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第三章 新しい生活 (1)

 床の上に置かれたバスケットの中には、小さな生き物が震えていた。

 毛色はくすんだ褐色。ところどころ禿げており、みすぼらしい姿である。身体に対して頭が大きく、両目は離れている。耳は長く、バスケットの底までだらしなく垂れ下がっている。逆にしっぽは短くて、使い古されたブラシのようにぼさぼさだった。

 あきらかに不恰好な子犬だが、ひと回りして可愛らしいと言えなくもない、かもしれない。

 事前のエルミナのリクエストは、「おっきくて、よく走る犬」。

 しかし、最初から大人の犬を買うつもりはなかったし、大きくなるか、よく走るかどうかは、育ってみないと分からない。それに、血統書付きの犬だったとしても、える犬は吼えまくる。

 だから、値段で決めたとしても大差はない。

 それがシャーロの選定理由だった。


「かわいいだろう?」

「ゴフッ」


 飼い主の言葉に同意するかのように、バスケットの中の子犬は、中年男がせき込むような鳴き声を上げた。


「……これ、なに?」

「犬だ」


 エルミナの問いに正確に答えてから、シャーロは家族の反応を確かめた。

 身体の大きなダンは無言のまま。

 マルコは伊達眼鏡を外して、じっと観察している。

 自分が想像していたものとのギャップに、エルミナは混乱している様子。

 そして、一番小さいメグは――


「シャロお兄ちゃん、だっこしていい?」

「ああ、やさしくな」


 恐る恐るといった様子で子犬を持ち上げて、しっかりと抱きしめた。


「……ハル」

「うん?」

「ハルムーニの春の自由市場で買ってきたから、ハル。わたしとメグで決めたんだ」


 エルミナが照れくさそうに説明する。

 わるくない名前だと、シャーロは思った。


「ハル」

「ゴフッ」

「――ハル!」


 歓喜の声を上げると、メグは子犬を抱きかかえたままくるりと回った。

 不細工な子犬ではあるが、可憐な金髪少女に抱きかかえられていると、何故か絵になるものである。


「あ、メグ、ずるいぞ! あたしもだっこするんだから!」


 エルミナがメグに抱きつき、二人で笑い合う。


「あれ、なんていう種類の犬なの?」


 マルコの問いに、シャーロはわずかに首を傾げた。


「外国の王侯貴族がペットにする高貴な犬種だとか言っていたが、たぶん雑種だろう。ほら、自由市場で毎回ペットを売りにくる怪しい店」

「“珍妙屋ちんみょうや”だね。あそこで買ったの?」

「“互助制度”を使ってな。八割引きだ」


 最後のひと言は、妹たちに聞こえないほどの小声である。

 ダンがおずおずと申し出てきた。


「あんちゃん。犬小屋、作ったんだけど」

「ああ、家の前にあったやつだろう? 相変わらず仕事が早いな」


 自由市場から帰ってくると、すでに玄関の隣に立派な犬小屋があるのを見て、驚いたものである。もちろん、手先の器用なダンが作ったものだ。

 確かに犬を買うと約束をしていたが、まさかこの短期間で犬小屋を作るとは思わなかった。もし買い忘れていたら、家族の非難が集中していたことだろう。


「でも、しばらくはバスケットの中だな。餌もミルクとやわらかく煮込んだ穀物が中心だ」

「メグ、ミルクあげる!」

「どうしよう、シャロ兄。温めたほうがいいかな?」

「沸騰はさせるなよ。ひと肌くらいの温度だ」

「準備してくる――」


 エルミナが走り去ると、ダンがいそいそと木製の皿を持ってきた。

 やや大きめの皿で、底の部分が平らになっている。縁のところに「ハル」という文字が、浮き彫り《レリーフ》にされていた。つまり、周囲の面をすべて削ったということだ。


「……仕事が早いな」

「うん」


 実は、この身体の大きな弟が一番楽しみにしていたのではないだろうか。




「ひゃ、百台っ!」


 シャーロが自由市場での出来事――“怠け箱”を注文した老人の話をすると、マルコが驚きの声を上げた。

 すでに日が落ちて、かなりの時間が経過している。

 エルミナとメグは寝室で眠っており、リビングにはパチパチと薪が燃える音と、「スピピピ」という子犬のいびきらしい声が、不定期に響いていた。

 テーブルの上には、三人分のお茶と、“怠け箱”。

 シャーロはくだんの老人から受け取った名刺を、目の前に掲げてみせた。


「“瑪瑙めのう商会”といえば、鍋や包丁なんかの高級な台所用品を扱っていることで有名な老舗だ。ジュモン老公――つまり、会長だな」

「それ、本当に、本人?」

「ほぼ間違いないと思う。名刺にある住所は、東区の“けやき坂”。高級住宅が連なる有名な通りだ。ちょっと偵察してきたけれど、それらしい豪邸があったよ。表札の名前は、名刺のものと一致した」


 そう言ってシャーロは、“怠け箱”をぽんと叩く。


「こいつを改良して、夏の自由市場までに、百台――いや、予備を含めて百十台、完成させる」


 シャーロはここが“森緑屋”の転機だと考えていた。

 これまでの四年間、彼は家族の生活向上のために、あらゆる手段を講じてきた。

 ユニエの森は多くの恵みを与えてくれる。この場所でなければ、家族全員が生き残ることも、“森緑屋”の商売がここまで拡大することもなかっただろう。

 しかし、それでも限界はあった。

 野葡萄にしろ木の実やキノコにしろ、無尽蔵に手に入れられるわけではない。天候に影響を受けやすいので、不作の年もある。そのたびに収入が不安定になるのでは、長期に渡る生活の計画は立てられない。

 だが、鉄と木と石でできた工業製品ならば、安定した生産量を望むことができる。

 設計図を引き、部品を発注し、組み立てる。この工程を確立すれば、ユニエの森にとらわれずとも、商品を作り出すことができるかもしれない。

 ハルムーニの人口は、登録されているだけでも五万三千。世帯数は約一万五千。どれだけの売上げが見込めるかは不明だが、全力を尽くす価値はあった。


「一時的に金を使う。マルコは家計のやりくりを頼む」

「う、うん」

「ダン、“怠け箱”の改良に取りかかるぞ。今のままじゃ商品にならない」

「わ、分かった」

「試作品が完成したら、パリィ親方にも意見を聞こう」

 

夏の自由市場まで、約三ヶ月半しかない。しかも、初めての顧客との最初の取引きである。信頼関係のまったくない状態で、不良品を一台でも出すわけにはいかなかった。


「家の仕事の分担も変えよう。すまないが、しばらくはマルコに負担がかかると思う。食事の準備と、エルとメグの勉強もみてくれるか?」

「う、うん、だいじょうぶ」

「よし――」


 ダンがパリィ親方に弟子入りする日も間近に迫っていた。

 二、三日で、改良された“怠け箱”の試作品を完成させることができるだろうか。

 不可能ではないと、シャーロは考えていた。

 実は、春の自由市場で展示した二台目の“怠け箱”を作るときに、大きさや厚さ、歯数の異なる鉄の歯車を、数種類作っていたのである。

 小型化については以前から考えていたし、“怠け箱”の欠点も分かっていたからだ。


「ジュモン老公の要望は、小型化することだ。だけど、それだけじゃ足りないと思う。歯車や火打石の磨耗の問題もあるし、安全面の問題もある。なんといっても火を扱う道具だからね。“怠け箱”が出火の原因になったとしたら、目も当てられない」


 しかし、複雑な構造にするのは問題があるだろう。


「あれこれ部品を追加すると、生産性が落ちるし、逆に故障する確率が高くなる。そして今は、失敗を繰り返しながら修正していく時間がない」


 基本的な構造や機構を変えず、改良を加えるには――

 すっかり考え込んでしまったシャーロだったが、心配そうに見つめてくる弟たちに気づいて、自戒とともに頭をかいた。

 意識的に表情を緩め、穏やかな口調に切り替える。


「二人とも、そんなに思いつめた顔をしなくてもいいんだぞ。別に、命をとられるわけじゃないんだ。本当に命がけだったこの四年間に比べれば、たいしたことはないだろう?」


 自分を含めた六人の命をつなぎ、誇りを失わず、自立した生活を営む。今回の仕事も、その目的を達成するための手段でしかない。

 やることは同じ。

 よい商品ものを、全力で作ることだ。


「よし、作業場にいくぞ、ダン」

「え?」


 お茶を飲み干して立ち上がったシャーロだったが、ダンとマルコはぽかんと口を開けてしまう。


「あ、あんちゃん、今からやるの?」

「だって、自由市場から帰ってきたばかりだし、明日からでも……」

「いや、一日を無駄にしたくない」


 ひとが一日に進める距離は、ある程度決まっている。

 現実の世界でもそうだが、頭の中の世界も同じだとシャーロは考えていた。

 今、頭の中にある構想をある程度形にして、問題点を掘り起こす。

 それから睡眠をとれば、一歩先んじることができる。

 かなり身勝手な、しかも観念的な論理に従って、シャーロとダンは深夜まで“怠け箱”の改良に取り組んだ。

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