第三章 (3)
村長宅の石垣や門構えはさすがに立派で、庭先や玄関口も広い。
本宅の他にも馬小屋や個人用の井戸、そして大きな“離れ”があり、ここが寄り合いなどの集会場として利用されていた。
チムニ村の現村長は、すでに還暦に近い年齢である。
若いころは行動派の村長と呼ばれていたそうだが、とある豪商の娘であったタミル夫人と結婚してから、急激に存在感が薄くなった。
夫人の専横を止めるわけでもなく、息子の放蕩を咎めるわけでもない。
鬼嫁を恐れる日和見主義者。これが、村人たちの村長に対する共通認識であった。
商工会の寄り合いに初参加したマルコは、やや緊張した面持ちでシャーロの隣に座り、偽の帳簿を大事そうに抱えていた。
“離れ”の中央に設置されている大きなテーブルの上には、二人分のお茶。なんとなく手を付けられずにいる。
すでに日は暮れているのだが、二人以外誰もいない。
いい加減お茶も冷めきったところで、大人たちがやってきた。
「待たせてわるかったの。シャーロ君、マルコ君」
最初に部屋に入ってきた村長の顔は、疲労の色が濃いようだ。
頭はすっかり禿げ上がっており、その口元には、長期間に渡って無理やり笑みを作ってきたかのようなしわが、深く刻み込まれていた。
次に姿を現したのは、夫以上に立派な体格の持ち主、タミル夫人である。相変わらず口紅の色が濃く、原色系の派手な装い。
さらに、ひとり息子のヤドニ。背が高く、こちらはひょろりとした体格。そばかす顔で、口元がにやついている。今にも口笛を吹き出しそうなほど上機嫌な様子である。
主役となるはずの商工会のメンバーは、三人だけ。
村で唯一の酒場の店長。名前は知らないが、みなからマスターと呼ばれている。
村外れで陶芸をしている、ソウ先生。
そして、地主であるヌウ婆。
「さあ、みなさん、着席なさって。ヤドニちゃんも、わたくしの隣にお座りなさいな」
「お、おふくろ! ちゃん付けはやめろよな」
ヤドニは渋面になり、不機嫌そうに腰をかけた。取り巻きたちと行動しているときとは、ずいぶん態度が違うようだ。
他の面々もテーブルにつき、ようやく準備が整ったようだ。
「時間もないことだし、さっそく会議を始めるわよ」
ひと吸分の間を置いてから、タミル夫人は豊かな声量で発表した。
「今日の議題は、ずばり――“村おこし”よ」
隣のシャーロの様子を窺うと、目をわずかに見開いていた。
この程度の話で驚くはずがないので、おそらく演技だろうとマルコは推測する。
「ふふ。いろいろと聞きたそうな顔をしているわね。無理もないわ」
タミル夫人は満足そうに頷いてから、ふくよかな手を村長に向かって差し出した。
村長は懐から書類の束を取り出して、妻に渡した。
「これは、ハルムーニで開催されている自由市場の“規約書”よ」
それならば見たことがある。
というよりも、内容についてはほぼ丸暗記しているマルコだった。
「チムニ村の商工会として、自由市場に参加するということですか?」
「さすがはシャーロ君。話が早いわね」
「俺たちは、なにをすればいいのでしょう」
「平たくいえば、協力……かしら?」
シャーロは納得したかのように、ひとつ頷いた。
「俺たちもチムニ村の住人です。村のためならば、協力は惜しみませんよ」
その言葉に、どこか安堵したような空気が漂った。商工会のメンバーは互いに視線を交換し、わずかに身じろぎをしたようだ。
「ありがとう、シャーロ君。そう言ってもらえると助かるわ」
「こちらこそ、いつも助かってますよ。馬車をお借りすることができなければ、うちは商売すらままなりませんからね」
比較的和やかな雰囲気の中で、会議は進行した。
「わたくしも、ハルムーニにはよく出かけて買い物をするけれど、自分で商売をするとなると、要領がつかめないの。あなたたちの店――“森緑屋”さん、だったわね?」
「はい」
「どのような商品を扱っているのかしら?」
「そうですね。マルコ――」
声がかかったということは、発表してよいということだろう。
マルコは帳簿を開いて、“森緑屋”の“商品目録”を読み上げた。
とはいえ、実際にハルムーニに持ち込んだ商品のすべてではない。
たとえば、今回人気を博した“カラシバ薬茶”などは、目録から除外している。これが売れると分かったら、村はずれにある沼地に自生しているカラシバは、瞬く間に取り尽くされてしまうだろう。
マルコが読み上げた内容に、酒場のマスターが不思議そうな顔をした。
「ほとんどが、森で採れるものみたいだな。木の実とかでも売れるのかい?」
シャーロは微笑を浮かべた。
「酒のつまみとして、うけたみたいですね」
「まあ、うちでも扱っちゃいるが、それほどのものかねぇ」
「たとえばキチの実ですが、マスターの店の二倍の値段で売れていす」
「……え、嘘?」
キチの実は硬い皮を割って中身を乾燥させる必要がある。加工するのに手間がかかるので、チムニ村ではあまり重宝されていない。せいぜいが保存食扱いである。
さすがに二倍という数字には驚いたようだが、これはキチの実がハルムーニで高く売れたというわけではなく、村での販売価格が安すぎるのだとマルコは分析していた。
チムニ村には自然が身近に存在している。ゆえに村人たちとしては「そこらへんの木になってるもので商売をするのか」という意識が働いてしまう。加工の手間などを加味した適正な価格がつけられないのだ。
「そのキチの実は、どれくらいの量が売れたのかしら?」
タミル夫人の問いに、シャーロはすぐに視線を移す。
「マルコ、どうだ?」
「えっと、小籠で一杯です。金額に換算すると……」
マルコが口にした金額を聞いて、タミル夫人は鼻白んだ。
ろくな儲けにならないと判断したようだ。
その他の商品についても、夫人の食指をそそるものはなかった。
収穫することが難しいキノコ。育てるのに時間がかかる鉢植え。加工に手間がかかる木の実や香草。編み物などはデザインによって売れ行きが大きく変わってしまう。
それらすべてが微妙な利益を生み出して、全体ではほどよい金額に収まっていた。
「あまり、参考にはならないわね」
タミル夫人としては、人手をかけて短期間に大量生産して、売り捌けるものを期待していたのだろう。しかしシャーロの指示により、そのようなことができる商品は削除したり、あるいは巧妙に隠蔽されている。
「お役に立てなかったようで、すいません」
神妙な面持ちで謝るシャーロに対して「気にすることはないわ」と、なぐさめたタミル夫人だったが、ふと気づいたようにマルコの手元に視線を置いた。
「その帳簿、少し預からせてもらえるかしら?」
「はい、分かりました。マルコ――」
「……え、ええ?」
マルコは慌てて、引きつったような声を上げた。
「で、でも、シャーロ兄さん、いいの?」
「うん? なにがだ?」
「だって、うちの帳簿だよ? 商売の情報が全部載ってるのに、他人に渡しちゃったら、その……」
「ああ、そうか」
シャーロは少し考え込む様子を見せたが、それでもマルコから帳簿を取り上げて、タミル夫人に渡した。
「一応、他の方には見せないでくださいね」
「わたくしも、元は商売人の娘だもの。気持ちは分かるわ」
――わ、わっ。本当に、言ってきた!
心の中で、マルコは滝のような汗を流していた。
これら一連のやりとりに関しては、村長宅へ向かう道すがら、シャーロと事前の打ち合わせをしていたのである。
今まで招待すらされなかった商工会の寄り合いで、春の自由市場の報告が求められた。同胞である“森緑屋”の活躍を聞いて、ともに喜びを分かち合うため、などではない。タミル夫人が求めてくるのは、商売のノウハウだろうとシャーロは結論づけた。
おそらくは、商工会で一致団結し、ハルムーニに直営店を出す。あるいは、自由市場に出店する計画を立てているのだろう。
遅かれ早かれ、このような動きが出てくるだろうとは、予測していたらしい。
商売上の秘密を理由に協力を拒むこともできるだろうが、今後、おもに生活面において、不都合が生じる可能性が高いと、シャーロは判断した。
閉鎖的な村の社会で権力者に逆らうことは、おおげさではなく、自らの首を絞める行為なのである。
このような状況下において、自分たちが成すべきことは、三つ。
ひとつ目は、タミル夫人の信頼を得ること。
話し合いの中では、あくまでも協力的な姿勢をみせる。そして、自由市場に関する“森緑屋”の情報を、ある程度公開する。
ふたつ目は、商売の肝となるノウハウを、完全には教えないこと。
裏帳簿を作成し、利益を減らし、商品を隠蔽した。
そして三つ目は、これらの行為に関して――決して疑われないこと。
「だからもし、タミル夫人が帳簿を渡すように要求してきたら、真っ先にマルコが反対するんだ。あっさり渡したら、逆に怪しまれるかもしれないからね」
タミル夫人は偽造された帳簿をぺらぺらとめくっていたが、すぐに興味を失ったようで、「もう十分よ」と、返却した。
内心、ほっとひと息つくマルコである。
「まあいいわ。この村にも、商品となるものはたくさんあるわけだし」
これまでぴくりとも動かなかった地主のヌウ婆が、もごもごと口を動かした。
「次の自由市場は、夏じゃろう? うちの畑の野菜を売ればええ」
「我が陶芸作品も、出品させていただこう」
ソウ先生は自信あり気な様子である。
タミル夫人は隣で座っている息子に立つよう促した。
「商工会では、チムニ村の農作物や工芸品を商品とする店――“豊穣の大地屋”を立ち上げることにしたわ。代表は、ヤドニちゃんよ」
ヤドニは両腕を組んで、得意げに鼻の穴を膨らませた。
驚きのあまり、マルコは呆然としてしまった。ここで村長のひとり息子が出てくるとは思わなかったのである。
「ひとつ、質問があります」
「なにかしら?」
シャーロが遠慮がちに指摘する。
「規約に載っていると思うのですが、自由市場に新規で参加するには、抽選で選ばれる必要があるんです。夏の自由市場に、すぐに参加できるとは限りません」
場の空気が硬直した。
「……そう。その通りよ」
まさにその言葉を待っていたとでもいうかのように、タミル夫人は妖艶な笑みを浮かべた。
「規約、第二十五条第二項」
「――まさかっ」
シャーロは立ち上がり、タミル夫人を驚愕のまなざしで見つめた。
第二十五条第二項は、出店者の優遇措置についての条項である。
第一項にて規定されている要件――自由市場に十回以上、連続で出店し続けること――を満たした店に対してのみ与えられる“特典”が規定されていた。
おもな内容は、次の三点である。
一、売上げが最低限度額を達しなくても、次回の自由市場に参加することができる。
二、一度出店を辞退した場合でも、次回の自由市場に参加することができる。
三、出店を辞退するかわりに、他の店を推薦することができる。
今回の春の自由市場で、“森緑屋”は十回連続の出店となり、条件を満たすことになった。
タミル夫人は、三番目の特典の行使――つまり、夏の自由市場では“森緑屋”の出店を辞退し、“豊穣の大地屋”を推薦するよう求めてきたのだ。
自由市場での商売が“森緑屋”、ひいてはシャーロたちの生活の要であることは、誰もが知っていることだ。
現に酒場のマスターなどは、申し訳なさそうな顔でこちらを見ていた。しかし、村長夫人を敵に回してまで反対するほどの気概は持ち合わせていない。
ソウ先生はまったくの無表情。この陶芸家は自分の生み出した作品に対してのみ興味を持っているので、他人のことに関心がない。
そしてヌウ婆は、もごもごと口を動かしながら、実に満足そうに頷いていた。金儲けが大好きで、しかもケチなことで有名な老婆である。自分の土地で作った農作物が売れるのであれば、他はどうでもいいのだろう。
もしここに、鍛冶屋のパリィ親方や八百屋のカルラがいれば、タミル夫人の独善的な要求に反対してくれたかもしれない。
だが、故意か偶然か、味方はひとりもいないようだ。
「確かに俺は、村のためならば、どんな協力でもするといいました。しかしこれは――あんまりです!」
テーブルの上に両手をついて、シャーロは肩を震わせた。
部屋の空気が緊迫し、重い沈黙が舞い降りる。
いたたまれない雰囲気の中、タミル夫人が夫に向かって無言で小さく顎を突き出した。
「……シャーロ君。気持ちは分かるが、ここはひとつ、わしの顔を立ててはくれんか」
それは、話し合いが硬直したときに、村長が口にする常套文句。一種の強制力を孕んだ“切り札”であった。
この要求に逆らうということは、村長の顔を潰すことでもある。
心の葛藤の消化に苦しむかのように、シャーロはテーブルに視線を落としていたが、ふいに顔を上げると、大きく息をついた。
「……分かりました。夏の自由市場については、“森緑屋”は参加を辞退します」
シャーロは椅子に腰をかけて、「興奮してすいませんでした」と謝った。
同時に、弛緩したような空気が室内に漂う。
「別に、気にしなくていいのよ」
取り繕うように咳払いをして、タミル夫人はテーブルの上で両手を組んだ。
「それに、シャーロ君も商工会の一員なんですからね。こちらから要求するばかりではないわ。実は、もうひとつ提案があるの」
タミル夫人はぼんやりと突っ立っている息子を愛しげに見上げた。
「ヤドニちゃんは、この大役を立派にやりとげると思っているけれど、やはり、商売に関しては経験が浅いですからね。シャーロ君が副代表として補佐をする、というのはどうかしら? そうすれば、“森緑屋”の商品も、少しくらいは”豊穣の大地屋”で販売することができると思うわ。これなら、お互いにメリットがあるわね」
ヤドニは得意げに笑って、シャーロを見下ろした。
「言っておくが、俺が代表だからな。立場をわきまえるんだぞ」
実務的な作業をすべてシャーロに押し付けて、利益だけを掠め取る。そんな理不尽な構造が、マルコの頭の中に浮かんだ。
ようするに“豊穣の大地屋”は――いや、タミル夫人は、シャーロと“森緑屋”を丸ごと取り込みたいのだ。
そして、得られる利益は、代表である自分の息子のもの。
普段あまり表情を変えない兄は、困惑したように頭をかいた。
「大変名誉なことだとは思うのですが、自信がありません」
「どういうことかしら?」
シャーロはマルコの肩に手を置いて、説明した。
「実は、自由市場に関する事務作業は、弟のマルコに一任しているんです」
これは嘘ではない。仕切人へ提出する書類の作成や、売上げと市場税の想定、そして決算などは、すべてマルコが引き受けていた。
「先ほどから見ていただいている通り、俺は、帳簿すらろくに読めません。計算も不得意で、マルコに頼りっきりなんです」
これは明らかな嘘だった。
先ほど帳簿についての改変を、シャーロの指示に従って実施したばかりだ。そもそもマルコは、帳簿のつけ方自体をシャーロから教わったのである。
初めて意識されたかのような視線が、マルコに集中した。
「ですから、“豊穣の大地屋”には、うちのマルコをつけますよ」
「……!」
これは、事前の打ち合わせにはなかった展開である。
思わず伊達眼鏡をかけ直したマルコに、シャーロは問いかけた。
「マルコ、やれるか?」
ユニエの森の教会において、家長の命令は絶対。「やれるか?」という言葉は、「やれるな?」という意味に他ならない。
心の中で大量の脂汗を流しながら、マルコは「できます」と、小さな声で答えた。
両手を重ねたまま、タミル夫人は微笑んでいる。
“切り札”と呼ばれるものは、これ以上存在しないようだった。




