えが飾られている。
朝食のメニューは、玉ねぎとベーコンのスープ。オレンジの果汁を使ったドレッシングと、葉野菜のサラダ。そして焼きたてのパンとチーズ。
ドレッシングはレイが教えたもの。出来はどうだろうか。
「さあ、レイ。食事の前に、顔を洗ってくださいね」
「……うん」
そんな習慣などなかったはずだが、素直に従って調理場に向かう。面倒くさいと思いつつも、この少女に微笑まれると、何故か逆らうことができないのだ。
とはいえ、顔を洗ってすっきりしてから暖かい朝食をとるのは、気分がいい。
だからおそらく、これも正しい行為なのだろう。
今日は“玉ねぎ娘”の定休日である。レイは店長のミサキと一緒に、食材の買出しに出かける予定だった。
そしてリーザも、用事があるらしい。
「裁縫の手伝い、だっけ?」
「はい。サムジさんの友だちで、ミリィさんっていう方がいるんですけど。学校の課題を手伝って欲しいみたいなんです」
サムジというのは、ミサキの息子である。
服飾の専門学校に通っていて、将来はデザイナーを目指しているらしい。
母親の影響を色濃く受けているのだろう。
サムジは流行の最先端らしい奇妙な帽子と派手な杖を携えて、“玉ねぎ娘”にもよく顔を出す。
ウエイトレスたちのナンパが目当てのようだが、以前、男女の関係でいざこざがあったこともあり、彼女たちからは総すかんをくらっていた。
レイとしては、まったく興味のない情事である。しかし、休憩室のソファーで寝そべっていると、かしましいウエイトレスたちの噂話が、嫌でも耳に入ってくるのだ。少女たちの色恋沙汰に関しては、いつの間にか詳しくなってしまった。
「学校の課題なんて、自分でやらなきゃ意味がないだろう?」
パンをちぎりながら聞くと、リーザは小首をかしげた。
「ひとりでこなせる量じゃないらしいです。グループで課題が与えられているから、みんなに迷惑をかけられないって」
生徒が手に負えないような課題が、出されるわけがない。おそらく、ミリィという娘が、さぼっていたのだろう。
せっかくの休日なのに、他人の課題の手伝いをすることはないと思ったが、当の本人はどこか楽しそうに見えた。
「ミリィさんが、いろいろな縫い方を教えてくれるんですよ」
それは、自分の課題をやらせるためだろう!
思わず突っ込みを入れたくなるが、我慢してため息をつく。
店の入口の扉につけられた鈴が鳴り、店長のミサキと、その息子であるサムジが休憩室に入ってきた。
「おはよう、王子さま、リーザちゃん」
「迎えにきたよ、リーザ」
「おはようございます。店長、サムジさん」
「ノンノンノン」
サムジは花柄のステッキを小脇にはさむと、指先を立てて左右に振った。
「オレのことは、“ピエロ”って呼んでくれよ、マイハニー」
「なにおバカなこと言ってんの。さっさと帽子を脱ぎなさい」
「――うっ」
山高帽をとって、うなだれるサムジ。
これもウェイトレスたちの談笑で知ったのだが、最近若者たちの間では、“通り名”をつけるのが流行っているそうだ。
“ピエロ”――聞いているこっちのほうが恥ずかしい。頭の中に蛆でも湧いているのだろうか。
ミサキはテーブルの上を見て、くんくんと匂いを嗅ぎ、それからいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「いい匂い。とてもすてきな朝食ね、レイ?」
ひと月前は、かちかちのパンと水だけだった。そのことを揶揄しているのだろう。
「スープが残っていますけど、お二人もいかがですか?」
お代わりをしようと思っていたのに、リーザが気をきかせる。
「そうね、いただいちゃおうかしら」
「オ、オレも!」
心の中で、舌打ちをする。朝食のときくらいリーザとゆっくりしたかったのに、台なしである。
騒がしい朝食が終わると、食器のあと片付けをして、“玉ねぎ娘”を出た。
朝市は、南区にある南門前大通りで定期的に開催されている行事である。年に三回、自由市場が開かれるのもこの通りであり、年中人通りが絶えない。
“白馬車”に乗り込むため、四人で近くの停留所へと向かった。
ミリィという友だちは西区に住んでおり、徒歩でいける距離らしい。
リーザとサムジはここでお別れとなる。
「おい、サムジ。ちょっとこい」
ミサキとリーザは停留所のあたりで談笑中。その隙をついて、レイはサムジを呼びつけた。
「な、なんだい? レイ」
「――あん?」
「レイ、さん」
この男は“玉ねぎ娘”のウェイトレスには気軽に声をかけて、営業中でもナンパをする不届き者だが、どういうわけかレイのことが苦手らしい。
身長の差があるので、やや高い位置から見下ろしつつ、レイは低い声で言った。
「リーザと出かけるからって、調子にのるなよ」
「そ、そんなことは」
顔を強張らせるサムジをじっと見つめてから、レイはその肩に手を置き、耳元に顔を近づける。
「あの娘は、うちの大事な料理人なんだ。裁縫なんかで怪我をさせたら……」
「……さ、させたら?」
獲物をしとめる狼のように、灰色の瞳をかっと見開く。
「お前を、こ――」
「レイ、白馬車がきましたよ!」
停留所でリーザが両手を振っていた。
すばやく表情を切り替えると、レイは無言のままサムジの肩をぽんと叩き、両手をポケットにつっこみながら、ゆっくりと停留所へと向かった。
朝も早いこともあり、白馬車の中は二人の貸切り状態だった。
ミサキは上機嫌で、「リーザちゃん、本当にいい子ねぇ」と、しきりに感心している。
「もうひと月経つけれど、どうかしら?」
「どうって?」
「仕事のことよ。あの娘、まだ十五歳でしょう? お鍋やフライパンを持つのも、大変じゃないかしら?」
家庭用とは違って、プロの料理人が使う調理道具は総じて重い。フライパンなども火が均等に行き渡るように、底に厚みを持たせてあるのだ。
「ちゃんとした技術があれば、そんなに力はいらないよ」
「そうなの?」
「脇をしめるとか、手首を固定するとか、そういうやつ」
「ふ~ん」
料理人といっても、リーザはまだ見習いである。“玉ねぎ娘”の調理場では、野菜の皮むきなどの下ごしらえや、煮込みものの灰汁とりなどが仕事だ。営業中はサラダなどの盛り付けなどもしているが、客に出すメインの料理を作っているわけではない。
「店のメニューを、少しずつ朝食で作ってもらってる」
「今日の、サラダのドレッシング?」
「そう。ちょっとアレンジされてたけど、うまかったよ。野草が入ってた」
「……野草?」
「うん。森とかでとれるやつ。へんな背景を持ってるみたいだね」
それから店の売上げの話になり、レイはミサキに最近感じている疑念をぶつけた。念願の人手が増えたはずなのに、彼女の感覚では、あからさまに忙しくなっている気がするのだ。
「うちの売上げとか、どうなの? サラダとか、注文が半端ないんだけど」
「へっへぇ。聞いて驚きなさい」
ミサキは満面の得意顔で、ひと月の売上げが二割り増しになったことを告げた。
「なんで?」
本気で不思議がるレイに、ミサキは教師のような顔で問題を出す。
「カウンターから見える位置にいて、すてきな笑顔でサラダの盛り付けをしてるのは、いったい誰でしょう?」
「……リーザ?」
「大正解!」
今度はいたずらが成功した生徒のように、ミサキは笑った。
「だから、売れてるのよ」




